古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「檀林寺」と「筑紫尼寺」

2015年09月12日 | 古代史
 「橘嘉智子」が「檀林寺」に「筑紫」から「鐘」を持ち込んだとするとその対象となった寺も(檀林寺同様)「尼寺」であったものと推測され、その意味で「筑紫尼寺」という存在が注目されます。

「大宝元年(七〇一年)八月甲辰条」「太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」(『続日本紀』より)

 また寺封に関する記述からこの「筑紫尼寺」の創建は「観世音寺」と同時であるかのように受け取ることができそうですが、(もちろん同時並行して作られたと考える必要はありませんが)この両寺院がほぼ同時期に「筑紫」という同一の地域に建てられたとすると、この両寺院の「梵鐘」もやはり同時期に鋳造された可能性が高いと思われ、「観世音寺」と同じ木型が使用されたとみることはそれほど不自然ではないでしょう。その意味で「妙心寺」に伝わる鐘との共通性が高いものと推量できます。
 この「太政官処分」記事では「筑紫尼寺」は「観世音寺」と並んで書かれています。この「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺であり、また「元明」の勅願寺でもあるといえます。

「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」(『続日本紀』巻二より)
 
 また同様の文脈の中に出てくる「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとするのが通例ですから、ここに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であった可能性が高いと推量できるでしょう。そうであれば「桓武天皇」に始まる「天武系」から「天智系」へ尊崇する皇統を切り替えた中で、この「筑紫尼寺」が注目されたと言うことも考えられます。「桓武」の時代には「天武」の「国忌」が守られなくなるなど「天智」への傾倒が強くなったことが多くの諸氏の論により明らかとされています。その「桓武」は「橘皇后」の夫である「嵯峨天皇」の父であるわけです。
 「由緒」も正しくまたその音高も「黄鐘調」であったと思われるその「筑紫尼寺」の「梵鐘」がその後「橘皇后」の御願により建てられた「壇林寺」に移されたという想定はあながち的外れではないものと考えます。

 ただし、「観世音寺」の鐘と「妙心寺」の鐘には「銘文」の有無のほか微妙な違いがあり、若干「観世音寺」の鐘のほうがその製造時期として先行すると見方もあり、その意味では明らかな「同時期」とは言えない可能性もありますが、それがどの程度の時間差を伴うものかは不明とされ、同一の「木型」を使用しているとすると大きな時間差(年次差)は想定するのは困難ではないかと思われます。(同一の「鋳物師」によるとする説(※1)もあるようです。)
 (現在「観世音寺」では頒布資料などで「六八一年」製作としているようですが、これはその根拠となる事実関係が不明であるため、確定したものとは言えないと思われます。)
 さらに、この「筑紫尼寺」については『続日本紀』の誤記とする説が支配的であり、その理由のひとつとして資料から明確に「尼寺」と判断できる寺が「筑紫」周辺にないことがあるとともに、『扶桑略記』の中に上の『続日本紀』とほぼ同文記事があり、そこでは『筑紫尼寺』という寺院名が「削除」されていることがあり、さらにもし「筑紫」にそのような寺院があったのなら「観世音寺」がそうであったように「大宰府管内」の「尼寺」を統括する立場にあったはずであるのに、それを裏付ける資料がないとされていることなどが挙げられています。(※2)
 しかし『扶桑略記』のことで言えば『続日本紀』に比べはるか「後代史料」であるとともに、『続日本紀』にないような独立史料ならともかくほぼ同内容の記事ならばその信憑性は「先行史料」である『続日本紀』が優先されてしかるべきと思われます。(『扶桑略記』はその時点の「常識」で書き換えられているという可能性が考えられるでしょう。)その意味では「筑紫尼寺」という表記は一概に誤記とはいえないと思われます。
 また確かに「仁明天皇」の代の『続日本後紀』の記録をみると、「観世音寺」(観音寺)が「国分寺」「国分尼寺」をはじめとする「大宰府管内の全ての寺院」を統括していたように書かれています。

