『後漢書』において「倭国」という概念が形成されたらしいことが窺えるわけですが、「国郡県制」の「国」と「国家」とは(当然ながら)異なるものであり、その絶対的上部構造を「国」(国家)と呼称するものであって、そうであれば階層的行政制度がない時点においては「国家」自体あるとは言えないこととなります。
「後漢」に朝貢した「奴国」は「倭」のかなりの部分を統一した功績を讃えられたものですが、明らかに「行政制度」やその根拠となる「法体系」は未整備であったと見られ、そのため「国家」とは認められず、しかし地域ナンバー1であることは確かですから、「金印」を与える条件としては整っていたものであり、結局「異例」のこととは思われますが、「倭(委)」の「奴国王」という二段表記が出現する事となったものではないでしょうか。またここで「卑弥呼」のように「倭王」と言い切っていないのは国家体制の成熟の差とそこから発生する権力の強さに起因するものでしょう。しかし「卑弥呼」でも「倭国王」と呼称されていないわけであり、それは「狗奴国」率いる敵対勢力がかなり強い存在であったからであり、彼等が存在する限り「倭国王」とは言えないからであったでしょう。
それらを考えると、「委奴国王」という表記は発展段階における「倭」という領域において、初めてある程度広い領域を治めることとなった(それでも三十国以下の国数しかなかったと思われますが)「奴国王」に与えたものであり、その統治内容の不完全さから「倭王」とも(ましてや「倭国王」とは言いきれず)認定されなかったことを示すものと思われるわけです。
この点について、よくご存じのように古田氏の重要な批判があります。つまりこの「金印」については従来のように「委(倭)」を挟んだ「三段」に読むべきではなく「委奴国」という一語で読むべきとされたわけです。「漢の委の奴の国王」と細切れに読むのはおかしいとされるわけです。その理由として「金印」とは単一部族とか地域限定の権力者に贈られるものではなく、広い範囲に権力を及ぼす事が可能であるような「統一王者」に授けられるものであることや「金印」は贈る側である「漢」と贈られる側の「委奴国」との関係が直接関係であり重要で親密である、ということを互いに確認するため授与されるものだから「漢」と「奴国」の間に「委(倭)」という語が入るのは印章を各部族に授与するときのルールに反しているというわけです。しかし、上に見たように「倭」はこの時点では「国名」ではなくあくまでも一地方名であって、その地方に「奴国王」の上に位置する権力者は存在しないわけですから、「委(倭)」を挟んでも「三段」読みとは言えないこととなるでしょう。つまり、これでも実際には「漢」と「奴国」の間の直接関係であることを示すものであり、「二段国名」表記と内実は同じであると思われるわけです。
また古田氏は同じ「光武帝」が「韓人」である「廉斯人」に対して「漢廉斯邑君」という称号を授与した記事があるとされ、これが「韓」を飛び越えて直接の関係を示したものという理解がされていますが、この「廉斯人」は「辰韓王」の統治を離れて「楽浪郡」の支配下に入ろうとしていたものであり、このため「韓」という一語を入れると「漢」と「廉斯」の関係を直接的に規定することができなくなることとなるのは理解できますが、「倭」の場合はこの「韓」のケースとは異なり、この時代に「奴国」以外に「倭」を「不完全」ではあってもまとめているような「上部的権力」は存在していなかったとみられるわけですから、これと同列には論議できないものと思われます。そう考えると実際には「倭の奴国王」であったと見るべきであり、それは即座にこの時点の列島の覇権を「奴国王」が握っていたことを示します。そのことから「奴国」の領域と思しき場所から「弥生王墓」と考えられる「方形周溝墓」が出土しそこから豪壮華麗な副葬品が多数出土した理由も判明します。それらは「周」から「後漢」へと続く王朝との間に成立していた関係において招来されたものという可能性が考えられることとなるでしょう。(上に見たように「委奴国王」を「倭の奴国王」と理解できれば「委奴国」と「伊都国」が同じというような音韻的に無理な理解をする必要もなくなります。)