古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

仁寿元年の舎利塔造営と倭国王権

2015年09月08日 | 古代史
 肥沼さんのブログ(※1)と古賀さんのブログ(※2)から「古代官道」と「国分寺域」の「塔」の建立が同時期ではないかということが議論されているのを知りました。(いずれも「武蔵」の話ですが)これは当方の理解では「寺」全体が同時に作られたものではなく「塔」を(先行してというより当初から塔だけを)造ることが目的であったことを示すものと思われるのです。そう考えると、思い起こされるのは「隋」の「高祖」(文帝)による「仁寿」年間の「仏舎利」塔の建造事業です。
 「文帝」は仏教に深く帰依し、仁寿元年(六〇一年)の自らの誕生日である「六月十三日」に合わせ、「詔」を出し国内外各地に「塔」の建造を命じました。

(大正新脩大藏經/第五十二冊 史傳部四/二一○三 廣弘明集三十卷/卷十七/佛篇第三之三/隋高祖於國內立舍利塔詔并瑞應表謝)
「門下仰惟。正覺大慈大悲。救護群生津梁庶品
朕歸依三寶重興聖教。思與四海之內一切人民俱發菩提共修福業。使當今現在爰及來世永作善因同登妙果。宜請沙門三十人 諳解法相兼堪宣導者。各將侍者二人并散 官各一人。陸香一百二十斤。馬五匹分道 送舍利。往前件諸州起塔。『其未注寺者。就有山水寺所。起塔依前山。舊無寺者於當州內 清靜寺處建立其塔。所司造樣送往當州。』僧多者三百六十人。其次二百四十人。其次一百二十人。若僧少者盡見僧為朕皇后太子 廣諸王子孫等及內外官人一切民庶幽顯生 靈。各七日行道并懺悔。起行道日打剎莫問 同州異州。任人布施。錢限止十文已下。不得 過十文。所施之錢以供營塔。若少不充役正丁及用庫物率土諸州僧尼。普為舍利設齋。 限十月十五日午時。同下入石函。總管刺史 已下縣尉已上。息軍機停常務七日。專檢校 行道及打剎等事。務盡誠敬副朕意焉。主者施行
仁壽元年六月十三日內史令豫章王臣暕宣」

 その「塔」を立てた日付というのは「十月十五日」ですが、それは「阿育王(アショカ王)」が「塔」を立てたという日付であり、自らを「阿育王」になぞらえたものであるというのもすでに研究があります。(※3) 
 もちろん「隋」には「倭国」は「柵封」されていませんでしたから、「半島」の三国がそうしたように「仏舎利」を分けてもらうように頼んだりはしなかったと見られますが(※5)、私見によれば当時の「倭国王権」は「宣諭事件」(※6)以来「隋」の「文帝」に対し「服従」の意思を示すことで関係を修復しようとしていたものと思われ、このような「塔」の建造を積極的に真似たものと思われます。その結果国内各地に「塔」の建造を命じたと推定されますが、ただし「隋」と異なるのは当時国内にはまだ「寺」そのものが少なかったものと思われますから、「塔」の建造を命じたとすると、当然「寺」とは全く別途に「塔」が造られることとなったものと思われ、結果的に「塔」が先行する形となったとみられるわけです。
 この時の「塔」は現在も中国とその周辺各地で遺跡が出てきます。たとえば現在のベトナムのハノイ市近郊において二〇〇四年に出土した「石板」はこの時に「舎利」を「奉納」した「函」の一部であったことが明らかとなっています。(※4)そして上に見るようにその「詔」には「其れ未だ寺を注‹さざるは,山水有る寺所に就き塔を起こすこと前山に依れ。舊に寺無くば,當州の內,靜なる寺處において,其の塔を建立せよ。所司は樣を造り,送りて當州に往Šけ…」とあり、「隋」においても「寺」より「塔」が先行した地域があったらしいことが推定されます。このことは「倭国」でも「塔」の建造が「寺」に先行する形で各地で進められたケースがあったと想定して無理がないことを示すものです。
 もちろん遺跡からはそこまで時期として遡上するともまた逆にそこまで遡上しないともいえない状況のようですが、「聖武」の「詔」に無理に引きずられない限りそこまで遡上する可能性を含んで考察する必要があるでしょう。
 後に「聖武」が「国分寺」を造るという段になって、この「塔」を取り込む形で「寺域」が形成された例が多かったと見られますが、古賀氏も述べていますように「塔」が本来寺域に占める位置にその遺跡が確認されている例が少ないのが現実です。「聖武」は「筑紫」に対して「大君遠朝廷」という敬称をしていた人物であり、「倭国王権」の「大義名分」を重視していたらしいことが知られますから、寺域の配置が示すものはそのようなことと関係しているかもしれません。もちろん建築技法の変化がその間にあったと見ると方位が異なるというのも当然といえます。

