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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「邪馬壹国」の位置」

2015年06月22日 | 古代史

 このように「伊都国」と「奴国」の領域について考察したわけですが、それは必然的に「邪馬壹国」の領域としてやや南方に下がった位置を措定することとなりますが、古田氏は(正木氏も)「邪馬壹国」の領域として「博多湾」に面した「筑前中域」と称する領域を措定していますから、上に展開した私見とは異なります。
 古田氏は「卑弥呼」が「魏」の皇帝から下賜された宝物類に良く似たもの(構成)が「須久・岡本遺跡」の遺跡群から出土するとしてこれが「卑弥呼」の「墓」と理解しているようですが二つの点で疑問があります。一つは「薄葬令」です。
 「魏」の「曹操」とその息子の「曹丕」は共に「薄葬」を指示し、墓には華美な宝玉類を入れないようにと遺言しています。「卑弥呼」が(あるいは「倭王権」が)これを守ったなら墓からはそのような宝玉類は出てこないでしょう。そう考えると、これらの宝玉類はそのような「薄葬令」が出される以前の墓ではないかと考えるべきことを示すと思われます。「卑弥呼」の墓を造るに当たっては「難升米」や弟王あるいは次代の王である「壱与」などの意志が関与していると見られますが、彼らが「魏」の朝廷の意志や「薄葬令」を知らなかったはずはなく、無視などはできなかったはずです。
 また「卑弥呼」の墓は「魏」から「張政」が「告諭」のために来倭中に造成されたものと見られますから、いわば「魏」の使者の監視の下で作られたこととなります。そうであればなおのこと「薄葬令」を意識せずにはいられなかったでしょう。とすればこの時「」は殉葬したものの「宝物類」は埋納されなかったと見るべきこととなります。そうであればこの「豪華」な副葬品が出土した「須久・岡本遺跡」という地域は「邪馬壹国」ではなくそれ以前の「倭」の代表権力者であった「奴国」の領域と考えるべきこととなるでしょう。
 「奴国」はそれ以前の「倭王権」の中枢であった時期があったものと思われ、その時代に中国と関係ができ「宝物類」を下賜されたことがあったものとして不自然ではなく、それらを「埋納」したということが考えられます。(そもそも「皇帝」からの下賜品というのはそれほどバリエ-ションがあったとも思われず、「倭」など「夷蛮」への下賜品としてはある程度決まっていたという可能性が考えられるでしょう。その意味では「卑弥呼」への下賜品と似た内容となったとして不思議はないと思えます。) この地域が「奴国」であったという可能性は「二万余戸」という人口にも表れており、「博多湾岸」のかなりの部分を占めなければこの人口を収容できないと思われます。「博多湾岸」を「邪馬壹国」が占めるとすると、「奴国」の領域は(西側の)「山」に押し込められかなり狭くなるでしょう。それでは「二万余」という人口を格納できないと思われるわけです。(でなければ正木氏のように唐津付近まで「奴国」の領域を広げる必要があると思われますが、それでは「博多湾」の防衛を担うはずの「一大率」の存在が浮いてしまうでしょう。)

 もう一つは「水城」の存在です。「水城」の構造の解析から、その基礎部分には「敷きソダ構造」が採用されており、その最下層の「ソダ」の年代判定として「卑弥呼」の時代まで遡るものもあるとされています。(※1)
 「水城」の位置とその構造から考えて、「水城」は首都防衛の重要な施設であったと見るべきこととなりますから、「水城」よりも海岸に近いところに首都があるとすると「水城」の存在意義と反してしまうでしょう。これは後世の太宰府などと同様「首都」となるべき領域は水城の「背後」にあると考えなければならないと思われます。(「狗奴国」との戦いの中で構築されたものでしょうか)それを示すように後に「元寇」に備えて造られた「防塁」は「海岸線」に存在していました。この時代は「博多湾岸」にその九州統治の中心があったものであり、その防衛線はそれよりも海岸側に造られて当然であることをしめすものですが、それは「水城」によって防衛されるものも当然「水城」の背後になくてはならないことを示すものです。
 さらに「神護石」遺跡の分布も「筑前中域」にはその中心がありません。それよりも「筑後側」に偏した付近にその防衛すべき主体があったと見る方が正しいと思われます。もちろん全ての「神護石」遺跡が「卑弥呼」の代まで遡上するというものではありませんが、「祭祀」に使用された遺物の時代判定からは一部についてはやはり「三世紀」付近までその起源が遡上すると考えられるものもあるとされます。そう考えると、「水城」や「神護石」という重要拠点の防衛として構築されたらしい遺跡の存在から考えて、「博多湾岸」ではなく、そこから一歩下がった現太宰府付近にその中心があったと見るべきでしょう。
 それはまた「倭人伝」に記された「伊都国」からの「行程」からも推定できます。 伊都国からの距離として(「魏使」の常に留まるところと云うのが現平和台付近としてそこから出発したとする場合)「不彌国」を経由した合計距離として計二〇〇里程度というのですから「実距離」として15km程度が推定され、これを地図で確認すると「太宰府付近」までその範囲として含むことが可能と思われますから、位置関係としては矛盾しないと思われます。

