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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「戸」と「家」の違い(三)

2015年06月03日 | 古代史

 ところで、近年、「古田氏」により「一大率」に対する理解について、「一大国」の「軍」を示すものという見解が示されています。
 その当否を考える上で重要であると考えられるのは、「一大国」が「家」表記であることです。「倭人伝」の中では「不彌国」と共に「家」表記がされており、この意味を考える必要があると思われます。
 
 「倭国王権」による民衆の支配と把握については、各国ごとにやや強度が異なるものであったという可能性はありますが、少なくともこの「邪馬壹国」への「主線行程」とも云える国々についてはそのような差はなかったのではないかと思われます。なぜならこれらには「官」が派遣されているからです。「派遣」された「官」の第一の仕事は「戸籍」の作成ではなかったかと思われますから、「戸籍」がなかったというようなことは想定しにくいこととなります。
 つまり、「家」で表記されている国である「一大国」と「不彌国」についても「戸籍」は存在していたと考えられ、「倭人伝」で表記の差が現れているのは、単に「戸籍」に関する情報が「魏使」に提示されたかされなかったかの違いであると考えられます。
 つまり、「一大国」及び「不彌国」については「魏使」に対して「戸籍」に関する資料、情報を提示しなかったと言うことが推定されることとなるでしょう。そして、その理由については詳細は不明ですが、推測すると「戸籍」というものが多分に「軍事的情報」を含んでいるからではないでしょうか。

 「三国志」における「家」の出現例を見ていくと、「軍事」と関係しているという可能性が窺えます。

「太和元年…十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。…魏略曰:達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。」「三國志/明帝 曹叡 紀第三/太和元年」

 「三国志」中では「家」は通常の「家」(いえ)という場合の使用例が圧倒的ですが、「数量」の単位として現れる場合は(ここでは「四千餘家」という表現がされている)特定の場合に限られるようです。
 上の例では「部曲」として書かれていますが、この「部曲」は「部隊」を構成する単位を示す用語であり、ここでは直接的に「兵隊」を意味するものとして「家」が使用されています。
 また「以下」の例では「流入した」者達が「家」で表され、彼等は「部曲」(兵隊)となっており、そのため「軍事力」ばかりがあって「生産力」がないという意味のことがいわれています。

「衞覬字伯儒,河東安邑人也。少夙成,以才學稱。太祖辟為司空掾屬,除茂陵令、尚書郎。太祖征袁紹,而劉表為紹援,關中諸將又中立。益州牧劉璋與表有隙,覬以治書侍御史使益州,令璋下兵以綴表軍。至長安,道路不通,覬不得進,遂留鎮關中。時四方大有還民,關中諸將多引為部曲,覬書與荀曰:「關中膏腴之地,頃遭荒亂,人民流入荊州者十萬餘家,聞本土安寧,皆企望思歸。而歸者無以自業,諸將各競招懷,以為部曲。郡縣貧弱,不能與爭,兵家遂彊。」「三國志/魏書 卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一/衞覬」

 他にも多数の例がありますが、それらはいずれも「家」と「軍隊」の間に強い関係を窺わせるものです。
 そもそも「魏」の「曹操」は、「屯田」を配置しそこからの収穫物を全て自家のものとしていました。これは「地方統治」の方法として「兵士」に開墾させ、糧食を確保させると共に一旦急あれば「武器」を取って戦うという体制を築いたものです。そのために配置された軍人は「兵戸」という専用の「戸制」に登録されていたものであり、それらに属する者達は「家」で数えられていたものです。 
 また以下の例は「冢守」(墓守)について「家」で表示している例です。

「…仁少時不脩行檢,及長為將,嚴整奉法令,常置科於左右,案以從事。?陵侯彰北征烏丸,文帝在東宮,為書戒彰曰:「為將奉法,不當如征南邪!」及即王位,拜仁車騎將軍,都督荊、揚、益州諸軍事,進封陳侯,邑二千,并前三千五百?。追賜仁父熾諡曰陳穆侯,置十家。後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽,詔仁討之。仁與徐晃攻破邵,遂入襄陽,使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北,文帝遣使即拜仁大將軍。又詔仁移屯臨潁,遷大司馬,復督諸軍據烏江,還屯合肥。?初四年薨,諡曰忠侯。…」「三國志/魏書卷九 諸夏侯曹傳第九/曹仁」

