古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊吉博徳」の「官位」の停滞について

2017年09月30日 | 古代史

 すでに「貧窮問答歌」について考察したわけですが、そこで「山上憶良」が「遣唐使」段階で「无位」であったのは「旧王権」に忠誠を示した結果であるとしました。その際「比較」として「伊吉博徳」について触れたわけですが、そこでも述べたように彼の「官位」の変遷については明らかな「停滞」があります。その点について述べてみます。

 「伊吉博徳」という人物が『斉明紀』に出てきます。彼は遣唐使団の一員として「六五九年」に派遣され、その時の一部始終を記録した「書」が『書紀』に引用されていることで知られています。そこに参加した時点の「官位」は不明ですが可能性としては「无位(無位)」であったかもしれません。
 ところで彼は『天智紀』には「熊津都督府」から派遣されていた「司馬法総」なる人物の帰国の際「送使」として登場しますが、その時の官位は「小山下」と書かれています。

「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」

 それ以前(六五九年)に「遣唐使」として派遣されそれから八年後には「小山下」という官位に就いているわけですが、更にその後『持統紀』に「大津皇子」の謀反に連座したという記事があります。

「(六八六年)朱鳥元年九月戊戌朔丙午。天渟中原瀛眞人天皇崩。皇后臨朝稱制。
冬十月戊辰朔己巳。皇子大津謀反發覺。逮捕皇子大津。并捕爲皇子大津所■誤直廣肆八口朝臣音橿。『小山下壹伎連博徳』。與大舍人中臣朝臣臣麻呂。巨勢朝臣多益須。新羅沙門行心及帳内砺杵道作等卅餘人。
…丙申。詔曰。皇子大津謀反■誤吏民帳内不得已。今皇子大津已滅。從者當坐皇子大津者皆赦之。但砺杵道作流伊豆。又詔曰。新羅沙門行心。與皇子大津謀反。朕不忍加法。徙飛騨國伽藍。」

これを見ると「伊吉博徳」と同一人物と思われる「壹伎連博徳」の官位が「小山下」とされ、十九年経過していても全く官位が加増されていないことに気がつきます。通常よほど不手際や失策などがない限り四年程度の期間を経ると一階程度の上昇があって然るべきですから、彼の場合は不審といえるでしょう。
 たとえば「當摩眞人國見」の場合を見てみると、「直大参」から「直大壱」まで十三年で上昇しています。

(六八六年)朱鳥元年…
九月戊戌朔…甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次『直大參』當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。

(六九七年)十一年…
二月丁卯朔甲午。以『直廣壹』當麻眞人國見爲東宮大傅。直廣參路眞人跡見爲春宮大夫。直大肆巨勢朝臣粟持爲亮。

(六九九年)三年…
冬十月…辛丑。遣淨廣肆衣縫王。『直大壹』當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。

 この間の位階数は四段階であり(直大参-直廣弐-直大弐-直廣壹-直大壹)それであれば十三年という年数はそれほど不審ではありません。このような官位の加増の程度と比べると「伊吉博徳」の十九年間の官位の停滞は、海外使者の送使という重要任務を果たしていることを考えると疑問が出る所です。しかも官位が上昇していないのは実際にはこの期間を超えているのです。それは「六九五年」に「遣新羅使」として派遣された際の官位に現れており、そこでは「務大貳(弐)」とされていますが、この官位は「小山下」とほぼ同じレベルのものなのです。

「(六九五年)九年…
秋七月丙午朔…辛未。賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野。『務大貳』伊吉連博徳等物。各有差。」

 ただしこの間「大津皇子謀反」という事件に「連座」するという失態を犯していますから(「赦免」はされたものの)、そのために昇格が遅れたとも考えられる部分はありますが、その後「新羅」への使者という重責を担っていることもあり、朝廷内では「外交のベテラン」としての地位が失われたわけではないことがわかります。しかしそれでも「六六七年」から「六九五年」までの合計「二十八年間」全く官位が上昇していないこととなり、これはかなり異常な事態と言うべきではないでしょうか。しかもその後今度は「急上昇」ともでも言うべき「官位」の増加が記録されています。
 彼はこの『持統紀』の遣新羅使としての任務帰朝後「律令」の撰定という国家的任務に従事し褒賞を得ており、その段階で「從五位下」という位階であったことが知られています。