 「一大率」は「伊都国」において「刺史の如く」存在しているとされますから、「王」には実権がないものと考えられますが、このようなこととなった経緯については以下の通りと考えられます。
 「伊都国」は「黥面文身」の本拠とでも言うべき領域であり、またその領域はほぼ「海浜」に限定されていたと思われます。つまり彼らは基本的に「海人」であったと思われるわけですが、しかし「邪馬壹国」率いる諸国は「後漢」との折衝を経て以降「律令制」と「国郡県制」のような階層的行政制度を構築しようとしたと推定され、その中心は「農業」であったことが「伊都国」の衰亡に関係していると思われます。
 中国においては「農業」が基本であり、「稲作」と「養蚕」というように男女の労働負担の振り分けも(慣習ではあるものの)決められていました。これを「倭」でも取り入れようとしていたと思われるわけですが、「倭人伝」には「倭」が「漁業」、つまり「海人」が中心の領域であるように書かれています。「末廬国」の描写のところやそれ以外でも「黥面分身」の風習や「沈没して魚介類を捕る」というようなことが書かれており、「魏使」にとって珍しいものであったことが窺えます。しかし「租賦」を納める「邸閣」の存在が書かれているように、当時の「倭」では「租」が人々から徴集されていたと思われますが、これは「穀類」であり、その中心は「稲」でした。「稲作」には広い領域を必要とし当然その中心は「内陸」となります。これは即座に「奴国」「邪馬壹国」などの領域の方が「租」の実量において多数を占めることを示し、相対的にこれらの国々の方が政治的実力も高くなることとなったことが推定できます。
 「賦」については「布帛」つまり「絹織物」を中心とした繊維類や各国の特産物などを貢納するというようになっていたものと思われ、魚介類なども当然この中に入ってはいたと思われますが、税の主体が「穀類」となったことは動かしがたく、その意味で「邪馬壹国」について「倭人伝」で戸数が「七万」という大きな数字とされていることは重要です。このような戸数は「東夷伝」全体でもどの国にも見られずその意味で「邪馬壹国」がずば抜けて大きな人口を保有していたことがわかります。このことからかなりの量の「租」が「邪馬壹国」から収集可能であったものと思われ、それは即座に「邪馬壹国」の「政治力」の増大につながったものと思われます。
 つまり、「稲作」そのものは当然国内では以前から行われていたものですが、それが「税」の中心となるという事態に立ち至って以降「海人」の国である「伊都国」はその体制の中心から遠ざかることとなったのではないかと推察されるわけです。

(※1)古田武彦『俾弥呼 鬼道に事へ、見る有る者少なし 』2011年ミネルヴァ書房

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「東南陸行五百里至伊都国」の謎

2015年06月22日 | 古代史

 「末廬国」の「政庁」所在地を「鏡山」付近と見たわけですが、ただしこの想定では「東南五百里至伊都国」という表記の「東南」という方向指示と整合しなくなります。上のように「伊都国」が「伊都平野」にあるあるいは「博多湾」に面しているといういずれの理解においても、明らかに「終点」への「大方向」としても「始発時点」の方向としても「東南」ではなく、どちらも「東」あるいは「東北」といった方が適切なこととなります。ではなぜ「東南」という表記がされることとなったのでしょう。