 また「古代官道」と同方位というのは「古代官道」というものも「隋」との関係の中で考えるべきことを示唆するものであり、「天子」を自称するような強い権力の発露が「古代官道」の造成にあったのではないかと考えられます。これらはほぼ「正方位」とされますが、「太宰府」の遺跡からの推定でも「正方位」からのズレは「1度以内」とされ、建築・土木の技術的に見て「古代官道」や「塔」と同レベルのものと思われますから、それらの年代としても同時期が推定されます。
 一般に「正方位」をとる建物や街区を構成する場合、遠方に見通しの利く「基準点」を設け、それを目安に「方位」を定めていくと考えられますが「大宰府政庁」の遺構の「第Ⅱ期」の場合、「朱雀大路」を南方に延長すると「基肄城」の門の一つと一致します。しかし「第Ⅱ期遺構」は「条坊」と「ずれている」事が判明しています。(使用された基準尺が異なると考えられているようです)
 「朱雀大路」は最終的に「政庁第Ⅲ期」段階で「条坊」の区画と整合しますが、それ以前の「朱雀大路」(政庁中軸線)の延長は「条坊」の区画の内部を通過しており、明らかに「条坊」を敷設した際の「基準点」は別にあることとなります。
 「大宰府」の南方で特に有力な「基準点」は「基山」であると思われ、この山の「山頂」を基準とした場合、そこからの仮想的南北線は「朱雀大路」ではなく、「右郭四坊道路」と一度以内の誤差範囲で一致します。
 また関東の前方後円墳の築造停止が考古学的に「六一〇年代」であると考えられていることも、この「塔」建立との時系列を考えると整合すると思えます。前方後円墳という存在が「古典的祭祀」と不可分のものであったとすると、「仏教」の中心としての「塔」の建造がそのような「古典的祭祀」の停止という内容を伴うものとなるのも当然であり、(それらは両立しないと思われます)そう考えれば至近の年次で前方後円墳の築造が停止されるのもまた道理であることとなります。


(※1)古賀達也『古賀達也の洛中洛外日記』第1031話 2015/08/22「多元的「国分寺」研究のすすめ(1)」 http://furutasigakukai.gates.jp/koganikki/など。
(※2)肥沼孝治『肥さんの夢ブログ』(2015年8月10日など)http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2015/08/index.html
(※3)今西智「隋の暦学者袁充その周辺 -仁寿年間における舎利塔建立の一背景-」(『印度學仏教學研究』第五十八巻第一号 二〇〇九年十二月)など。
(※4)河上麻由子「ベトナムバクニン省出土仁壽舎利塔銘、及びその石函について」(『東方学報』二〇一三年八十八号)
(※5)「大正新脩大藏經/第五十三卷 事彙部上/二一二一 經律異相五十卷/二一二二 法苑珠林百卷/卷四十/舍利篇第三十七/慶舍利感應表」によれば「…高麗百濟新羅三國使者將還。各請一舍利於本國起塔供養。詔並許之。…」とあり、半島三国には「舎利」が頒布されています。
(※6)『隋書俀国伝』の「大業三年記事」によれば「裴世清」は「倭国」に「宣諭」するために派遣されたことが窺われますが、「宣諭」とは「治安」の安定しない地域に対し派遣される「使者」の主たる責務であったものであり、「皇帝」の権威を示し紛争関係者に対し屈服を強いて平和裡に交渉することを強く求める意義であったことが窺えます。
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