「承和十一年(八四四)四月壬戌十条」「大宰府言。管大隅薩摩壹伎等國嶋司言。建國任職。大小是同。除災祈福。彼此不異。如今比國皆有講讀師之職。修正月安居等事。而件國嶋既無講讀之職。還失鎭護之助。加以國分二寺雜物。觸類夥多。既無綱維。令誰検領。望請准諸國之例。置講讀師者。府司商量。所陳有理。望請准管内諸國博士醫師之例。府司於觀音寺。与彼講師共簡試部内僧精進練行智徳有聞堪任講筵終始無變者。將補任之者。勅。講師者。依請補任。讀師者莫更置之。但安居齋會之日。依延暦廿五年三月格。以國分寺僧次第請之。」(『続日本後紀』巻十四より)

 このことからも「筑紫尼寺」という存在に対して疑問が発生するとされているわけですが、この記事が置かれた「八四四年」という年次の直前の「八四二年」には「嵯峨上皇」の「七七御齋」(いわゆる四十九日)が「檀林寺」で行われたという記事があります。

「承和九年(八四二)九月乙未四。修太上天皇七七御齋於檀林寺。」(『続日本後紀』より)

 この時点で「檀林寺」がすべて完成していたということではないとは思われるものの、明らかに主要な機能はすでに備わっていたものと思われます。さらに『続日本後紀』には「八三六年」という段階で「造檀林寺使」という役職の存在が書かれています。

(『続日本後紀』巻五承和三年(八三六)閏五月壬午十四条」「壬午。右京少属秦忌寸安麻呂。『造檀林寺使』主典同姓家繼等賜姓朝原宿祢。」

 これらのことから考えてもし「筑紫尼寺」から「梵鐘」を「檀林寺」へ移したとすると、この時点以前には「筑紫尼寺」がまだ存在していた可能性があることとなりますが、それを示唆するのがこの時点以前には「観世音寺」の統治権が「尼寺」には及んでいなかったと受け取ることのできる記事があることです。

「天長八年(八三一)三月乙巳七条」「乙巳。仏舎利五百粒、令大宰府観音寺講師光豊、安置彼府管内国分寺及諸定額寺。」(『日本後紀』巻卅九逸文(『日本紀略』)より)

 上の記事からは、この「八三一年」という段階では「観音寺」講師の権能は限定的であり、「国分寺」に対しては統括的立場にあるものの「尼寺」については記述されておらず、早い時期から「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督していたものとはいえないことがわかります。(「国分二寺」という言い方がされていないという点で、末尾にある「諸定額寺」の中に「国分尼寺」が含まれていたとは言いにくいと思われます。)
 つまりこの時点付近まで「筑紫尼寺」は存在しており、その「大宰府管内尼寺」に対する支配力もこの時点付近までは継続していたものではないかと考えられる訳です。その後「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督する立場に変ったというわけですが、それは「八三六年」に「造檀林寺使」が任命されていることと関係していると思われ、この年次付近で「筑紫尼寺」という存在が「廃寺」となって「筑紫」から消えたと考えると「八四四年」の記事との関連が整合するといえます。

 またこのことは「鐘」だけを移設したというより「伽藍」全体が「移築」されたと考えることも可能かもしれません。もとよりどちらの寺院も何らの遺跡も発見されておらず詳細が不明ですから、このような推定はほとんど「妄想」に近いかもしれませんが、可能性としてはありうると思われます。「移築」してしまうと「礎石」以外何も残らなくなってしまいますから、「諸史料」に「筑紫」周辺に「尼寺」の存在が確認できないというのも道理であることとなります。

 このような経緯で「鐘」が「檀林寺」に入ったとすれば、その後の鎌倉時代になっても宮廷の人たちは「檀林皇后」と呼ばれるようになる「橘嘉智子」という人物のイメージと共に、このような時代的政治的背景を(当然)よく承知していたはずであることとなりますから、『とはずがたり』において「後深草院」が「浄金剛院」の鐘の音を聞いてすぐに「観世音寺」そして「都府楼」へと連想して詠ずる場面にはそれなりの「必然性」があったこととなるでしょう。


