古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「天智」と「左手無名指」

2016年02月15日 | 古代史

 久しぶりに書きます。
 年前に風邪をひき、治りかけては悪化するということを繰り返しているうちに1月後半に39℃に達する熱を出した後完全にこじらせてしまい、かなり体力を消耗してしまいました。やっと気力と体力が戻ってきましたので本年初めての論を記します。
 以下は以前「古田史学の会」に投稿したり「ホームページ」に書いたものの焼き直しですが、また光を当ててみようと思います。

『今昔物語集』など複数の資料に「天智」が「左手無名指」を切り落としたという記述があります。

「『今昔物語』巻十一 天智天皇、建志賀寺語第二十九」
「…其時ニ、天皇□(底本の破損による欠字)□召テ宣(のたま)ハク、翁、然々(しかしか)」ナム云テ失ヌル。定(さだめ)テ知ヌ、此ノ所ハ止事無(やむごとな)キ霊所也ケリ。此ニ寺ヲ可建(たつべ)シト宣(のりたまひ)テ、宮ニ返ラセ給ヒヌ。
其明ル年ノ正月ニ、始メテ大ナル寺ヲ被起(たてら)レテ、丈六(じやうろく)ノ弥勒(みろく)ノ像ヲ安置シ奉ル。
供養ノ日ニ成(なり)テ、灯盧殿(とうろでん)ヲ起(た)テ、王自(みづか)ラ右ノ名無シ指(および)ヲ以テ御灯明ヲ挑(かかげ)給テ、其ノ指ヲ本(もと)ヨリ切テ石ノ筥(はこ)ニ入(いれ)テ、灯楼(とうろう)ノ土ノ下ニ埋(うづ)ミ給ヒツ。」

 これによれば「指」そのものを灯明とした後、それを「埋納」したという事と理解されます。
 また、この『今昔物語集』と同様の記述は『元享釈書』や『扶桑略記』などの仏教資料にも見られます。

『元亨釈書巻二十一』「天智皇帝の段」
「七年正月初三。帝即位。曷為緩。考也。帝創建福寺于志賀都。當平基趾得寶鐸。長五尺五寸。又得白石。長五寸。夜有光。帝喜奇瑞斬左手無名指。納殿前燈幢石壇中。…」

『扶桑略記』「天智天皇の段」
「七年戊辰正月十七日。於近江國志賀郡。建崇福寺。始令平地。掘出奇異寶鐸一口。高五尺五寸。又掘出奇好白石。長五寸。夜放光明。天皇殺左手無名指。納燈爐下唐石臼内。奉為二恩。…(已上同寺縁起より)」

 更に「九八四年」に「源為憲」が著した『三宝絵』の下巻の「僧宝の十」にも、次のようにあります。
 
「…天智天皇、寺をつくらむの御願あり。此の時に王城は近江の国大津の宮にあり。寺所を祈りてねがひ給へる夜の御夢に、法師来りて申さく、「乾(いぬい)の方(北西)にすぐれたる所あり。とく出でてみ給へ」と。…
あくる戊辰の年(六六八年)の正月に、はじめてつくらしめ給ふ。土ひきて山を平ぐるに、宝鐸を堀り出でたり。また白き石あり。夜光をはなつ。
御門いよいよつつしみたうとび給ひて、堂をつくり、仏をあらはし給ひつ。御門、左の方の無名指をきりて石のはこに入れて、とうろうの土のしたにうづみをき給ふ。
これ、て(掌)に灯火を捧げて、弥勒に奉り給ふ志を表はし給へるなり。『志賀の縁起』にみへたり。」

 これは上の『三宝絵』では「弥勒」と関連したものとしていますが、実際には『法華経』の「薬王菩薩本事品」に見える以下の内容を下敷きにしたものではないかと考えられているようです。

「…若有發心。欲得阿■多羅三貌三菩提者。能燃手指。乃至足一指。供養佛塔。勝以國城妻子。及三千大千國土。山林河池。諸珍寶物。而供養者。…」『法華経薬王菩薩本事品第二十三』
 
 これらから理解されることは、「(崇)福寺」を造るに際して土地を開削したところ、「寶鐸」と「白石」を掘り出したとされ、「鐸」という表現をしているところから見て「内部」に「舌状」のものが吊り下げられている形状を想定させますから、いわゆる「銅鐸」ではないかと考えられますが、それと共に掘り出された「白石」が「夜光る」と言うことから、「帝」は「奇瑞」であると喜び、「左手無名指」を「灯籠」代わりとしてその身を燃やした後、その指を「本から」「切り落として」、「灯籠」の土の下(あるいは「燈幢」つまり「燈籠」と「幢」(旗竿状のもの)を建てる「石壇」の中)に「納めた」というわけです。
 これについては『元享釈書』では「殿前」とされ、この「殿」という表現からは「創建」された「建福寺」ではなく「宮殿」の「殿前」ではないかと思料されるものであり(「寺院」には「堂」はあっても「殿」はないと思われるため)、「宮殿」(この場合「淡海宮殿」か)の「正殿」の前には「燈」(明かり)「幢」(旗)があり、それらが立てられている基礎部分の石壇の中に自らの「左手無名指」を切断して「納めた」と言うことであると推定されます。
 更に「鑑真」と共に来倭した「思託」の『延暦僧録』によると(これは逸文として『本朝高僧伝』に記載されているものです)によれば、「無名指を切り落として」それを「灯明」に入れて燃やしたとされています。また『今昔物語集』以外ではそれを「左手」としています。(「 鳩摩羅什」の訳による『大智度論』 (No. 1509 龍樹造 ) in Vol. 25 などでは「…即時薩陀波崙右手執利刀刺左臂出血。割右髀肉復欲破骨出髓。…」とあり、右手に刃物を持つのが通常とされているようですが、右利きが多いことを考えると首肯できるものです。)
 このようにその事情に複数の説があるようですが、いずれも「指を切り落とした」という一点は共通であり、その行動の特異性が際だっています。
 これは明らかに一種の「生け贄」を捧げる儀式であると考えられるとともに、それが複数の史料では「左手」の「無名指」とされているのはなぜかと言う事が疑問とせざるを得ません。
 次回はその点について考察します。

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