「奈文研」などの見解では「木簡」に記された「辛酉破上弦」「戊戌皮三月節」などの文字列から、この「具注歴」の暦として「元嘉暦」が相当すると考えられています。しかし、この「具注歴」に書かれた暦は本当に「元嘉暦」なのでしょうか。
「奈文研」を始めこの「具注歴木簡」に書かれている暦が「元嘉暦」であるという点では異論を見ませんが、本当にそうかというのが当方の意見です。
疑問に思う一点は上に見たように「永昌元年」という「唐」の年号との矛盾です。この年号の使用日付と「具注歴木簡」の日付(月)は同じなのです。全く同じ月を表現するのに「暦」は「元嘉暦」で、年号は「唐」の年号というのは甚だしい「矛盾」と言えるのではないでしょうか。「元嘉暦」が「南朝」の暦であり「唐」にとって「忌むべき」ものとも言える性格であることを考えると、「永昌」という年号と共存できるはずがないと言えるでしょう。この年次は「六八九年」とされていますが、「倭国」と「唐」の関係は「六四八年」に一旦国交が回復したわけであり、その時点で「唐」の暦を導入したと見るのが相当と思われ、「戊寅元暦」の使用があったものではないでしょうか。その後確かに「白村江の戦い」などにより「唐」との関係は悪化しますが、この「唐」の年号を使用するという段階で「元嘉暦」に戻っていたとも考えにくいのです。
この「具注暦木簡」に表された日付や十二直などの表記は確かに「元嘉暦」で再現できますが、実は同様に無理なく再現できる他の暦が存在しています。それは上に述べた「戊寅元暦」です。これによってもこの「具注歴木簡」に書かれた干支や十二直は再現できます。但し「戊寅元暦」では「三月」が「小の月」となります。つまり「二十九日」までしかないわけです。
「奈文研」が発表した復元案(※)によれば暦の冒頭に月名などを表記するために「四行分」の「スペース」を取り、その後に等間隔で三十日分の記事を書いているようになっています。つまり、写真を見ると「三月癸亥」の真裏に「四月戊戌」が来るように見えます。「四月戊戌」というのは「十六日」であるわけであり、三十日側から数えると十五行目となります。この真裏に「三月癸亥」があるわけであり、これが(「元嘉暦」のように)「大の月」なら「十一日」となりますから、先頭に四行スペースを取ると同様に十五行目となって「真裏」に来ることとなって位置の対応は適合するという訳です。しかし、スペースが四行分かどうかは実は不明であり、これが四行としているのは「逆」に「三月」を「大の月」とするためであり、「元嘉暦」が使用されているということを言おうとする為であるともいえます。
この先頭分のスペースが「五行分」であったとすれば、「十六日」である「四月戊戌」は十五行目で変りませんが、「三月癸亥」が「十日」となっても同様に「十五行目」となって整合します。つまり、「三月」は「小の月」で良いこととなりますから「戊寅暦」であっても構わないこととなります。(スペースが五行あったとする方が月名などをそのスペースの真ん中に書き込むのに都合が良く、またバランスを取りやすいと思われます。)
そもそもこの時の「暦」そのものが不明なのですから、「三月」が「大の月」と決まっているわけではないのは当然であり、「二十九日」までしかなかったという想定も充分有り得ます。(但し、これは『書紀』の『持統紀』に使用されている暦の種類の問題とは別であり、そこには「元嘉暦」によって記されているとしか考えられない記述が並んでいることは確かです。しかし、『書紀』の記述に使用されている暦が必ずその時点で使用されていた暦であると言えないのは古代の部分の記述に「儀鳳暦」が使用されている例からも当然であると思われます。)
ここで想定した「戊寅元暦」は「唐」で始めて改暦された記念碑的な「暦」であり、「唐」では「唐初」から「麟徳暦」に取って代わられる「六六五年」まで使用されていたものです。「中国」で作られた「暦」が既にその本国である中国で使用されなくなり、とうの昔に改暦されていても、周辺国では使用が継続しているというのはしばしば確認される事象です。なによりも、「戊寅元暦」がここに使用されているとすると、「永昌」という「唐」の年号との「矛盾」も解消する事が重要であると思われます。
ただし、倭国ではこの「戊寅元暦」が既に「唐」では使用されていない古いものであったということにこの「六八九年」の「祝賀使」派遣の時点で気がついたということではなかったでしょうか。そのため帰国後「麟徳暦」への改暦が議論され決まったものと思われますが、通常「暦」の製作と頒布は「十一月朔日」に行なわれるものですから、この年はそれができなかった可能性があります(十一月がなくなってしまったため)。そしてその翌年の「十一月」の時点で「改暦」されたものと見られ、「麟徳暦」が使用される事となったと見られますが、またこの「六九〇年十一月」という時点は「庚寅年籍」の造籍が為された時点でもあり、これは「改暦」と同時の出来事であった可能性が高いと思料します。
(※)奈文研ニュース№8「具注暦木簡復元図」