(※1)坪井良平『新訂梵鐘と古文化 つりがねのすべて』(ビジネス教育出版社二〇〇七年)によります。
(※2)高倉洋彰「『続日本紀』の筑紫尼寺」(『年報大宰府学』第七号二〇一三年三月)によります。
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「檀林皇后」と「妙心寺」

2015年09月12日 | 古代史
 『とはずがたり』の中で「浄金剛院」にあったとされたこの鐘は、それ以前「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「檀林寺」という禅院が創建された際に(どこからか不明ではあるものの)持ち込まれたものでありその後その「檀林寺」が「廃寺」となって以降その跡地に建てられた「浄金剛院」に設置されることとなったという経緯が知られています。
 『大日本地名辞書』には「妙心寺」の項に「…庫門の西に古鐘あり、世に黄渉調と号す、寺説に嵯峨の檀林寺浄金剛院伝来の物とぞ、…」とあり、さらに「檀林寺址」の項には「…一條帝の比に及び已に廃し、其鐘地に委す今妙心寺の古鐘或は之を傳ふる者歟、…」とされています。また「浄金剛院」は「檀林寺」の跡地に建てられたとする記事が多く確認できること(『増鏡』など)、さらに「廃寺」となった「檀林寺」で「鐘」が「御堂」(本堂か)の隅に残っていたという趣旨の記事が「赤染衛門」の著作(『赤染衛門集』)に書かれているなどのことから『浄金剛院』の鐘は以前『檀林寺』の鐘であったと推量され、それが『妙心寺』に伝来していると理解できます。
 そもそも「橘皇后」が鐘をどこからか持ち込んだ理由というのもその音高が「黄鐘」という古律にかなった音高を発するものであって、「無常」を表すものであったからではないかと考えられます。
 彼女はその「無常」を体現するために死後埋葬されることを望まず、飢えた鳥獣に身を与えるという「風葬」あるいは「鳥葬」とでも言うべき扱いを遺詔したとされます。(実際に行われたようです。)そのような彼女であれば鐘の音(音高)にも「無常」が表現されるべきであったと考えても不思議はありません。それは「仏教寺院」における「梵鐘」の存在意義ともつながるものであり、仏教的には「無常」を表す音高を発することで「衆生」を済度するという目的があったものとみられます。そのため本来はそのような意図に適う鐘を新たに鋳造するはずであったものが、希望した音高が得られず、やむを得ず「どこか」から「黄鐘調」の音高を発する鐘を探し出してきたものと推測されるわけです。
 『徒然草』の記述でも「西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。」とあり、ここには「西園寺」(これは「西園寺公経」が「北山殿」に造った寺院を指す)の鐘を鋳造しようとしたものの「都」には「黄鐘調」で鋳造する技術がなくなっていたこと、それを「遠国」に求めたことが記されています。同様の事情がすでに「檀林寺」創建の際にも起きていたという可能性が考えられます
 一般に「梵鐘」は重量も大きくなり、運搬の難を考えるとその寺院の「近隣」で鋳造するのが通常であったものであるのに対して、「西園寺」の場合のように狙い通りの音高が鋳造できないからといって「遠国」までそれを求めるというのは、「黄鐘調」の音高を発する「梵鐘」がいかに都の近隣にはなかったかと言うことを示すものです。またこの「遠国」というのが「律令制」に言う「遠国」と一致するとはもちろん限りませんが(この「兼好法師」の時代には「律令制」はとうの昔に崩壊していたわけですから)、使用法としてはおよそ変らないものと思われ、明らかに「西海道」はその中に含まれています。仮にそれが同義ではなかったとしても「都」を遠く離れた場所を指すことは間違いなく、「寺院」が多く存在していた過去があり、また「古音律」に則った鐘が使用されていたという条件を満たす地域を探すと「西海道」つまり「筑紫」が該当する可能性が最も高いと思料します。(『徒然草』の中では例えば「東国」に関する記事では「東国」と明確に書かれており、「西園寺」に関する「遠国」という表記は「東国」とは異なることが推察されます。)
 このようなことから「檀林寺」創建においても「遠国」つまり「筑紫」から鐘を調達したものではないかと考えられますが、それはその鐘、つまり「妙心寺鐘」の「銘文」(以下のもの)からこれが「糟屋評」という「筑紫」の中心とも言うべき場所で鋳造されたものと推定されていることからも言えることです。