(七〇一年)大寳元年…
八月…癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。

「小山下」と「務大貳」はほぼ同レベル(七位クラス)と思われますから、「従五位下」という官位までには「十一段階」ほどの上昇が必要です。これはその期間である「六年」という年数を考えると、今度は逆に異常な出世と言うべきでしょう。

 同じ「遣新羅使」として一緒に派遣された「小野朝臣毛野」の場合、この派遣の際に「直廣肆」であったものが死去した際には「従三位」という官位に上がっています。彼の場合は「十九年」に「八段階」ほどの上昇となり、「遣新羅使」という重責を担った後に多少の位階上昇が「褒賞」として与えられたとみれば自然なものといえます。しかし「伊吉博徳」の場合はそれと比べても急激な位階の上昇といえるでしょう。このこと及びそれ以前の長期の「停滞」は何か重要な意味を持っていることを想起させます。

そもそも「伊吉氏(壱伎氏)」は「天武紀」において「史」姓から「連」姓への(他の多くの氏族と共に)改姓されています。

「(六八三年)十二年…
冬十月乙卯朔己未。三宅吉士。草壁吉士。伯耆造。船史。『壹伎史。』娑羅羅馬飼造。菟野馬飼造。吉野首。紀酒人直。釆女造。阿直史。高市縣主。磯城縣主。鏡作造。并十四氏。賜姓曰連。」

確かに「壬申の乱」記事において「壱伎史韓国」という人物が「近江朝廷」の側の武将として活躍しており、その点「連姓」を賜与された年次とは齟齬していません。しかし「博徳」の場合は「改姓」年次である「六八三年」以前の「六七六年」という時点ですでに「連」が付与されて記述されています。

(再掲)
「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」

 しかし、ここで「伊吉博徳」と一緒に派遣されている「笠臣諸石」についてはその後行われた「八色の姓」制度により「臣」から「朝臣」へと改姓されていますが、この「六六七年」という時点での「姓」としては齟齬がありません。

「(六八四年)十三年…
十一月戊申朔。大三輪君。大春日臣。阿倍臣。巨勢臣。膳臣。紀臣。波多臣。物部連。平群臣。雀部臣。中臣連。大宅臣。栗田臣。石川臣。櫻井臣。采女臣。田中臣。小墾田臣。穗積臣。山背臣。鴨君。小野臣。川邊臣。櫟井臣。柿本臣。輕部臣。若櫻部臣。岸田臣。高向臣。完人臣。來目臣。犬上君。上毛野君。角臣。星川臣。多臣。胸方君。車持君。綾君。下道臣。伊賀臣。阿閇臣。林臣。波彌臣。下毛野君。佐味君。道守臣。大野君。坂本臣。池田君。玉手臣。『笠臣』。凡五十二氏賜姓曰朝臣。」

 なぜ「博徳」の場合「改姓」に先立つ時点ですでに「連」姓となっているのでしょうか。なぜ位階の上昇が不自然なのでしょうか。
 これについては「山上憶良」の位階上昇と比較するとわかりやすいかもしれません。彼も「遣唐使」として派遣された段階で「無位」であったものがその「十三年後」には「従五位下」まで位階が上昇しさらに「伯耆守」「東宮侍従」等要職を歴任した後「筑前守」として赴任している実態があります。この「憶良」の位階上昇とよく似ている気がするのです。
 「山上憶良」の場合には元「倭国」の官僚であったものが新日本王権への態度などから「冷遇」されていたと考えたわけですが、それは「伊吉博徳」にもいえることなのかもしれません。「連」姓を以前から名乗っているのも「旧王権」からの下賜であったとも考えられます。
 「伊吉博徳」は「遣唐使」として帰国後「朝倉朝廷」から「寵命」を受けられなかったと『書紀』に書かれていますが、これは「褒賞」としての「官位」の増加などが全くなかったと言うことも意味しているのかもしれません。そうするとその後の昇進にブレーキがかかる最大の理由はこの時の「朝倉朝廷」との確執であり、それ以降冷遇されるようになったとすると、この「朝倉朝廷」(通常「斉明」の朝廷とされる)の政治的位置が問題となるでしょう。

