『後漢書』によれば「安帝永初元年」つまり「一〇六年」に「倭国王」とされる「帥升」の貢献があったとされます。
「建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年(106年)、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」(後漢書倭伝)
この記事によれば「安帝永初元年」という年次で「帥升」は「皇帝」に会うことを「願請」したとはされているものの、それが実現したとか、「後漢」から改めて彼を「倭(国)王」として任命するというようなことがあったとは書かれていません。
しかし、ここでは「帥升」について「倭国王」という表現がされています。『後漢書』の論理ではこの「帥升」は「倭国王」という地位にあるとするわけですが、これが後の「倭の五王」の遣使に基づく後代の論理にもとづくものであることは間違いなく、当時は「倭国王」ではないのはもちろん「倭王」でもなかったと思われるわけです。しかし「奴国」同様「倭」領域において強い権力を持つ存在であることを何らかの方法で確認し、認定していたこととなります。それは「奴国王」に与えた「金印」の存在であったものではないでしょうか。
この「金印」は「帥升」が以前の「奴国王」から継承していたものと思われ、彼(帥升)は貢献物として「生口」の他に当然「上表」つまり「国書」を持参していたものと見られますが、その「封」に「漢委奴国王」の「金印」による「封泥」がされていたということが考えられます。「金印」は通常の印と異なり「凹印」ですから、本来このように「封泥」用のものと考えられ、それを「国書」に封印として押すことで自分が「倭奴国王」を継承した正統な「王」であることを表現しまた誇示していたものと見ることができるでしょう。「後漢」の側ではこれを見て「帥升」を「光武帝」以来の「倭」の代表王権であると確認したものと思われるわけです。
またその内容からは「帥升」自らが貢献の使者の先頭に立っていたように理解できます。それは、そこに「遣わす」という意義を示す語がみられないことに注意すべきです。
「奴国」の場合は「使人」という語が使用されていますから「使者」を遣わしたらしいことが判りますが、「帥升」の場合「献」の主語が「帥升等」になっています。つまり、この記事を素直に解すると「帥升」を含む複数の人々で「派遣団」を構成していたことを示し、「倭」王権の当事者が(皇帝に)「見える」ことを望んだこととなります。そのような人物が直々に「後漢」の皇帝に会いたいとやって来たというわけですから、その様な行動をする必要性があったわけであり、ある意味状況はかなり切迫していたかも知れません。それを示すものが、彼が連れて行ったという「生口」ではなかったでしょうか。この「生口」は「原・狗奴国」である「銅鐸圏」の勢力を捕虜にしたものではなかったかと考えられます。
「原・狗奴国」は津波に襲われて弱体化した旧銅鐸圏を力で制圧して統一した新進の国家であったと思われ、少なくなった平野部分を自らの領域とするために、軍事に特化していた可能性があると思われます。そのような勢力がさらに平野部分を求めて「西下」してきていたものではないでしょうか。
「帥升」率いる「諸国」はその「原・狗奴国」の軍事勢力と衝突した可能性が高いと思われます。そう考えると、この時の「帥升」の使者派遣も「魏」の時の「卑弥呼」と似たような状況があったという可能性もあるでしょう。
「帥升」は自分が正統な「倭王」であり、「金印」が与えられた「奴国王」の後継者であること、生口等の「貢物」を持参したことなど、「後漢」の皇帝を「至高」のものとしていることを表現し、変わらぬ忠誠を誓うと共に、「後漢」に対し「封国」への義務を果たすことを要望したと見ることができると思われます。
「後漢」など「宗主国」は周辺国を「封国」とする限りにおいて、その「封国」に対して軍事的脅威などが外部からあった場合は「援助」や「仲裁」などを行う義務があったものであり、「宗主国」と「封国」の間にはそのような一種の契約関係があったとみられます。
つまり、この時の「帥升」は「後漢」に対して何かしらバックアップを求めていたという可能性があるでしょう。実際的には、「軍」を派遣してもらいたいと言うより、武器等の援助を必要としていたということではないでしょうか。但し、『後漢書』からはその「帥升」等の要望がかなえられたものかは不明です。