『二中歴』によれば「白鳳年間」(六六一年から六八四年)に「観世音寺」は創建されたことになっています。また『日本帝皇年代記』によれば「庚午年」(六七〇年)の創建とされています。しかし『続日本紀』をみてみると「七〇九年」になって「元明天皇」の「詔」が出ており、それによれば「『観世音寺』は『天智天皇』の誓願により『斉明天皇』の菩提を弔うために建てられることとなったが進捗しておらずまだできていない」とされています。つまり「七〇九年」の時点で「未完成」というわけです。
(以下『続日本紀』に書かれた「元明天皇の詔」)
「慶雲六年…二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺 淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月差發人夫專加検校早令營作。」
これに対し「大宰府」遺跡から発掘された「観世音寺」の「創建時のもの」とされる「瓦」(老司Ⅰ式)については、その形式から「七世紀中葉」のものとされ、「大宰府政庁Ⅱ期」(老司Ⅱ式及び鴻廬館式瓦の使用)に先立つこと「五-十年程度」と推定されています。また「老司一式」瓦には更に「大きく」二種類あるとされており、それは時代の差であると考えられているようです。このことは「上」に見た「創建」の年次と「進捗」を促す詔の年次付近とふたつの時期があったことと重なる事実です。
つまり、発掘から判定された「瓦」の年代測定と『二中歴』の記事は矛盾しないと考えられるとともに、「元明天皇」の「詔」とも合致することとなるわけです。このことは「創建時期」としては「六六一年」以降の時期(「白鳳年間」)と考えて問題ないことを示します。
しかしそれは以下の「太政官処分」記事と矛盾します。
「大宝元年(七〇一年)八月…甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」
この「太政官処分」に関しては「矛盾」に充ちており、整合的解決が困難の様に思われますが、少なくとも上で見た「元明」から出された「詔」とは大きく矛盾していることは確かです。
この「太政官処分」記事については、そこに書かれた「庚子年」という年次が一部の「写本」にある「庚午」であったとして考えても、「観世音寺」の工事進捗状況とは全く一致しません。もし「庚午年」からであったとして「志我山寺」について「三十年」経過しているというように解釈しても、「処分」時点は「七〇〇年」となり、そこから五年逆算すると「観世音寺」が建てられたのが「六九五年」になってしまいますが(※)、これは上に見た「創建記事」や「元明」の「詔」とも整合していないと言う「矛盾」は以前として残ります。
この「太政官処分」の重要な点は「三十年」と「五年」です。「五年」という年限は、「大宝令」の以下の規定によっていると思われます。
「禄令 寺不在食封之例条」「凡寺。不在食封之例若以別勅権封者。不拘此令(権。謂。五年以下。)」
つまり、「寺は食封の例に入れない、ただし「勅」として封戸を施入するときは五年を限る」というわけです。また「三十年」という年数については、「天武」の時代に出された「勅」(以下のもの)に準拠しているものと考えられます。
(六八〇年)九年夏四月是月条」「勅。凡諸寺者。自今以後。除爲國大寺二三以外。官司莫治。唯其有食封者。先後限卅年。若數年滿卅則除之。且以爲。飛鳥寺不可關于司治。然元爲大寺而官司恒治。復嘗有功。是以猶入官治之例。」
そこでは今後「寺封」は三十年を限度とするというわけであり、この「太政官処分」がこれらの規定を踏まえた上で出されているというのは確実ですから、「五年」と「三十年」という「年数」は「動かせない」わけです。つまり、「七〇一年」を表すと思われる「大寶元年」を動かすか「庚子年」を動かすかあるいは両方を変えるか、いずれかでなければ整合的解決は見いだせません。
(ここではこれ以上触れませんが「庚子年」というのが問題のようであり、これが本来「庚辰」であり「六二〇年」を意味していたという解釈が最も整合性が高いと思料します。その場合「大寶元年」というのは『書紀』の「大化元年」と一致します。)
ただ、いずれにせよ「観世音寺」及び「筑紫尼寺」と「志我山寺」について扱いが大きく異なる事というに気がつきます。「志我山寺」については建てられてから「三十年」経過していると言うことであり「観世音寺」及び「筑紫尼寺」はまだ五年しか経過していないというのですから、全く置かれた状況が異なっている事が解ります。一般には「観世音寺」も「志我山寺」も同じ「天智」の「発願」によるとされていますが、「志我山寺」だけが建設が中断することなく進捗したかのように見られることとなると同時に、「寺封」も受け続けていたことにもなります。しかし、その様な事があり得るでしょうか。
そもそも「壬申の乱」後「大友皇子」の「近江朝廷」(「近江大津宮」)は「廃墟」となったと考えられ、その「近江京」の片隅に存在していた「寺院」が「無事」で済んだはずもないわけであり、それが「八世紀」まで存続していたとか、寺封をそのまま受け続けていたというようなことははなはだ考えにくいものです。
また、重要なことは「近江大津京」跡の「崇福寺跡」とされる遺跡の発掘の結果、その塔心礎から「無文銀銭」が発見されているということです。
発掘された「塔心礎」からは「金銅」「銀」「金」「瑠璃」の四壺に納められた「地鎮具」が発掘され、その中に「無文銀銭」が存在していました。このような「入れ子式」の「舎利容器」は「南朝」から「百済」へとつながる系譜を持つものであり、この「志我山寺」についても同様に「百済」を通じて「南朝」とつながることを示唆するものです。(百済の「泗比城」の定林寺が同様に地下式心礎です)