古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「神話」が国家により造られた時期について(五)

2017年09月12日 | 古代史
 一般に天岩戸伝承を含め神話の主な時期は弥生時代と思われており、せいぜい三世紀のことと理解されているようですが、すでに見たように服装から見て「天受女の命」が舞い踊ったのは五世紀のことと考えられることとなりました。
 そうすると、「天岩戸」伝承が「日食」の反映であるという説にもし則るとすると、「五世紀」に該当する例を探す必要が出てきます。
 五世紀で皆既となる日食で近畿大和を通るものは皆無です。それ以前の四世紀やその後の六世紀にも近畿や九州には適当な時間帯に皆既や金環となる日食はありません。それに対して、「熊本」「長崎」を皆既食帯が通る日食が一度あります。それが下の「四五四年」のものです。

時刻 454年8月10日 場所:熊本市(北緯 32度47分 東経 130度43分) 高度 標高 37mと設定する。

   欠け始め      金環食の始め 最大(皆既) 皆既食の終り 欠け終わり
世界時(10日) 23:43:49 1 :3 :14   1 :4 :35  1 :5 :56  2 :33:42
日本時(10日) 8 :43:49 10:3 :14      10:4 :35      10:5 :56      11:33:42
食分    0.000 1.000 1.014 1.000 0.000

 この日食以外にも五二二年に皆既食が日本列島で見られますが、もっとも皆既帯に近い近畿においても食分は深いものの皆既にはなりません。それを除けばこの四五四年の日食がほとんど唯一です。この日食は皆既中心帯が熊本付近から長崎付近を通るものであり、「皆既時間」も2分45秒程度あったもの)、その発生時刻も午前中の8時43分から11時33分までというお昼近い午前中であったものであり、絶好の時間帯でした。晴れていたとしたら(多少の曇りでも)多くの人々がこれを見上げたものと思われます。(なお上記データは北海道大学高度計算機センターの提供する日食表によります)

 ところで、この四五四年という年次は「倭の五王」のうち「済」とその次の「興」のいずれかの在位年次と推定されます。
(以下「済」と「興」の即位・逝去記事)

「(元嘉)二十八年(四五一年),加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。濟死,世子興遣使貢獻。」

「世祖大明六年(四六二年),詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」(いずれも『宋書倭国伝』より)

 この記事配列から考えて「四五四年」という年次は「済」の治世から「興」へと交代した時期であった可能性があり、「済」の死と「日食」がたまたま重なっていたという可能性も考えられます。

 「モガリ(殯)」の場には次代の王が籠って魂の継承をするという説もありますが(※)、この「天の岩戸」伝承にもそれが反映しているという可能性もあるでしょう。つまり「済」が死去した時点で「モガリ(殯)」が行われ、ちょうどその時「日食」が起きたとすると、話は整合します。
 「日食」が終わり、「太陽」が復活すると、その「モガリ」の場(古墳)から「世子」とされる「興」も現れ、太陽が再生を果たしたように倭国王も再生を果たしたと考えられたということを示すものではないでしょうか。
 しかもその地は「肥」の国であるとみられることもまた整合します。
 古墳や鉄器・銅器・鏡など考古学的成果から「卑弥呼」「壹與」以降「邪馬壹国」は「肥」の国にその中心を移したとみられますから、この時点でも「肥」に倭国王権の中心があったであろうことが推察されます。そう考えた場合「天照」たちも「肥」にいたこととなるでしょう。

 また、記事からは「天鈿女」が神がかった結果「ストリップ」まがいのことを行ったということはすでに「天照」という人物が実は男であるという可能性を強く示唆するものです。しかし『宋書倭国伝』からは「済」が女王であったとは窺われませんから、その意味でも整合するでしょう。
 太陽と共に生まれた新倭国王は「興」と自称したわけですが、「興」という字には「新しく始める」、あるいは「初めて行う」等の意義があり、新倭国王として太陽と共に生まれた人間という意識がかなり強かったのではないでしょうか。


(※)春成秀爾「祭りと呪術の考古学」(塙書房2011年)
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「神話」が国家により造られた時期について(四)