 「伊吉博徳」達の遣唐使団は「新羅」を経由するルート(「北路」と称する)ではなく「東シナ海」を横断するルートを選んでいます。これは「新羅」との関係悪化を背景としたものと推定されており、その意味でも彼を派遣した時点の「朝廷」は「親新羅的」とはいえなかったはずです。しかし「唐国内」において「倭種韓智興の供人西漢大麻呂」からの「讒言」を受けるにいたって、「洛陽」「長安」に遣唐使団一行は別れて幽閉され、その間に「百済」滅亡という事態が発生したわけであり、帰国後の「朝廷」に「変化」(政治的立場等)があったとすると不思議ではなく、その意味で「出発時」と「帰国時」で対応が異なるものとなった可能性はありえます。
 ただ、彼の場合は「外交経験」が豊富であり、新王権としてもその経験と能力を買って「憶良」のように「无位」まで落とされることは避けられていたと推定できるわけです。

コメント

「高地性集落」と津波の関係 -銅鐸の変化とともに-(再度)

2017年09月30日 | 古代史

以下はかなり以前にブログ記事としてアップしたものですが(会報にも投稿しましたが未採用です)、最近も地震・津波の被害が発生するなど列島を取り巻く状況は変わらず不安定のままです。 今回改めて以前アップした記事を再度投稿することとします。  


「高地性集落」と津波の関係 -銅鐸の変化とともに-

「趣旨」
 ここでは「高地性集落」の発生は「戦争」と直結するものではなく、通常の生活が行われており、通常の村落と変わらないと思われること。それは巨大津波の発生と深く関連していると考えられること。近年の各種調査により、約2000年前に南海トラフにおいて巨大地震が発生していたらしいことが明らかにされていること。津波が「平野部」を広い範囲で襲った結果、人々が丘陵部などの高地へ集落を移動させたと見られること。放射性炭素年代測定の結果「津波年代」と「後期高地性集落」の生成年代とがほぼ一致すると考えられること。それは「弥生時代」に一画期を呈したものであり、「近畿」における「弥生後期」という時代区分が発生する原因となっていると考えられること。九州北部ではその津波は巨大化しなかったと見られ、比較的低地に「高地性集落」が営まれる原因となっていると考えられること。銅鐸の分布域と「高地性集落」の分布は重なること。また銅鐸の形式や文様の変遷と「高地性集落」の変遷が重なっていること。「津波」という天変地異を「鬼神の祟り」と考えた結果、祭祀の内容が見直され、「祭器」であったと思われる銅鐸について、その形式等が変更されたと考えられること。狭くなった平野部の争奪戦が発生した可能性があり、「高地性集落」が「城」ないしは「砦」という軍事的機能が付加されたと考えられること。以上について考察します。

