古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「朱鳥」改元と「日本」国号使用開始

2016年06月20日 | 古代史

 「朱鳥」改元と「日本国」へ国号変更という事象について続けて考察します。
『新唐書』には以下のような記述があります。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦夷人偕朝。蝦夷亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」

 この『新唐書』のこの部分は(というより「編年体」で書かれた史書は基本そうですが)、「歴代」の倭国王を列挙しながら、随時その時点(治世)に関連すると思われる「情報」を適宜挿入する形で記事が構成されています。そのようなことを踏まえると上の記事から以下のことが推察されます。
 「天智」「天武」「總持」と続いたところで「咸亨元年」記事が挿入されています。この「咸亨元年」は「六七〇年」を意味しますから、これが「時系列」に基づいているとすると「六六〇年代」という時点で既に「總持」(これは「持統」か)まで、「代」が進行していることとなります。
 また、その「挿入記事」である「咸亨元年」の「賀使」の文章につづけて「後」という表現がされており、このような書き方はそれ以前に書かれた「年号」や「干支」などからその記事の年次を「切り離す」ための文言と考えられ、それがいつかは明確ではないものの、「長安元年」(七〇〇年)記事の前に挿入されていますから、「粟田真人」の遣唐使以前に別の遣唐使が派遣されているらしいと推定できます。そして、その時点で「倭国」から「日本国」への国名変更を説明していること。つまり「国名変更」は「文武」の時代の「粟田真人」の遣唐使以前のこととなると思われ、「總持(持統)」段階であるらしいことが理解できます。(遣唐使そのものが三十年の長きにわたり送られていなかったもの)
 また、この『新唐書』に対する理解は『旧唐書』からも裏付けられます。『旧唐書』においても「国名変更」についての情報は「貞観二十二年」記事と「長安三年」記事」の間に書かれています。
 いずれにおいても「長安年間」記事以前に「国号変更」が書かれているわけであり、これは『新唐書』も『旧唐書』と同様に「長安三年」以前の情報がそこに書かれていると理解するべきことを示します。つまり「(粟田)朝臣真人」の遣使以前に「国号変更」が行われていたことを推定させるものであり、「日本国」への国号変更というものはが、一般に考えられているような「八世紀」に入ってからのものという理解が、実態とはかなり乖離することが疑われます。

 『歴代建元考』の記述は上に述べた『旧唐書』の内容分析と合致しており、国号変更に関する推察を補強するものです。また、この記事では「国号変更」の時期としては「朱鳥改元」から幾ばくもない年次であることが推定できます。(「持統」へ倭国王権の主宰者地としての地位が移った時点か)
 そもそも「国号変更」という事象は軽々ななものではなく、「王朝交代」などの事象を伴わないと考えるのは困難です。そうであれば『歴代建元考』が言うように「朱鳥」と改元された直後に「国号」変更があったわけですから、この時点で「禅譲」により新王朝が成立したとみて不思議ではないこととなります。それは「倭」から「日本」への変更と「朱鳥」が「あかみとり」という「訓読み」であることとはつながっていると考えられるからです。
 「新唐書」や「旧唐書」には「倭」から「日本」への変更は「倭」とう「名」が「雅」ではないと理解したからとありますが、「倭」というものが「倭国」が自ら名乗ったものではないと言うことが根底にあることをこの時点で意識したのではないでしょうか。
 この「倭」というのは「古」から続く由緒あるものではあるものの、自称ではなく「中国」側から見てつけられた名前であると思われ、そのことを意識したものと思われるわけです、そうであればこの時「国号」として採用された「日本」は「自称」と考えられる訳ですから、その発音は「音」つまり中国流の発音ではなく「朱鳥」と同様「訓」つまり「日本流」の発音で呼んだという可能性が高いでしょう。つまり「ひのもと」と自称したものではないかと推察されるわけです。そうであれば『書紀』の「飛鳥浄御原宮」の命名のエピソード記事の文章は本来以下のようなものではなかったでしょうか。つまり「戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」とある文章は実際には「戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名国曰日本。日本。此云比能母騰」のような記述が本来ではなかったかと推察されることとなるわけです。(『書紀』内の童謡に使用されている万葉仮名からの類推)
 ここに使用されている「仍」は『書紀』の中では『歴代建元考』の中の用例とは異なり、ほぼ「よって」あるいは「だから」のような「理由」としての使用例しか確認できず、ここでも同様と思われます。
 「日本」と「朱鳥」の間に「皇祖」と「皇孫」の関係が対応しているとすればこのような命名理由も納得できるものです。

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