 そもそも、この「方向指示」については「始発方向」であるという「古田氏」の理解がありますが、それは疑問ではないでしょうか。なぜならこの「倭人伝」の記載の原資料として有力視されるものは「卑弥呼」への金印他を「仮授」するために派遣された「建忠校尉梯儁等」による「復命書」と、さらにその後「狗奴国」との争いについて「告諭」のために訪れた「塞曹掾史張政等」の報告書も原資料の中で大きなウェイトを占めていただろうと思われるからです。
 たとえば「告諭」に対して「邪馬壹国」率いる「諸国」や「狗奴国」が仮に従わなかった場合、「魏」としては本格的な軍事介入をしなければならない可能性もあり、そう考えると「復命書」は「軍事的」な情報という側面を必ず持っていたものと思われます。そう考えた場合「始発方向」にどれほどの軍事的価値があるといえるのでしょうか。それよりも重要なことは「大方向」であり、そこに至るまでの日数と道のり距離であって、その途中に横たわる障害の有無です。
 つまり、川や谷あるいは山や峠の情報は必須であったと思われると同時に「大方向」つまり目的地の出発地から見た方向と日数あるいは距離がそこに明確に読み取れなければ「軍事的情報」の価値は著しく減少するものであり、「復命書」の目的を果たしているとはいえないと思われます。たとえば古田氏も言うように「唐津」からは「一本道」ではありません。複数の方向へ進むことが可能であり、しかもその「分岐点」は一個所ではありません。
 つまり「伊都国」へ海岸沿いに進むためには、もし「唐津港」付近に上陸したとして出発地点もその付近を措定すると、そこから東南に行くとまず松浦川沿いに南下するルートとの分岐点があり、それを越えて東に行くと今度は「玉島川」に沿って「東南」方向へ行くルートとの分岐の場所が存在します。このルートが魏使の通った路であるという理解もあるぐらいですから(それが正しいかは別として)、このように分岐点を複数通過することを考えると、「東南」の一語で進行方向を指示することにはほとんど意味がないこととなってしまいます。そうであればこの「東南」とは始発方向を示すものではないと考えられることとなるでしょう。それはたとえば「倭」の所在する場所として「倭人伝」冒頭に「帯方の東南大海の中にある」という言い方にも現れていると思えます。ここで「東南」とされているのは決して「始発方向」ではなく「倭」の位置についての「大方向」表示であり、このような「大方向」表記が「倭人伝」の各々の区間表記としても有効であったと見るべきであって、「伊都国」の場所についての「東南五百里」というものも「大方向」表記ではなかったかと見られることとなるでしょう。
 しかし「末廬国」から「伊都国」へと向かう場合、これが「伊都平野」や「博多湾」を目指すものとすると、行程のほとんど全ての区間において「東北方向」へと進行することとなってしまいます。このような状況下で「東南」と書いてそれで「軍事的情報」として有効であるとはとてもいえないでしょう。これを読んだ「皇帝」あるいは側近達は「伊都国」が実際にはほとんど「東北」方向に位置していることを全く理解できないと思われます。このようないわば「不正確」な情報を報告しては種々の点で甚だ不都合と思われます。
 しかし、かといって「末廬国」から「大方向」として「東南」に実際に進むとすると「松浦川」沿いに進行するのが最も考えられわけですが、このルートでは決して「博多湾」や「伊都平野」にはたどり着きません。逆に筑後方面(吉野ヶ里方面)へと出てしまいます。ここに「伊都国」があり「一大率」がいたと想定することも可能かも知れませんが、やはりそれは無理があるでしょう。なぜならその場合「一大率」が担っていたと思われる「邪馬壹国」以北の防衛はできないこととなってしまうからです。特に重要港湾であったはずの「博多湾」の防衛が不可能となります。あくまでも「吉野ヶ里付近」に「伊都国」があったとしてそこから「一大率」が「博多湾」の防衛を担っていたとすると「伊都国」の領域が相当広大なものとなってしまいますが、それはちょっと想像の域を超えます。
 このように「矛盾」が発生するということを考えると「東南」という方向表示に問題があると考えられることとなるでしょう。これはやはり「東北」と書くべきものであったのではないでしょうか。古田氏が厳しく戒めたように安易な「書き間違い」というような理解はするべきではないのはもちろんですが、論理的に考えた場合方向表記に問題があるとみられる以上、そこに何らかの錯誤があると考えざるを得ないものです。これがどの段階で発生した錯誤なのかは何ともいえませんが、原資料となった「復命書」に問題があったというよりその後の書写などの段階ではないかと考えられるものの、詳細は不明です。ただし、その錯誤の発生するメカニズムとしては「倭」の位置する大方向が「郡治」からみて「東南」であるという観念に縛られたものではないかと推測され、そのため「東南」と誤られたという可能性が考えられるでしょう。