Ⅰ.「高地性集落」の発生について
 「高地性集落」とは主に弥生時代に確認されるもので「弥生中期」に「中部瀬戸内」と「大阪湾岸」、また「弥生後期」には「近畿」とその周辺に顕著に見られるものであり、平野部からの比高差で50~100m程度の「平野部」や「河川」あるいは「海」などを広く望むことのできる高地に形成された集落であり、以前の理解としては稲作の生産性向上による村落というコミュニティ内部の権力闘争など「矛盾」が発生した結果、軍事的色彩を帯びる形でこれらの「高地性集落」が形成されたとされていましたが、近年その身直しが進んでいるようです。(註1)
 その実態としては、それら高地性集落からは「投擲用」かと思われる「石塊」など「武器」らしいものが確認される例や、「烽火」を挙げた跡らしきものが確認されるなどの、「軍事的」施設であることを示唆するものも出土していますが、他方平地の集落と同様の遺物も確認される例も多く(石包丁や紡錘車など)、これが純粋に「軍事的」なものであるとは明確には考えられなくなっているのは事実のようです。(註2)
 またこの時代に大きく農業生産性が高まったというようなことも現在では否定されつつあります。(註3)
 ただし明らかに平野部に留まっていることができなくなったがために、丘陵地帯に移動したものであり、それは集団でしかもある程度広範囲の地域でほぼ同時期に起きたものであることが重要です。
 たとえば、紀伊半島の海岸線に近い各所における高地性集落についてその時代的変化を見てみると、当初平野部に営まれていたものが後には海岸線から数km入った内陸の丘陵地帯に連なるように集落ができ、そこからは以前とは(あるいは平野部とは)型が異なる銅鐸が多数発見されています。(註4)
 この「銅鐸」に関してはこれが「祭祀」に使用された「祭器」であると言うことでほぼ一致しているようですが、そのようなものが「型」が変化するとともに集落の多くが同時期に(言い換えると「一斉」に)その場所を移動するということが起きるためには「外的」な要因が必要と思われます。それはよほど強力な政治的、軍事的要因が考えられるとともに、他方「自然災害」を考える必要もあるのではないでしょうか。
 ここでは「大地震」とそれに伴う「津波」が関係しているのではないかという想定の下、考察してみることとします。