2017年09月12日 | 古代史
 この「建国神話」の形成が実際には「六世紀末」付近ではなかったかということは『古事記』の「天の岩戸」神話に出てくる「天鈿女」の服装からも窺えます。
 彼女は「天照」が「岩戸」に隠ったのを誘い出そうと「滑稽」な仕草で周囲を笑わせ、不審がった「アマテラス」を見事岩戸から出させたわけですが、その描写の中に彼女の服装が現れています。

「故於是天照大御神見畏 開天石屋戸而…『掛出胸乳 裳緒忍垂於番登也』 爾高天原動而 八百萬神共咲」

 ここに示されている服装は明らかに「貫頭衣」ではありません。「貫頭衣」では「掛出胸乳」というようなことは無理であると思われるからです。これは明らかに「合わせ襟」の服装であり、また「裳緒」という表現からも上着とは別にスカート状のものをはいている姿が想定されるでしょう。

 さらに『神代紀』には「天照」が「素戔鳴」が来るというので「男装」して迎え撃つシーンが書かれています。

「於是。素戔鳴尊請曰。吾今奉教將就根國。故欲暫向高天原與姉相見而後永退矣。勅許之。乃昇詣之於天也。是後伊弉諾尊神功既畢。靈運當遷。是以構幽宮於淡路之洲。寂然長隠者矣。亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留宅於日之少宮矣。少宮。此云倭柯美野。始素戔鳴尊昇天之時。溟渤以之鼓盪。山岳爲之鳴■。此則神性雄健使之然也。天照大神素知其神暴惡至聞來詣之状。乃勃然而驚曰。吾弟之來豈以善意乎。謂當有奪國之志歟。夫父母既任諸子、各有其境。如何棄置當就之國。而敢窺 此處乎。『乃結髮爲髻。縛裳爲袴。』便以八坂瓊之五百箇御統御統。此云美須磨屡。纒其髻鬘及腕。…」

 ここでは「『乃結髮爲髻。縛爲袴。』とされ、「髪」を結い上げ、「裳」を縛って「袴」としたと書かれています。つまり女性の服装としては「髪」は結い上げず、「裳」というスカート状のものを装着していたことを示すものです。これら「天鈿女」と「天照」に共通する服装は「裙襦」であると思われます。

 『隋書俀国伝』には「其服飾,男子衣裙襦,其袖微小,履如屨形,漆其上,繫之於脚。人庶多跣足。不得用金銀為飾。故時衣橫幅,結束相連而無縫。頭亦無冠,但垂髮於兩耳上。至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。」とあり、ここでは「倭国」の服装として古くは「貫頭衣」のようなものであったが、「今」は「男女」とも「裙襦」であるとされ、その「裳」には「襈」つまり「縁取り」があるとされています。
 この「裙襦」は漢民族の伝統的服装とされ、中国北半部が「胡族」に制圧された「南北朝」以降は「南朝側」の服装として著名であったものです。「裙」とは「裳裾」を指し、また「襦」は「短衣」を意味しますから、全体としては「天鈿女」が着ていたような「合わせ襟」で腰から下よりは長くない上着をいうと思われ、「下」は「裳緒」で腰部を締める「縁取りのあるスカート状のもの」であると思われるわけです。