(この「東南」という表記に関しては『三国志』の原史料とも言われる『魏略』にすでに「東南」とあったらしいことが知られ(『魏略(逸文)』として残る『翰苑』(卷三十)に「…又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之 東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓 柄渠 其國王皆属女王也…」とあります(2015/08/19追記))

 結局「東北陸行五百里到伊都國」という表記が本来のものであったとして考えると、上記の推察のように「博多湾」に面して「伊都国」があったこととなるでしょう。そして、そこが「伊都国」とされていることは、その「伊都国」という領域がかなり(海岸に沿った形で)東西に長い形状をしていたということを示唆するものです。
 後の「鴻臚館跡」の場所は現在の「常識」では「奴国」の領域とされていますが、私見では「奴国」の領域は必然的にもっと内陸側にその中心があったと考えられ、「須久・岡本遺跡」のある場所付近がいわゆる「奴国」ではなかったでしょうか。
 「博多湾岸」全体はその後「奴国」の領域となったとみられますが、それは「伊都国」の権力が衰微し、その後「奴国」側がその領域を自家のものとしたという経緯があったからということが推察されます。(そもそも「一大率」に事実上の統治権を奪われていた「伊都国」がそれほど支配領域を強く長く維持できたはずがないとも言えるでしょう)

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「伊都国」の位置と「末廬国」の「津」

2015年06月22日 | 古代史

 ところで、「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」という文章からは「一大率」が「津」においてその権能を発揮していたことを示しますが、それは当然魏使の上陸地点である「末廬国」におけるものと見るべきでしょう。すると「末廬国」に「一大率」(あるいはその関係者)が所在していたということが考えられることとなります。そのことと『倭人伝』において「末廬国」だけが「官」について言及されていないことは関係していると思われるものです。その理由としては他の諸国のように「邪馬壹国」から官僚が派遣されていたわけではないことが窺え、この国が「一大率」の支配下にあり、「一大率」により「直轄」が行われていたということが考えられるところです。
 「正木氏はこの「官記載」の欠如について「通過」しただけであったからという理解をしているようですが、それはいかにも不自然でしょう。「魏志」という重要人物の訪問を「政庁」に寄らないで単に通過に留めるというのもまた考えにくいものです。しかもそこには「戸数」が表記されており、そのように戸数表記があるということはその国の官から戸籍に関する情報の提示を受けたことを示すものと思われ、それは「魏使」が政庁に赴いた蓋然性が高いことを示すと推量します。
 つまり「末廬国」には通常の官僚はおらずすべて「一大率」という軍事関係者で占められていたという可能性が高いと思われ、そうであれば「官名」が書かれずとも不自然ではありません。彼らにより「戸籍」の作成やその管理などが行われていたものとみられ、表記された「戸数」は「一大率」の関係者から提示を受けたものであると見られるわけです。

 既に述べたように「一大率」が最も防衛すべきものは「首都」であり「邪馬壹国」ですが、それが所在する場所に最も至近の港は「末廬国」にはありません。「首都」である「邪馬壹国」は「博多湾」の内奥にあったと見られますから、「一大率」の本拠も当然「末廬国」にはないこととなります。そう考えると「末廬国」には正式な外交使節の対応を行うべき「外交官」的人物が配されていたものの、いわば「出先」としての機能でしかなかったこととなるでしょう。つまり「一大率」は「博多湾」において首都防衛のための軍事力配備を主として行うとともに、「末廬国」の「津」で外交使節の受け入れと送り出しという業務を従たるものとして行っていたものと考えられるわけです。
 この「皆臨津搜露」の「津」が「末廬国」の「津」であると考えるのは当然ですが、上に見たように「郡使」の常に「駐」(とどまる)ところとされる「一大率」の本拠地が「博多湾」に面しているとして、そこが「首都」防衛に適した拠点であるとすると、後の大津城などがそうであったように、現代の平和台付近を想定すべきとすると、『倭人伝』の「末盧國…東南陸行五百里、到伊都國」という記事を「逆算」して、平和台付近から「五百里」(これを約40㎞程度と見る)「西」の方角へ移動すると(唐津街道を使用したとして)「唐津城」の手前までで40㎞をやや越えるぐらいになり、それ以上遠くへは届かないと思われます。そう考えると、唐津半島先端の「呼子」付近とはいえないこととなる思われるわけです。
 また「呼子」付近を「末廬国」と想定するのは『倭人伝』内で「一大国」から千里とされた里程からみると少し近すぎるという点も疑問とするところです。その意味でも「唐津」付近の方が整合すると思われます。