「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連広国鋳鐘」

 この銘によれば「戊戌年」つまり「六九八年」という年次に「糟屋評」の「評造」である「舂米(つきしね)連広国」が「鐘」を鋳造したとされています。ただしこの「舂米連広国」については「発願者」であり、「鋳造者」ではないという意見もあるようですが、「筑紫」には「弥生」以来「銅製品」を鋳造していた遺跡が豊富であり、この七世紀代においても銅鏡などの他、寺院で使用する銅製品などを製造する工房があったものと見られ、この「梵鐘」のような「銅製品」についてもそこで作製されたものと見ることは不自然ではありません。
 「筑紫」周辺の「旧倭国王権」時代の寺院は八世紀に入って「廃寺」とさせられたものが多かったとみられますから、元々この鐘が納められていた寺院にしても同様の運命となっていた可能性があり、そのような寺院から移されたものと見ることができるかもしれません。その寺院については、「檀林寺」が皇后の御願によって建てられたという事情から考えて、当然「梵鐘」についても「由緒正しい」ものでなければならなかったはずであり、「大宰府」近辺の「旧倭国王権」に近かった寺院が措定されるべきでしょう。

 ところでこの「檀林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように「尼寺」であったと思われます。

「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五条」「…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」(『文徳実録』より)

 ここでは「檀林寺」を創建した際に「比丘尼」を「持律者」として遣わし、また住まわせたとされていますから、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(これに関しては「唐」から「義空」という僧を招請し「壇林寺」に住まわせたとする記録もありますが、『元享釈書』などでは当初「義空」の来日時点では「橘皇后」がこの「檀林寺」に住していたように書かれており、創建時は確かに「尼寺」であったとみられます。後にそこへ「義空」が常住することとなったという経緯が考えられます。)
 この「檀林寺」が「尼寺」であるならば「鐘」がもたらされることとなった(筑紫の)元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性を考えるべきと思われます。その意味では『続日本紀』に「筑紫尼寺」という寺院の存在が明記されていることが注目されます。
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「観世音寺」の鐘と「浄金剛院」の鐘

2015年09月12日 | 古代史
 鎌倉時代に「二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した『とはずがたり』という随筆様の文学があり、その巻三の中に以下のような記述があります。

「…夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」(『とはずがたり(巻三)』「六十二 嵯峨殿の祝宴」より)

 ここでは「しやうこんこういんのかね」がなると「一院」(後深草院)がつられたように「とふろうはをのつから…」と詠じたとされます。
 この「しやうこんこういん」とは「浄金剛院」を指し、「かね」とはその後「妙心寺」に入ることとなった「観世音寺」と兄弟とされる「鐘」を意味します。その「鐘」が鳴るのが低く聞こえてくると「後深草院」はすかさず「とふろうは…」と詠じたというわけですが、これは「菅原道真」の「漢詩」(以下)をふまえたものとするのが一般的です。

「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無撿繫/何為寸歩出門行」(『不出門』)

 これについては一般には「鐘の音」という現象からの単なる連想と思われているようですが、これはそれほど単純な話ではなく、両寺院の鐘が兄弟関係にあるという認識が当時の宮廷人にあったことがその背景にあると考えるべきでしょう。でなければ「大宰府」や「観世音寺」まで発想が飛躍する理由が不明となると思われます。

