また、(二)の『文武紀』記事の場合、「新羅使」が持参した「表」では「新羅王」について「去年」の秋から具合が悪かったが、「今年」の春になって死去した、という意味の事が記されていたとされます。これについて「日本古典文学大系『日本書紀』」(岩波書店)の「注」では『この表は、正月に来着した使者が持参したものであるから、「去秋」は七〇一年、「今春」は七〇二年をいうが、七〇二年七月に没したとする三国史記新羅本紀の記述と異なる』とされ、疑義を呈しています。
つまり「孝昭王」の死去した年次及び季節として以下のように『三国史記』に書かれたものと、「新羅使」が持参した「表」に書かれた内容が異なっているというわけです。
「(孝昭王)十一年 秋七月 王薨 諡曰孝昭 葬于望德寺東 舊唐書云 長安二年理洪卒 諸古記云 壬寅七月二十七日卒 而通鑑云 大足三年卒 則通鑑誤」(『三国史記』)
このように『三国史記』では死去したのが「秋」(七月)とされており、「春」ではありません。これは「矛盾」であり、一種「謎」のわけですが、これはそのまま「謎」として未解明となっているようです。
ところで、『三国史記』を見てみると、「春」に死去した「新羅王」は以下の三名しかおりません。(ただし七世紀以降)
①「(真平王)五十四年(六三二年)春正月 王薨 諡曰眞平 葬于漢只 唐太宗詔贈左光祿大夫賻物段二百 古記云 貞觀六年壬辰正月卒 而新唐書 資理通鑑皆云 貞觀五年辛卯 羅王眞平卒 豈其誤耶」
②「(善徳女王)十六年(六四七年)春正月 曇・廉宗等謂 女主不能善理因謀叛擧兵不克 八日 王薨 諡曰善德 葬于狼山 唐書云 貞觀二十一年卒 通鑑云 二十二年卒 以本史考之 通鑑誤也」
③「(真徳女王)八年(六五四年)春三月 王薨 諡曰眞德 葬沙梁部 唐高宗聞之爲擧哀於永光門 使太常丞張文收持節吊祭之 贈開府儀同三司賜綵段三百 國人謂始祖赫居世至眞德二十八王 謂之聖骨 自武烈至末王 謂之眞骨 唐令狐澄新羅記曰 其國王族 謂之第一骨 餘貴族第二骨」
これら三名しか「春」に死去した王はいないというわけですから、『続日本紀』に書かれた、「新羅使」が持参した「表」の内容を信憑するとした場合、上の三名の「新羅王」のいずれかの記事が「混入」ないしは「移動」されたのではないかという疑う余地が生じます。
これは『持統紀』の記事にもいえることであり、この「新羅王」が「神文王」とは考えにくいとすると、「十一月」(調使到着付近)以降「二月」までの間に死去した「新羅王」を他に検索することとなりますが、『三国史記』にはそのような例についてもやはり上の「春」に死去した三名以外確認できません。他の「新羅王」はいずれも「冬」ないし「春」の時期には死去していないのです。そうであればこの三名のいずれかが(一)と(二)つまり『持統紀』と『文武紀』に書かれた「亡くなった新羅王」である可能性が高いと推量します。(続く)