古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「日本」国号変更と「朱鳥」改元

2016年06月18日 | 古代史

 すでに「シリウス」と「朱鳥」の近似について述べたわけですが、その「朱鳥」への改元については中国の「清」の時代「鐘淵映」という人物が撰んだ書物に『歴代建元考』というものがあり(これはこの時点で知られていた国内外の「元号」について書き表したもの)、その中の「外国編」の「日本」のところに以下のように記載されています。

「…天智天皇 舒明太子母皇極天皇 在位十年仍用白鳳紀年/天武天皇 舒明第二子名大海人天欲禅位避吉野山 大友皇子謀簒将兵討之遂立 在位十五年仍用白鳳紀年後改元二朱雀/朱鳥/持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后 因主國事始 更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和…」『歴代建元考』

 これらの記事を見ると「仍」とは「継続して」という意味に使用されているようであり、「持統」の時点で「朱鳥」という年号を「天武」から続けて使用していたが、後に「太和」と改元したと読めます。そして、彼らの「知りうる範囲の知識」では「日本」と国号を変更したのはその「持統天皇」であり、それは「朱鳥」時点であるように読めます。
 またこの記事では「持統」については他の天皇のように「立」という表現を用いておらず、「即位」という観念とは異なる実情であったことを示唆します。ここで使用されている「因主」という表現は微妙ですが、前天皇の「后」であったがゆえに「主」となったということではないかと思われ、そのため彼女が「主」となって「国事」を始めたとも読めます。

 ところで、この「朱鳥」への改元は彼の「後継者」が「皇孫」であることを踏まえたものとみることができるのではないでしょうか。つまり『書紀』でも「天武」の後継者については「幼少」であるという旨の発言がありました。

「今朕無與計事者。唯有幼少孺子耳。奈之何。」(天武即位前紀)

 つまり、「天武」(大海人)は自分には「幼少」「孺子」の子供しかいないと言っているわけです。
 ここで使用されている「孺子」は「前漢」の末期に「王莽」が「二才」の「孺子」である「嬰」を立てたという『漢書』の記載などの使用例や、我が国の使用例からも「三歳以下」の幼児をいうと考えられます。
 また、「養老令」では「十六歳以上」は「正丁」とされ、「十六未満」を「少年」「少女」というとされています。
このことから「幼少」とは「三歳から十六歳」までの子をいうと考えられます。また、それは「推古天皇」の以下の記事からも推測できるものです。

「豊御食炊屋姫天皇。天國排開廣庭天皇中女也。橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女。姿色端麗。進止軌制。年十八歳立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后」(『推古紀』の冒頭記事)

 つまり、「幼」いときは「額田部皇女」といったが、「十八歳」になったとき「皇后」となったというのです。つまり「十八歳」は「幼少」ではないことを意味しますし、「幼少」ではなくなったために「結婚」する事が可能となったものでしょう。
 この事から「幼少」という場合は「養老令」にいう「十六歳」という年齢がやはりその境界線と考えられるものです。
 つまり、ここで「天武」は「自分には十六歳以下の子供しかいない」と言っていることとなりますが、この当時「高市皇子」という人物は「十九歳」であったと考えられ、ここには「矛盾」があるようです。(他の例で「十九歳」を「幼少」とした例が見いだせません)この「天武」の言葉に嘘がなければ、この「高市皇子」という人物は「天武」の子供の中には入っていなかったこととなります。
 また、ここでその「高市皇子」という人物が「天武」の言葉に応えて、以下のように言うわけです。

「…近江群臣雖多、何敢逆天皇霊哉、天皇雖独、即臣高市、頼神祇之霊、請天皇之命、引率諸将而征討、有距乎…」(天武即位前紀)

 この言葉を聞いた「天武」は大いに喜び、「軍事」に関する権限(後の「軍防令」に定められている「軍監」という立場と思われる)を彼に与えたわけですが、彼が「十六歳以下」であればそのような事が可能であったとは思われません。
 つまり、この時の「高市皇子」という人物は「天武」の子供ではないか、あるいは子供であっても「十六歳以下」ではないと考えられるものです。それを示すように「朱鳥」改元直後に「天武」が死去した際には、皇后である「持統」が「称制」により「即位」していますが、この場合の「称制」は、「本来」の意義通りのことであったと思料され、「天武」の子供がいないかあるいは「未成年」であったたために、「皇太后」(持統)が「代理」により即位し、「成年」に達するまでの期間を「つなぎ」として「即位」した事を示すと考えられます。(「持統」という「漢風諡号」自体が「つなぎ」という意味なのです)

 また『続日本紀』においては「文武」は「持統」の「孫」とされていますから、その意味でも確かに「皇孫」といい得るわけです。これらを踏まえて「朱鳥」と改元したとすると、その意義は「神話」の現実化を意識したものであった可能性が高いものと思われることとなります。つまり「朱鳥」が「シリウス」を意味するとした場合、それは即座に「瓊瓊杵尊」を意味するものと考えられるというわけですから、「天孫降臨」、つまりいわゆる「天下り」がこのとき行われたことを示すと思われるわけであり、「天照」と「瓊瓊杵尊」はそのまま「持統」と「文武」に置き換えられるということとなって、それは「神話」の成立事情と現実が見事にミックスしていることを意味するものであるわけです。

 このときの「日本」という国号変更と「朱鳥」への改元とは結局「太陽」と「シリウス」の関係に相当するものであると同時に「皇祖母」と「皇孫」との関係でもあったと思われることとなります。つまり「朱鳥」と「日本」という国号はいわば「直結」していることとなるわけです。

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