Ⅱ.2000年前の大地震とそれにともなう津波
 近年の調査(註5)によって「南海地震」あるいは「東海地震」と連動する「東南海地震」の発生は約150~200年おきともその倍の400年程度の間隔ともいわれていますが、いわゆる書かれた資料の時代(「歴史時代」というようです)以前のものとして約2000年前のものが「最大」とされ、「江戸時代」の「宝永年間」に発生したもの(推定マグニチュード8.0)を超える規模であったらしいことが推定されています。
 それによれば高知県土佐市の「蟹が池」に残された約2000年前の津波によると思われる津波堆積物の厚さは、「宝永地震」による津波によるものの3倍を超えるほどであり、この「宝永地震」の際の津波の高さとしては残された史料(註6)から約25m程度はあったであろうと推定されていることを考えると、この2000年前の地震の際の津波の推定高さは80m程度はあったこととなります。(ただし、他の池では堆積物の厚みの差はこれほどではないようであり、これは「蟹が池」に関して特有の環境が存在している可能性はあり得ます。)
 「徳島県阿南市」の「蒲生田大池」に関しても、史料として確認される範囲では「宝永」「安政」「昭和」の地震の際には津波は流入していないとされている(註7)のに対して、「ピストンコアボーリング調査」の結果でも過去3500年間で唯一回だけ「津波」による堆積物が確認でき、それは約2000年前の地震の際の津波がもたらしたものであることが確認されています。(註8)
 さらに最近の成果として「三重県」にも巨大津波の痕跡が確認されるなど、二〇〇〇年前に「巨大地震」が西日本一帯を襲ったとすると、海岸線に近い地域では地盤沈降と津波により広大な浸水域が形成されてしまい、海岸線やその内陸の平野部分に居住していた周辺住民の生活に大きな影響と変化を来したものと考えられます。つまり、このときの地震の影響によって「近畿」とその周辺に見られる「高地性集落」が形成されたとは考えられないだろうかということです。
 今回の「東日本大震災」においてもそうでしたが、大規模な津波の場合海岸線から数km内陸まで津波が到達することがあり、それは「北海道」から「西日本」にいたる各地の「陸上地域」に津波堆積物があることが確認されていることからも推定できます。(註9)
 「弥生」という時代そのものが、「沖積平野」が現在ほど発達していなかった時期であったことを考えると、海岸線は現在よりかなり内陸に入り込んでいたと考えられ、津波による浸水域は現在の海岸線から相当深くまで到達していたであろうと推察されますから、平野部に居住していた人々はかなり高地への移動が余儀なくされたということが考えられます。
 実際に色々な機関で調査した結果によると北海道から四国までの地域で、現在の海岸線から3000m内外程度までは津波が進入することが過去何度かあったことが推定されています。
 このような被害を経験すると、人々は「不安」と「物理的」な理由とから海岸線に居住を継続することを選択しなくなったものと思われ、安全と思われる線まで後退し、高所に移動した上で「集落」を再形成することとなったという可能性が考えられます。
 たとえば、後年の例ですが、浜名湖の近隣地域である静岡県湖西市の「長屋元屋敷遺跡」では、「宝永」年間の地震により、それまであった東海道の白須賀宿の集落が甚大な被害を受け、村ごと北側の台地上に移転したことが史料に残されています。(註10)また「三重県鳥羽市国崎」においても「明応東海地震」(一四九八年)で「平野部」の「大津集落」が壊滅した後、生き残った人々が集落全体として丘の上の「国崎」へ移転し、そのままおよそ五〇〇年間平野部に戻らなかった例があります。(註11)また、その他にも「土佐」国(元高知県)に残る各種の資料(註12)には数多くの「集落」や「寺院」などが「宝永」の地震後高台や山の中腹などに移転したことが記されており、これはまさに東北地方で現在進行している状況でもあります。
 同様のことが「弥生時代」に起きたのではないかと考えられる訳です。
この「高地性集落」の年代については以前は土器編年によって「2~3世紀」とされ「卑弥呼」の直前の時代と考えられた結果、『魏志倭人伝』にいう「倭国乱」との関係が想定されていましたが、「放射性炭素年代法」(AMS法)の技術革新によりその年代が百年以上遡ることとなり、直接は関係しないということとなった模様です。その意味からも「軍事的」な存在という見解が揺らいでいると言えるわけです。
 現在の「国立歴史民俗博物館」の編年では(近畿においては)「紀元五十年」付近に「弥生後期」の開始が想定されているようであり(註13)、それはピストンコア調査の結果から見る「巨大地震」と「巨大津波」の発生時期にほぼ重なると思われ、「弥生後期」の始まりがこの大規模な自然災害の発生と関係していると考える立場に正当性があることとなります。つまり後期高地性集落の発生が即座に弥生後期の始まりと言えることとなります。(ただし、この「AMS法」については「暦年較正」の改正が現在進行中であり、「編年」全体が移動する可能性もありますが、この「ボーリング調査」の年代測定も「AMS法」ですから、平行して年代が移動することとなり、年代差には変化はないという可能性が強いと思えます。) 
 また「北部九州」に見られる「高地性集落」は近畿などのように平野部との比高差で100mにもなるようなものが確認できず、30m内外という低いものしか確認できません。その理由として考えられるのは、同じ地震の際にこの地域には大規模な津波は発生しなかったのではないかということがあります。
 大きな海溝と大きなプレートは主に太平洋側に集中しており、海溝型地震により津波が発生しても「玄界灘」においては5~10m程度の規模ではなかったかと考えられ、それほど高地に集落を移動する必要性や心理的逼迫性がなかったということも言えそうです。
 「比高差」の大きい「高地性集落」は「近畿」や特に大阪湾周辺には顕著に見られる訳であり、この場所が当時津波被害の及びやすい浅海とそれに続く低湿地帯であったことを考えると、その地理的分布の理由として「津波」が大きな要因を占めていると推定することができ、多くの人々や集落が津波被害に遭い、その後「丘陵地域」に集落ごと移動したと見るのは不自然ではないこととなります。
 この「高地性集落」(特に「河内平野」に存在するもの)については、弥生後期に発生した「気候変化」による「洪水」からの逃避によるものという理解も一部にはあるようであり(註14)、注目すべきでしょう。

