古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

天智と崇福寺(二)

2016年02月20日 | 古代史

 近江の「崇福寺」の遺跡とされる場所からは「無文銀銭」が「地鎮具」として「埋納」されていることが確認されているわけですが、これはこの「無文銀銭」が「重要視」「神聖視」され、「呪術」的威力を持っていると考えられたいたことを推察させます。また私見によれば「無文銀銭」は「隋代」に(たぶん新羅から)もたらされたものであり、「隋代」あるいは「初唐」の頃に、「隋」や「唐」と交易を行なうつもりであったものとみられますが(実際に使用されたかは不明)、その事は即座に「無文銀銭」とこの「崇福寺」(志我山寺)の間に「直線的関係」、つまり「無文銀銭」の使用開始の年次と「志我山寺」の創建年次とが「接近」しているという想定をさせるものでもあります。つまりこの「志我山寺」の創建年次はもっと遡上するという可能性があるといえます。
 また、この寺の建築様式は「東面金堂」のいわゆる「観世音式」或いは「川原寺式」というものであり、(そのこともあって「天智」と関連づけられているともいえますが)「元々」の「法隆寺」における「レイアウト」においても「同様」に東面金堂であったと考えられ、それは「観世音寺」などの「源流」となったものと推量されるものですが、「志我山寺」においても同様の配置であることも、「法隆寺」の「創建」(六〇七年)とそれほど違わないという可能性があることを示唆します。
 
 この「志我山寺」の創建に関しては、『扶桑略記』他によれば建設する際に地面を掘ったところ、「多宝塔」が出土したという伝承があるとされます。(『今昔物語集』では「宝塔」)
 この「多宝塔」については「古代インド」の「阿育(アショカ)王」が埋めたという説話中のものと解釈されているわけですが、同様に「倭国」における「阿育王」の「多宝塔」に関するものとして「唐代」の記録『法苑珠林』に記事があります。
 そこでは「倭国」から派遣された「官人」として「会丞」という人物がいるとされ、彼に「倭国」の「仏法」のことを問いただすと以下のように答えたとされます。

「彼の国、文字(にて)説かず。承拠する所無し。然れども、其の霊迩を験すれば、則ち帰する所有り。故に彼の土人、土地を開発し、往々にして古塔の霊盤を得。仏の諸の儀相数え、神光を放つ。種々の奇瑞、此の嘉応を詳(つまびらか)にす。故に先有を知るなり」

 ここで「土地を開発」つまり、田畑を耕したり道路、池などを作ろうとして地面を掘ると「古塔の霊盤」というのが出土するとされ、それは「阿育王」が全世界に建てた「多宝塔」であろうという事となっているのです。
 これは「阿育王」の所産であると言うことも共通しており、『扶桑略記』他に言う「多宝塔」と同じものではないかと思料されます。 
 「会丞」という人物は「大業の始め」に来たとされています。またここに書かれたことは彼の見聞したこととされているわけですから、これは彼がまだ「遣隋使」として送られる以前のことであることとなり、「六世紀末」の「倭国」の実情を示すと考えられます。
  ところで、ここに書かれた彼の言葉によれば、この段階で「文字」がないように受け取られそうですが、『隋書俀国伝』によれば「百済」から仏法を得た後は「文字」があったとされていますから、「日本語」を表記するようになったのはかなり早い段階であったと思われ、この「六世紀末」という段階で「文字」によって「仏法」が説かれていないというのはやや不審ですが、結局は民衆レベルに文字が一般化していたというわけではないということといえそうです。
 このようなものが「出土」していることが「六世紀末」のこととして語られていることは、同様に「多宝塔」が出土したという伝承がある「崇福寺」の創建と「無名指」を切断したという伝承の成立も実際にはもう少し早い時期を想定するべきではないかと思われますが、それは、そのような行為により「父母」に感謝する祭祀が行なわれたとすると、それは「六七〇年代」としては「伝統的すぎる」と考えられる事と整合するといえます。
 ただし、こう考えた場合、「崇福寺」(「志我山寺」)は「天智」がその「母」である「斉明」の菩提を弔うための誓願として建てられたものという考えは否定されることとなります。つまり、「崇福寺」(「志我山寺」)は「天智以前」から建てられていたものであり、その建築主体は「天智」ではないこととなりますが、「六世紀末」から「七世紀初め」の倭国王が措定されるべきと思われますから、「阿毎多利思北孤」ないしはその太子という「利歌彌多仏利」のいずれかであると考えられます。
 このような推定は、「心礎」から発見された「無文銀銭」が「銀小片」が付着していたことから、「開通元宝」に重量基準を合致させたバージョンであると推測でき、このことからこれは「隋代」までは遡上せずせいぜい「初唐」まで遡りうるものであると考えられる事と整合すると言えるでしょう。(推測によれば「六三二年」の「高表仁来倭」時点付近が「小片」付加のタイミングと考えられます)
 「志我山寺」が「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」の建てた寺であるとすると、その「心柱」の基礎に「無文銀銭」を納めていたことは不自然ではないでしょう。
 これらのことは『扶桑略記』などに書かれた「六六八年」という年次のかなり「以前」から「近江」の山中に建てられていたという可能性が高いと考えられることを示します。

 この「近江」ないし「志賀」という地に「官衙」のようなものあるいは「寺院」があったと考えられるのは、後の「近江国府」の遺跡から出土した木簡や土器などによっても明らかであり、それは種々の理由から時代として「七世紀半ば」が推定されるとされていることからも窺えます。
 この場所が後に「国府」とされたのは偶然ではなく、それ以前からこの場所及びその周辺には「官庁」のような建物ないし施設があり、それが実際に「活動」していたということが布石としてあったからではないかと見られていましたが、それが「須恵器」「木簡」などから明確となったのです。また、これを地方豪族(和邇氏など)と関係づけようとする試みあるようですが、それは「先入観」というものではないでしょうか。
 「官衙的」建物があり、またそれを示唆する「木簡」等が出土したとすると、そこには明らかに「王権」と深い関係がある施設があったものであり、それが「七世紀半ば」までは確実に遡上するという事の意味は重大であると思われます。
 つまり「近江京」というものが「天智」によって営まれるより以前に「志賀」の地に「王権」が関与した施設があったこととなり、それは「志我山寺」そのものの創建時期とも関連してくると考えられるものでもあります。
 更に「近江大津京」跡と推察される遺跡の下層からは「七世紀半ば」に編年される土器も出土しており、そのことは「崇福寺」だけではなく「大津京」そのものの創建も一般に考えられているよりかなり遡上するという可能性を含んでいるものでしょう。

コメント