 ここでは「曹仁」について「封戸」を「三千五百戸」に増やすとされているのに対して、彼の父の「墓」(冢)の「守冢」について「十家」とされています。このように「守戸」や「」というような人達については「通常」の「戸制」に登録はされませんでした。(後の「隋唐」でも同様であり、それを踏襲したと思われる「大宝令」などにもそれは継承されています)

 これらの例から考えて、「魏」の「通常の戸籍」ではない戸籍に登録されている場合「家」を使用するものと思われ、それは「夷蛮」の国において「戸制」が十分整備されていない場合や、「魏」とは異なる戸制の場合にも適用されると見られます。(「呉」や「蜀」がこの場合でしょうか)

 「軍団」は兵士の集団であり、その兵士は住民から徴発するわけですから、住民に対する「居住」の状況(年齢、性別などの諸情報)が把握されなければ「兵士」として徴発することができないのは明らかです。
 どこにどれだけ「兵士」になりうる人間がいるのかを把握できなければ「常備軍」も「臨時」の軍編成もできるものではありません。
 そう考えると、「一大国」と「不彌国」の両方が「家」表示であるのは、その両国の「戸籍」がほとんど「兵戸」であったからではないかということが考えられます。
 ただし、「兵戸」であることを「倭国側」の官(これは「一大率」か)が「魏使」に告げたかどうかは不明です。それは即座に「軍事情報」とも言えますから、秘密にしたということも考えられますし、「他国」からの「流民」などについては「家」で表記するというルールらしいものもあったようですから、それを「装った」という可能性もあります。
 それは上の「一大国」の記事においても、特記すべき事として軍関係の表示が全く無いことからも窺えるものです。
 もし「一大國」「家」が「兵戸」に基づくとしたら、「一大国」には「軍事」に関する何らかの表象があったはずと思われますから、必ず「魏使」はそれを明記したことでしょう。(軍事情報は最優先事項でしょうから)
 それが書かれていないと言うことは、「家」の正体を「倭国」側は明らかにしなかったという可能性が高いと思料します。つまり「倭国王権」は「戸籍」の開示をしなかったばかりか、国内(島内)の「軍事情報」を意図的に「隠した」のではないでしょうか。
 「魏使」を案内するにもそのような施設を見せないように迂回させたものと考えられます。(「倭人伝」の距離表示が「壱岐」と「対馬」については「半周読法」である理由もそこにあるのかも知れません。つまり、反対側の「半周」には軍事基地等があったという可能性もあると考えられます)
 そして、それは「不彌国」についても同様であったと推測できます。
 「不彌国」は「邪馬壹国」の至近にあったと考えられますから、「首都」を防衛するものかあるいは「王権」そのものを防衛する役割があったと見られ、やはり軍事的拠点であったと考えるべきでしょう。それは「首都」の近傍にしては少ない「家」の数からもいえると思われます。そのことは「不彌国」を構成する人達はほとんどが「兵士」であったことを推測させるものであり、通常の「国」の構成とは全く異なっていたと考えられることとなります。