 この「唐津」には「松浦左用姫」の伝承で名高い「鏡山」があり、この「鏡山」はその伝承が示すように「唐津湾」を遠くまで一望できる要所ですから、ここに「一大率」の出先が陣を張っていたという可能性が考えられます。その「松浦左用姫」の伝承は「五世紀」のものとされますが、その中で「大伴狭手彦」がこの「唐津」から半島へと向かったとされているのも、この地が以前から「一大率」の出先としての軍事的拠点でありまた外国へ使者を送る際の基地であった過去を反映しているという可能性もあるでしょう。

 そもそも「正木氏」も云うように「行程」の里数はその国の「政庁」的中枢の施設までのものであるはずですが、水行の場合は「港」までを指すものと思われ、そう考えると「末廬国」のように「水行」から「陸行」に変る地点においては、到着した「港」と「政庁」とが同一地点にあったと考える必要はなく、また実態としてもそれらが離れているとして考えて不自然ではなく、「政庁」まで若干の距離があったと見ることもできるでしょう。その意味で入港は「現唐津城付近」と思われるものの、「一大率」の出先機関が「鏡山」という軍事的要衝を押さえていたのは当然であることから、そこは「政庁」的役割をしていた可能性が考えられ、「魏使」はこの「鏡山」付近に至ったという可能性が考えられます。
 これについてはすでに「末廬国」の官名が『倭人伝』内に書かれていない理由として「一大率」が「末廬国」を直轄していたということをその理由として考えられることを述べたわけですが、そうであるならば「一大率」の出先と「末廬国」の中枢が一致していると考えるのは当然でもあり、「鏡山」に「末廬国」の中枢としての「政庁」的建物がありそこに魏使が引率されたと見て不自然ではないと思われます。

 このことに関連して、中村通敏氏は氏の著書(『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』海鳥社二〇一四年)で、「末廬国」~「伊都国」間として「西唐津」から「今宿」までのJR筑肥線の距離を粁程表から約40㎞と見出し、「伊都国」の中心を「怡土平野」の東端とされましたが、これは「上陸」地点と「伊都国」への出発地点を同じ場所ということを既定の前提としているようであり、上に見たようにその出発地点としては「鏡山」付近を措定するとした場合、JR筑肥線の粁程表をみるのであれば「虹ノ松原駅」からの距離を見るべきと思われ、「伊都国」の政庁位置としてはより東側へ移動することとなります。つまり、JR筑肥線の「虹ノ松原」からは「姪浜」までで39㎞となり、さらにそれに接続する福岡市営空港線の「姪浜」-「大濠公園」間が5.4㎞と算出されますから、合計で44.4㎞となります。これは「五百里」という距離表示が「正木氏」のいうように「日数」あるいは「刻数」からの換算であることを考えると、実距離としては大きな誤差ではないと判断できるでしょう。いずれにしても「博多湾」に面した地点まで「伊都国政庁」の想定地点は伸びることとなると思われます。(「末廬国」の「津」から「政庁」所在地としての「鏡山」までの距離は「倭人伝」には記載されていないものと見られ、それを除いて距離を見る必要があると思われるわけです。)

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「一大率」と博多湾防衛(改)

2015年06月22日 | 古代史

以前同じタイトルで記事を書いていますが、その補強的文をもう一度書かせていただきます。

 「倭人伝」の記述によれば「郡使」あるいは「皇帝」からの「勅使」は「いつも」「對馬国」を経て「一大国(壱岐)」~「末廬国」へと行くコースを使っていたと理解されます。

「始度一海、千餘里至對馬國。…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。…又渡一海、千餘里至末盧國。…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