Ⅲ.高地性集落と銅鐸の変遷
 ところで、「弥生時代」に区分される遺物として「銅鐸」があります。その出土分布の中心は「畿内」とされています。(但し「古墳」から出ないと言うこともあり、「古墳」の分布とはずれています。)
 この「銅鐸分布」の範囲の中に前述した「高地性集落」の分布域が包含されており、実際に「高地性集落」の立地と「銅鐸」の埋納地はよく似たロケーションであることが指摘されています。(「高地性集落」の近辺の山陰など)
 この「銅鐸」について、「平野部」で発見されるものと「高地性集落」近辺で発見されるものとは型が異なっているのが確認されています。つまり「平野部」で確認されるものよりも「新しい」と思われるものが「高地性集落」において確認されると同時に、そのような「新形式銅鐸」の分布範囲がそれ以前よりかなり狭くなるということも確認されています。
 具体的には「高地性集落」の近辺では「扁平鈕式」「突線鈕式」という形式の銅鐸が多く見られるのに対して、平地(平野部)では「菱鐶鈕式」あるいは「外縁付鈕式」が見られます。また銅鐸の表面の紋様の様式論で言うと「高地性集落」の出現と共に「扁平鈕式」「突線鈕式」共、表面を六カ所に区画する「袈裟襷文」という文様が現れるようになります。これはその祖型がそれ以前には全く認められないことでも異色とされ、それ以前と「断絶」があることが推定されています。(これについては外部からの流入ということがその要因として考えられているようです。)
 このように「高地性集落」の出現に関する経緯と要因は「銅鐸」の変遷と深くつながっているようです。たとえば「紀伊半島」(和歌山県)の内部の地域の違いによる「銅鐸」の型の変化を見ると、「南部」が最も新しいとされますが(註15)、それは「高地性集落」の発達が最も著しい地域でもあり、また「津波被害」が特に顕著であった可能性が高い地域でもあります。(これについては「伊藤義彰氏」の論考(註16)の中で、これらの「高地性集落」の存在について「近隣集落同士の紛争に備えると言うよりも海からの侵入・襲撃に備えていたのではないか」とされており、それは非常に示唆的表現と思われ、本論ではそれを「神武」のような「武装集団」ではなく「津波」であると見たわけです。)
 「津波」のような災害に襲われた場合、多くの人的被害も出したことと思われ、そのような中で祭祀そのものが「見直し」をされる状況となったという可能性もあるでしょう。「銅鐸」を用いた祭祀は「鬼神」祭祀の一つのバリエーションであったと思われ、「津波」についても「鬼神」の「祟り」と考えたという可能性があります。そのような場合、祭祀の方法や祭器などに「間違い」などがあったのかも知れないと考えたかも知れません。
 「銅鐸」は当時「神」と「人」とをつなぐ役割であったでしょうから、そのようなことが起きた場合、「銅鐸」を取り替える必要も出てくると思われます。「銅鐸」の「型」が変化する理由や、その祭祀領域が狭くなることもそのような背景で考える必要があるのではないでしょうか。
 「津波」が「鬼神」の「祟り」であったと考えたとすると、その「祟り」を封じるために「埋納」したということも考えられます。「高地性集落」の近辺で丘陵部の裾部分への埋納が多く見られるのは、それ以上の高さまで来ないようにという「結界」としての呪術的意味合いもあったのではないかと推察します。
 その後地盤の隆起と河川からの流入堆積物で「浸水域」が減少していったものと考えられ、徐に平野部分で人々の活動が記録されるようになり、また平野部において新しく異なる別の型の「銅鐸」が確認されるようになりますが、それは「高地性集落」から再び平野部に下りた人たちがいて、彼らにより新たな祭祀が始められたものと見られ、「新型銅鐸」の存在はその推移を示すものと思われます。
 また、この時に地震と津波で大被害が発生したとすると、各集落や各地域間で生存競争が激化したことが予想され、戦いが発生する要因ともなったものと思われます。特に「平野部」が津波被害にあったとすると「稲作」の適地が大幅に減少したわけであり、少なくなった耕地をめぐって争いが発生した可能性は高いと思われます。そのため「高地性集落」が「砦」として機能した側面もあったと考えることはできるでしょう。
 『日本書紀』の「天武紀」にも「白鳳大地震」の記録があり、その時代の事を記したと思われる『二中歴』「年代歴」の「朱雀」の項には「兵乱始めて起こる」とされ、この時も「地震」等によって一般の民衆の生活が多大な困窮状態となり、社会不安を招いたらしいことが示唆されています。「弥生時代」においても同様の社会不安が発生したことは疑いえず、「高地性集落」に「軍事的」意味合いが付加された例もあったとみることはできるでしょう。しかしその主たる目的は、第一義的には「津波」からの逃避であり、「津波」の到達域外の安全地帯への移動というものであったと考えます。