 これらのことを考えると、「一大国」には「軍事拠点」があったと推定されることとなり、「一大率」という名称はそれが「一大国」の軍事力の前線基地として機能していたことを示すものであったという「古田氏」の推定が正しいことを示すと思われます。
 (「壱岐」の「原の辻遺跡」からは「鉄・銅・骨」などの各種「鏃」や「短甲」「投弾」「烽火跡」など「軍事」に関係するものが多く出土しています。また「港湾施設」と思われる遺跡が出土し、そこには「堤防」と考えられる遺構に「敷きソダ工法」が使われ、「水城」などと同様の建設手法であることが確認されています。その意味でもこの「壱岐」という島が軍事に特化した地域であったらしいことが推測されています。)
 既に検討したように「一大率」は海外からの使者などについては「一大国」以降「末廬国」の「唐津」へ誘導しそこで「外交文書」その他貢献物などの確認等の行為を行った後「伊都国」にあった「宿舎」(迎賓館も含むか)へと案内していたものであり、「一大国」以降「一大率」の監督下に入ったものと見られることとなります。それらの事から「一大国」と「一大率」には重要な関係があるのは確実であり、「伊都国」に展開している首都防衛のための防衛線として「防人・斥候」的役割をする部隊が「一大国」にいたことを示すものであり、これが一大率の真の本拠地であったという可能性も考えられるところです。
 また同じ軍事情報でも「伊都国」に「一大率」が存在しているということが「秘密」とされていないのは、「伊都国」に「郡使」が「常駐」するという環境の結果であると考えられます。
 「伊都国」は「千余戸」という少ない戸数が記録されており、そのことからも「一般民家」の少ない「公的エリア」であったことが推定され、「軍団」についてもほぼ「露出」しているような状態であったのではないでしょうか。つまり「隠しようがなかった」というような事情によって「一大率」についての情報が記載されると言うこととなったものと思われます。
(「実際」に「戸」と「家」との間の違い(差)はどれほどであったかというと、それは「戸」が示されない場合に「家」で表示していると言うことの中に既に現れているといえるでしょう。つまり「家」で「戸」数は代替できる場合が多いと「魏使」が考えていた証左であると考えられ、「家」はほぼ「戸」と等しいと考えられていたのではないかと思われます。)

コメント

「戸」と「家」の違い(二)

2015年06月03日 | 古代史


 以上によれば、基本は「戸」と「家」とはその意味も実態も異なると考えられる訳です。その差は何なのでしょうか。「私見」によれば、重要と思われることは「戸」が「公式」なものであり、「戸籍」にもとづくものであるということです。
 つまり「魏」からの使者が「戸数」を知るには、「戸」についての資料あるいはそれを元にした口頭説明などを「各国」の「官」から受ける必要があったと考えられます。明らかに「戸」とは「国家」(官)の把握・管理している対象としてのものですから、部外者がそれを知るためには何らかの「記録」を見る、あるいは担当官吏から「説明」を受けるというような手続きを経なければなりません。そうしなければ決して知ることのできない性質のものと思われるわけです。黙って外から眺めているだけでは「戸数」は判明しないのです。それに対して、「家」は外観から知ることが出来る性質のものであるといえるでしょう。無理すれば数えれば分かるものとも言えます。
 これを「倭人伝」に当てはめて考えてみると、「一大国」と「不彌国」だけが「家」表記されているわけであり、それは「魏使」が通過した際この両国については「戸籍資料」を見る機会がなかった、あるいはその際に引率・対応したと思われる「一大率」(あるいは彼から派遣された人員)が、そのようなデータを「秘匿」した(教えてくれなかった)というような事情があったものではないでしょうか。
 彼ら「魏使」達はそのような場合は何らかの方法(やや高いところからざっと家の数を数えたとか)で「家」の数を把握したと言う事ではないでしょうか。そのため「許」(ばかり)という「概数表記」がされているのだと思われます。
 「戸数」に使用されている「余」というのも「概数表示」であるように思えますが、表現を曖昧にしているだけで「概数」表記であるとは言い切れません。実際には「正確」に把握されているものの、それを全て書くと「冗長」なので省略しているだけという場合もあり得るからです。「許」(ばかり)の方は明らかに「正確な数量」を把握していない、という事の表れですから、内容は明確に異なると思われます。
 (「投馬国」と「邪馬壹国」の戸数表記に「可」という表記がされており、これも「概数」を表すものですが、ここでは「戸」が表記に使用されており、そのことから担当官吏から報告を受けた戸数そのものが「概数」としてのものであったと見られます。それは両国とも人口が多く、「詳細」な報告は煩瑣であるということを担当官吏が考えたからではないかと思われ、結果として「概数」が魏使に対して提示されたということではないかと推察します。)