 これによれば「一大国」を経て「郡使の往来」に「常所駐」とされる「伊都国」へという行程には途中「末廬国」を経由するというコースがとられていますが、これは「常用」されていたものと考えられ、いいかえればこのような往来には「博多湾」は使用されていなかったと推定されることとなるでしょう。
 つまり「郡使」などが「對馬国」へ来ると「一大国」を経由して「末廬国」へと意識的に「誘導」されたものと思われますが、それはその時点以降の移動が「軍事関係者」により「誘導」されたものであり、彼らが乗り込んできて強制的に「一大国」~「末廬国」へと進路をとらされたか、あるいはその目的で船を先導した(別の船で)という可能性が考えられますが、この「軍事関係者」というのが「一大率」である(その関係者)というのはまちがいないと思われます。つまり「對馬国」には「一大率」から派遣された担当官がおり、彼によって「一大国」経由で「末廬国」へと誘導されたという可能性が高いと思われるわけです。
 『倭人伝』には「狗邪韓国」までは「官」の有無を始め詳細情報が記されていないわけですが、「對馬国」以降はそれが書かれるようになります。そのことから「倭王権」の統治範囲は「對馬国」までであったと見られ、この間に「境界線」が存在していたものです。
 つまり「對馬国」はいわば「国境」にあるわけですから、そこに国境警備隊よろしく軍事力が展開していたとみるのは当然です。それはまた「女王国以北」の「諸国」について「一大率」が「検察」しているとする表現からも窺えます。当然「對馬国」に「一大率」の前線基地とでもいうべき「軍事基地」があったと見られ、そこに「斥候」「防人」の類の兵力があったと見るべきでしょう。

 また入港するに当たって「博多湾」を避け「末廬国」へと誘導した理由としても、「古田氏」が言うようにそこ(博多湾)が「重要地点」に至近であったからと思われ、この「湾」からほど遠くない場所に王都である「邪馬壹国」があったらしいことが推定されるでしょう。
 これは逆に言うと「敵」が「海」から侵入してくるとすると、「博多湾」が第一の経路であり、標的となることを意味します。であれば、これに対する防衛システムも博多湾を中心に展開していなければならないこととなるのは明白であり、「一大率」は(北方の防衛の拠点とされているわけですから)、「博多湾」に面してその拠点を持っていたと考えるのが相当と思われることとなります。
 というより「伊都国」が海に面した場所に拠点を持っていたからこそ、その「伊都国」の内部に「一大率」が配置されていたと見られ、「一大率」の主要な勢力が「水軍」であったことが重要な理由であったと思われます。
 つまり「博多湾」の防衛を考えると、そこには「首都」あるいは「首都圏」防衛のために水軍の基地があったとみられ、「軍船」が常時停泊していたものと思われます。さらにそこには「一大率」の拠点としての「城」がなければならないのは当然と思われ、そのような場所に外国使者などが直接入港することを避けるのは当然ですが(軍事情報を隠蔽する意味もあると思われますが)、そう考えると、博多湾に面した場所に「伊都国」の領域があったということとならざるを得ません。

  『書紀』の「壬申の乱」の描写によれば、「近江朝」からの出兵指示に対して「筑紫大宰」であった「栗隈王」はこれを拒否していますが、その言葉の中では「…筑紫国者元戌邊賊之難也,其峻城深湟,臨海守者,豈爲内賊耶,…」とされており、ここでは「城」があり、それが海に臨んで立地しており、「城」そのものも険しく(急峻な城壁を意味するか)、また堀も深いとされます。このような「城」が実際に存在していたと考えて無理はないでしょう。「栗隈王」が言うとおり、それは「外敵」からの防衛のためには当然必要であったと思われるからです。またそれは「七世紀」に限った話ではなかったはずであり、それ以前からこの「博多湾」に望む位置が軍事的に重要なものであったことが推察されます。
 後の「鴻臚館」のあった場所(これは後に「博多警固所」となり、また「福岡城」となります。)には「大津城」という「城」があったことが推定されており、また「主船司」も至近にあったらしいことが推察されています。(※1)
 このようなものは当時(平安時代)の「新羅」などの侵入に対する「博多」防衛のためのシステムですが、その趣旨は「一大率」という存在と酷似するものではないでしょうか。つまり、「伊都国」に「治する」とされている「一大率」もこの「鴻臚館跡」付近にその拠点を持っていたという可能性が考えられ、それはこの場所が元々「伊都国」の領域の中にあったのではないかと考えられることを示すものです。
 また「伊都国」には郡使などの往来に際して「郡使往來常所駐」、つまり常に駐まるところとありますから、「伊都国」には「外国使者」の宿泊施設や「迎賓館」のようなものもあったと思われます。これはまさに後の「鴻臚館」につながるものであり、その「鴻臚館」が「軍事拠点」としての「大津城」などと同じ場所にあったことが推定されているわけですから、「卑弥呼」の時代においても「一大率」の拠点と至近の場所にあったと考えるのは不自然ではないこととなるでしょう。(外国使者に対する警備上の観点からも至近に存在した可能性が高いと思料します)