 研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされています。さらに高さ及び厚みなどの寸法・構造も同じとされますから、当然発する音高も同じとなるはずです。(一般に鐘の音高は「開口部」の断面積に反比例し、開口端の厚みに比例するとされます。)
 実際に二〇一二年に行われた「九州国立博物館」における両鐘の「鳴り合わせ」イベントの際の動画データ(YouTubeで公開されているもの)を音声スペクトル解析ソフト(『WavePad』)で高速フーリエ変換したものを見てみると(もちろんネットから取得したデータと言うことで正確性は欠けますが)、共に同じ129ヘルツ付近に「基音」(最も低い音高)があるように判断できます。ただし、高周波成分については両鐘でやや差があり、それが音色の違いとなっているように思えますが、このような高周波成分は減衰も大きく、遠方まで聞こえるものではありません。低音部はエネルギーも大きいため減衰も少なく遠く野山を越えて聞こえるものですからその部分こそが「梵鐘」の機能として重要であり、それは両鐘で共通しているというわけです。またその「129ヘルツ」という周波数から考えて音高は確かに「日本音律」ではなく「隋代」あるいはそれ以前の「古音律」にいう「黄鐘」(こうしょう)であると推定できます。
 つまりこの時の宮廷の人々は「浄金剛院」の鐘と「観世音寺」の鐘が兄弟関係にあること、「浄金剛院」の鐘の音高が京内の他の寺院とは異なっており、「観世音寺」の鐘と同じ音高であるということ、それはもともと「文武朝期」に作られた古式ゆかしいものであることをが良く承知していたとことが強く示唆されるものです。
 このことに関連して「浄金剛院」の鐘の音高については『徒然草』の中に興味ある指摘があります。
 『徒然草』に「天王寺」の鐘について書かれた段があり、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられていますが、その末尾に「浄金剛院」の鐘についても同様であるというように書かれています。

「…其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。/凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」(『徒然草』第二百二十段)

 つまり『徒然草』によれば「浄金剛院」の鐘が奏でる音高は「黄鐘」であるというわけですが、それはまた「無常」を表すものであったものであるというわけです。これに対して、当時(「鎌倉時代」)の他の寺院の鐘は「平安時代」以降発生した「日本音律」を「基準」として鋳造されたものが多く、音高が変化した結果「無常」を表す「黄鐘」の音高は(当時の京都では)「浄金剛院」の鐘だけであった可能性があり、それは「観世音寺」の鐘と同じ音高であったということとなります。
 これについては当時のわが国では「寺院」の鐘というものは「黄鐘調」の音高を発するべきと言う思想があったと見ることができると思われます。それは「寺院」の「梵鐘」というものが「無常」を表す意義があったとみられるからです。

 有名な『平家物語』の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったものなのです。これについては「黄鐘」という音高は「四季」を表すものであり、その意味で「移り変わり」を表すことから「無常」観につながっているものとする論もあります。上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならなず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」としています。
 つまり「浄金剛院」の鐘の音高と「観世音寺」の鐘とは「兄弟」であるわけですが、同時にどちらも「無常」を奏でる音高であったと言う事もまた重要であると思われ、それらの事情を「後深草院」以下諸々の宮人はよく承知していたということが示唆されるわけです。そのようなことがなぜ把握されていたのかということについて述べた論(※)では「元寇」などにより「宮廷」の人たちに「大宰府」に対する知識が増えたことがその原因であるというようなことが言われていますが、「観世音寺」と「浄金剛院」の鐘同士の関係については「観世音寺」や「大宰府」についての表面的な知識や理解では容易に知られない事情というべきであり、そのような特別の事情を「宮廷」の人たちが知ることとなるには別の理由があると見るべきでしょう。


(※)寺尾美子「『とはずがたり』注釈小考 浄金剛院の鐘の音」(『駒澤国文』二十九号一九九二年二月)
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