 つまり「魏使」に対し「戸籍」という「資料」を提出したところとそうでないところがあったものと見られ、またそれは「魏使」としては「強要」するものではなかったということも考えられます。
 この「倭人伝」の原資料は、「卑弥呼」に対する「冠位」の賜与と記念品の贈呈を「魏」の皇帝に代って行なうために来倭した「帯方太守」の記録が主たるものであったと思われ、彼らの任務として「国情」の視察等は副次的作業であった訳ですから、「資料」を提示された場合は見るし、そうでない場合は推測するというだけのことではなかったでしょうか。その国ごとの対応(応接)の差が「戸」と「家」の表記の差になっているという可能性が高いと思われます。
 このことは、「魏使」が「邪馬壹国」まで行っていないとか、「卑弥呼」には面会していないというような理解が成立しにくいことを示します。なぜならそこには「戸数」が表記されているからです。
 上に見たように「戸」が「公的情報」であり「官」から提示説明された資料に基づくとすれば、「邪馬壹国」など「万」を超える戸数の国についてもそれが「戸数」で表記されている限り「類推」などではなく、根拠のあるものであることとなり、実際に「邪馬壹国」に行き「官」に面会し、各種の情報を入手したと考えるべき事を示しますから、当然「倭国女王」たる「卑弥呼」にも面会し、直接「魏皇帝」からの下賜品を授与したと見るべきこととなるでしょう。
 このように「戸数」表示があるところは「魏使」が実際に赴いたところであるということは「倭人伝」中の以下の文章からも推定できます。

「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」

 ここでは「其餘旁國」つまり「斯馬國」以下の「二十一国」については、実際に行くことが出来なかったから「戸数」表示が出来ないというのですから、「邪馬壹国」など「戸数」表示がされているところは「魏」の使者が実際に赴き「戸数」に関する資料の開示を受けた事を示すものでしょう。

 このように各国に「複数」の「官」が派遣され、しかもそれら各国にはほとんど「王」がいないとされ、また「戸籍」が整備されている点などを見ても、この時点の「倭国王権」がかなり強力な「中央集権的」存在であることが理解できます。このような機構は他の『東夷伝』には全く書かれておらず、「倭人伝」にしか見られないものです。つまり、「中国」以外では「例外的」に「倭国」に「中央集権的」権力がこの時点で存在していたことを示すものであり、それを「魏」の王権でも重視していたものであり、「親魏倭王」という称号を与えたのはそのような「高度」な統治体制を構築したことに対する「賞賛」を示すものであり、少なからず「畏敬」の念も含んでいたこととなるでしょう。

 このように「戸数」が「戸籍」に基づくという前提から考えると、先に計算した「韓」において「家数」と「戸数」とがかなり食い違うという事情については、「総人口」(総家数)に対して「戸籍」に編入されている割合(「捕捉率」とでもいうべきでしょうか)が地域によってかなり異なっていたという事情があると思われます。特に「馬韓」においてそれが顕著であり、三分の一程度しか「戸籍」に編入されていなかったらしいことがその「戸数」と「家数」の計算から推定できるでしょう。それに対し「弁辰」は「捕捉率」が高かったようであり、ほぼ一〇〇%戸籍に編入されていたらしいことが推定できます。その差は両国(地域)の「統治」の実情と関係していると考えられるものです。
 「馬韓」の場合「韓伝」の中に「其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。」という記事があり、このことは「支配力」が末端まで及んでいなかったことを推定させるものですが、そのことと「家」と「戸」の数量の間に乖離があると言う事が深く関係していると思われます。それに比べ「弁辰」においては同じく「韓伝」中に「法俗特嚴峻」とされており、「法」や「制度」がしっかり守られていたとされていて、「隅々」まで「統治」が行き渡っていたことが推定できるものですが、このことと殆どの「家」が「戸」として把握されていたと言う事の間にも深い関係があると推定します。
 いずれにしろ「倭国」とは異なり、「諸国」に「官」が派遣されているという体制ではなかったようですから、「戸籍」が未整備であったとしても不思議ではないと思われます。

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