 これは少なくとも「末廬国」から「一大率」の拠点としての「施設」までの案内は「一大率」配下の人員が行ったことを推定させるものであり、さらに云えば「卑弥呼」への面会から帰国までを全面的にサポートしたのも「一大率」配下の人員であったことを示唆するものです。それもかなり高位の人間が直接出向いたという可能性が考えられ、「魏」から「銀印」を下賜され「『率』善校尉」という軍事的な称号を授けられた「次使都市牛利」がその任に当たった可能性が強いでしょう。
 この「『率』善校尉という軍事的称号についても「一大『率』」と関連して考えるべきという論もあるぐらいですが(※2)、「魏」の制度の「校尉」とは「軍団の長官」に与えられる称号であり、与えられた「銀印青綬」も「軍団の長官」という官職に対するものとして整合しているものです。
 また後の「隋使」や「唐使」を迎える際にも最上位の官僚が出迎えてはいないことから、このときも「大夫」とされる「難升米」が出向いたものではなかったと思われ、「次使」とされる「都市牛利」は「大夫」ではなかったらしいことが推察されますから、彼が「郊迎の礼」をとったという可能性が高いと思われます。(このことから「都市牛利」が「一大率」の出先機関の長として存在していたと推定されるものですが、後の「松浦水軍」の関係者として現在もこの周辺に「都市」姓が遺存していることは瞠目すべきことです。この「一大率」の主たる勢力が「水軍」であるのは論を待ちませんから、それが「松浦水軍」へと連続しているという可能性は高いものと推測されます。そうであれば「都市」姓そのものも「一大率」から続いているということもまた考えられるところとなるでしょう。(※3))

 このように「一大率」の拠点として「對馬國」と「博多湾岸」そして「唐津湾」が考えられるわけですが、それを示すのが「兵器」の出土分布でしょう。
 この「卑弥呼」の時代は既に「鉄器」の時代に入っていると思われるわけですが、主たる「兵器」がまだ「銅製品」であったことも間違いないものと思われ、その「銅製兵器」(矛、剣、戈)についてその主な出土範囲を見てみると(もちろん「福岡県」が突出して最多領域であるわけであり、即座に当時の「王権」の所在地を明確に示しているわけですが)、「對馬國」に当たる「対馬」と「博多湾岸」に相当する「筑前中域」に偏っていることが明かになっています(※4)。これについては「対馬」を「兵器祭祀」の場と考えたり、「卑弥呼」の「」の場所と関連づけて考える論(古田氏による)がありますが、「兵器」の存在はそこに「軍事勢力」があったことを意味するものと理解するべきであり、そう考えれば「一大率」との関連を考えるほうが正しいものと思われます。つまり国境防衛の拠点である「対馬」と首都防衛の拠点としての「博多湾岸」に「軍事力」が展開していたことを示すと考えると出土状況と整合するのではないでしょうか。この「兵器遺物」の出土状況は、それが「一大率」の拠点の場所を意味する、あるいはその存在につながるものと考えるのは自然なことと思われるわけです。
 また「唐津」にこのような「兵器遺物」が少数しか見られないのはそこが「軍事拠点」というより「外交拠点」であったからと見ればすでにおこなった推定と矛盾しないものと思われます。

(※1)佐藤鉄太郎「実在した幻の城 ―大津城考―」(『中村学園研究紀要』第二十六号一九九四年)
(※2)三木太郎「一大率とソツヒコ」(『北海道駒澤大學研究紀要』一九七四年三月)
(※3)内倉武久「理化学年代と九州の遺跡」(『古田史学会報』第六十三号 二〇〇四年八月)
(※4)樋口隆康編『古代史発掘五 大陸文化と青銅器』講談社一九七四年 

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