(補註)「弥生中期」の「高地性集落」についても、同様に大規模地震による影響ではなかったかと考えられるものの、その分布範囲から見て「海溝型地震」によるものではないと考えられ、「中央構造線」に関わるものという可能性も考えられますが、詳細は別途検討することとします。

(註)
1.「特輯:弥生社会の群像--高地性集落の実態」(『古代文化』第58号、2006年10月)所収の各氏の論など。
2.森岡秀人氏の論「弥生社会の変革と高地性集落をめぐる諸問題」(『豊中歴史同好会』272号、2010年9月)や若林邦彦氏の所論(『「倭国乱」と高地性集落論』新泉社2013年10月)など。
3.中塚武「気候と社会の共振現象 ―問題発見の新しい切り口―」(『名古屋大学大学院環境学研究科・地球環境科学専攻・地球環境変動論講座』より。それによれば「年輪」のセルロースに含まれる酸素同位体の変動についての解析により弥生時代の気候変動が再現されていますが、そこではかなりダイナミックな変動があったと推定されており、稲の収量を増加させるには支障となったであろうことが示されています。
4.小賀直樹「和歌山県の弥生時代中・後期の動向について」(『地方史研究』第四十五巻第四号、1995年8月)
5.岡村眞(高知大学)「津波堆積物から読み解く南海トラフ地震の歴史」(『自然災害リスクセミナー』2013年11月22日)及び「津波堆積物から見た南海トラフ沿いの巨大地震履歴」(『地震予知連絡会会報第87巻』)及び岡村眞・松岡裕美「津波堆積物からわかる南海地震の繰り返し」(『科学』第82巻2号、2012年2月)所収。
6.奥宮正明「谷陵記」(『大日本地震史料』)所収、国立国会図書館近代デジタルライブラリーによる)
7.都司嘉宣編「高知県地震津波史料」(『防災科学技術研究所ライブラリー』1981年3月)所収。
8.註4前掲論文に同じ。
9.垂野聖之・七山太・占川竜太・佐竹健治・三浦健一郎・牧野彰人・小板橋重一・石井止之「北海道東部、根室市納沙布岬~えりも襟裳岬間のイベント層序対比に基づく,津波の遡上規模の相対評価」(『日本地質学会学術大会講演要旨』2002年9月10日)など。
10.熊谷博之「浜名湖周辺での東海沖の大地震に伴う津波堆積物の調査」(『地学雑誌』108号、1999年)
11.内閣府中央防災会議『災害教訓の継承に関する専門調査会第二回資料の2-2』、2003年12月
12.註7前掲論文に同じ。
13.国立歴史民族博物館研究報告会「弥生年代の実年代」(2003年12月21日配付資料)等による。
14.安田喜憲「大阪府河内平野における弥生時代の地形変化と人類の居住:河内平野の先史地理学的研究Ⅰ」(『地理科学』27号、1977年6月)所収。そこでは気候変動によって「海面」が上昇し、それによる「大洪水」の影響により「平野部」が水没したためより高地への移動を余儀なくされたとする論考が示されています。
15.註4前掲論文に同じ。そこでは「…和歌山の場合、県域を北部、中部、南部に分けると、銅鐸の形式が新しいものは南部に偏在している。高地性遺跡の土器様式も、弥生後期では北部より南部の方が新しい。」とされています。
16.伊藤義彰「『神武が来た道』和歌山平野から熊野へ」(『古田史学会報』54号、2003年2月)

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