古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「古田史学の会」のサイト掲載の論考について

2015年09月21日 | 古代史
「古田史学の会」のサイトにおいて会報が順次公開されていますが、最近一一〇号まで新たに追加されたようです。過去の会報はかなりじっくり読ませて戴き、研究の参考にさせていただきましたが、私が会員となった二〇一〇年度以降がなかなか公にならず、先行研究があるかどのような内容なのか調べきれない状態が続いていましたが、今回の公開で空隙が埋められました。担当の方(横田氏か)のご苦労が推察されます。
 自分の投稿したものも公開されましたが、その投稿した時点から四年経過しているわけであり、その短い間に研究の進展につれ論旨がやや変更になったものもあります。そもそも発展途上の極みともいうべき不完全さも多くあって、その意味ではかなり恥ずかしいものともいえます。しかしこれも自分の足跡の一部であり、公開されることについては甘受することとしなければならないでしょう。

 初めて採用された投稿である「「国県制」と「六十六国分国」 -「常陸風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連において」を改めてみてみると、基本的論旨は(当然ながら)変らないものの、遣隋使派遣時期についてその後考察して得られた知見を含んで改めて考えた場合「六十六国分国」事業の時期がもっと早まるという可能性があるというようにやや変更をしなければならないようです。
 上掲論文では『隋書俀国伝』記事を信憑しこれを六〇八年の事実として考えていますが、以前書いたようにそれがもっと遡上すると考えるべきこととなったわけですから、当然「六十六国分国」も遡上することとなります。いずれにしろその時期についてはこの「投稿」の中で「また、ここで施行されたと考えられる「国県制」というものは、明らかに「隋」の「州県制」に関連があると考えられるものであり、そうであればその導入は「隋代」である「五八〇年」から「六一八年」までの間に限定されることとなります。この間(あるいはそれ以前)中国に対し「制度」導入などの意図を持って派遣されたものは「倭の五王」以降は「遣隋使」しかないわけであり、そのことは即座に「国県制」が「遣隋使」によりもたらされたものであると推測されるものです。」と主張したことに尽きており、後はこの「隋代」の中で時間軸をどこに設定するかという問題に帰着します。
 ちなみに現在の当方の見解はこの「六十六国分国」の事業については、「仁寿元年」の「隋文帝」の「舎利塔」造営事業に関わるものであり、それを承けて当時の倭国王権も「舎利塔」の造営を行ったものであって(それは前回ふれたように各地に残る「古代官道」と同様に正方位をとる「塔」として遺跡から出土するものがそれに当たるものと見ています)、その造営とともに分国も同時に行われたと見て「仁寿元年」の至近の年に行われたものではないかと考えています。

 また「肥後」という記事の存在は即座に「六十六国分国」につながるものではないと考えるようになりました。これはそれ以前にすでに三十三国に分国されていたという記事との関連を考えるべきものと現時点では考えています。
 「筑紫」領域の拡大が「肥」の分割をうながしたものであり、「筑紫」の分割以前にすでに「肥」は分割されていたと思えるわけです。またそれは「肥」の地位低下と筑紫の比重の増大を意味するものですが、それは「磐井の乱」の記事において「筑紫」に本拠があるように書かれていることと関係しているようです。
 「江田船山古墳」から出土した黄金製馬具や冠などが百済王(武寧王)のものとほとんど違わないという事実からもこの時(五〇〇年付近か)の「倭国王権」の本拠がまだ「肥」にあったことは確実と思われますが、その後「筑紫」へ「遷都」したという可能性も考えられるでしょう。それは「対半島」との交渉の実務という点からの要請でもあったと思われます。その時点付近で行政制度の充実の一環として「九州島内」の倭国王権のお膝元というべきと地域に対し分国作業が行われたものと見ることができるでしょう。ただし「筑紫」が本拠となっていたとするとここが分けられることとなるのはかなり後のことであったと思われ、それが「六十六国分国」の時点ではなかったかと考えています。

 また「無文銀銭」についての議論である「「無文銀銭」 - その成立と変遷 -」についても同様に現在も基本的な部分では変わりありません。つまり「無文銀銭」は当初「隋代」に「五銖銭」の互換財として使用されるようになったものの「唐」が「開通元宝(開元通宝)」を鋳造し使用しはじめたため互換性を維持するためとして「銀小片」を付着させたものと見るべきというものです。ただ、現在はこの「無文銀銭」について、「倭国王権」において鋳造したものではなく、(多分)「新羅」から「貢納物」としてもたらされたものであり、その段階ですでに「貨幣状」になっていたものをそのまま「倭国王権」で「威信財」あるいは「交換財」として使用するようになったものと見ています。(この時点では銀の製錬技術などは倭国王権にはなかったと見られるため。)
 そしてその後「正式」に「開通元宝(開元通宝)」に対応するべく鋳造されたものが「冨本銭」であったと見て、その鋳造開始時期を従来の時期よりずっと遡上するものと考えるものですがその論はまた別途。
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