 『魏志倭人伝』には「貫頭衣」が「倭人」の服装とされ、『隋書』でも「古い時代」は「故時衣橫幅、結束相連而無縫」というのですから、これは「卑弥呼」の時代を踏まえた表現と思われます。しかし、ここでいう「裙襦」は「漢服」であり、「南朝」の服装であったわけです。
 「倭国」と「南朝」の関係は「倭の五王」が遣使をするようになった「五世紀」以降とみるべきですから、「服装」が変化したのもそれ以降であると見るのが正しいでしょう。すでに「天孫降臨神話」については「弥生」の始まりと深く関係していると見たわけですが(シリウス関連記事による)、上に見るように服装という点では「倭の五王」以降と考えられるわけであり、そうであれば「神話」の形成には少なくとも二段階あることとなるでしょう。このことから「南朝」の影響を受けた服装で「天鈿女」が舞い踊ったのは「弥生神話」をその当時の知識と技術によりアップデートしたものが新たな「神話」として形成されたことを示すと思われ(文字の使用が可能となったため「口伝」から「書かれた記録」へといわば「進化」したものか)、それは「倭の五王」以降『隋書俀国伝』までのどこかと推定されることとなるでしょう。
 さらにそれは「古墳」に付随する「埴輪」の中に「女性」と思われるものがあり、その服装からもいえることです。それらの多くが「スカート状」のものをはき、腰紐らしきものを結び、上は襟の表現が見られるなどやはり「裙襦」と思われる服装をしています。(※1)
 「人物形象埴輪」が見られ始めるのは(近畿では)「五世紀以降」であり、その時期としてもやはり「南朝」との交渉が活発になった時期と重なります。それと関連があると思われるのが『応神紀』と『雄略紀』の双方に見られる「織女」記事です。そこには双方に「同一」と思われる記事があり、「呉」つまり中国南朝から「織女」と「織物技術」が下賜されたとあります。

「(応神)卅七年春二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。高麗王乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」

「(雄略)十四年春正月丙寅朔戊寅。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。…
三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。」

 つまり「呉」つまり「南朝」に遣使したところ、「呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」(『応神紀』)、「呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。」(『雄略紀』)とされ、「工女」や「中国風」の「織物技術」を伝術されたというわけです。
 これはいわゆる「重出」と思われ、どちらかが「真実」ではないこととなりますが、すでに行った考察により『雄略紀』が(六十年)遡上すべき記事であり(つまり『応神紀』に合致することとなります)、「五世紀前半」の出来事であったものと推定されることとなりました。これは「倭の五王」の一人である「讃」の時代の事となり、彼により「織物」や「縫製」の技術が取り入れられたと見ることができるでしょう。そしてその時代以降「南朝」的服装である「裙襦」が「倭国」、特に「王権」やそれに近い層に広がったと見られることとなります。これを「古墳」の女性像が反映していると思われるわけです。


(※1)布施友理「女子埴輪を考える」(『物質文化研究』『物質文化研究』編集委員会 編二〇〇七年三月所収)
(※2)武田佐知子『古代国家の形成と衣服制 ―袴と貫頭衣―』吉川弘文館一九八六年
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「神話」が国家により造られた時期について(三)

2017年09月12日 | 古代史
 ところで、『平家物語などを見ると「厳島神社」の創建の伝承として「神功皇后」が出てきます。その「厳島神社」の「開祖」とされる人物は「神功皇后」には妹、「龍王」の「八歳の娘」(龍女)にも妹、「淀姫」には姉とされています。(当然「女性」です)またその「創建」の年を『書紀』の「崇峻」年間(「五九三年」)としているのが確認できます。さらにこの「祭神」を「宗像三女神」のひとりである、「市杵島比売大神」とする伝承もあります。
 このように「厳島神社」と「神功皇后」の時代を「年次付き」で現在時点として語られている伝承が存在していると言うことが重要です。このように「創建」の年代に関連して「神功皇后」の時代が設定されている意味は何でしょうか。

 このような「伝承」が『書紀』に書かれた内容を「無視」して成立するとは思えません。それでは何の「威厳」も「説得力」もなくなってしまうからです。
 古代においては「国家」の権威と寄り添うことが自己の権威の確立に必須であったと考えられるものであり、そのような時代において、その「国家」の成立について述べた『書紀』と反する時系列を表明する伝承や説話を生成・存続させることに何の意味もないと思われるものです。
 このことは、この「伝承」が語る事実と整合する国家の「成立事情」というものが「実在」していたことを示すものと推定され、それを反映したものが「神功皇后伝承」であると考えるのが、一番合理的な理解の方法であると思われます。

 西村氏が云うように「天下り神話」の重要な部分は「海幸彦山幸彦神話」であり「潮満瓊潮干瓊伝説」です。「山幸彦」が海へ行って釣り針を捜して「龍神」の宮へ行き、その帰りに「潮満瓊潮干瓊」を貰って帰るというわけです。
 もちろん「神話」の中には、古来より「口承」で伝えられた「昔語り」様の伝承の類なども含まれていると思われますが、一部については「後代」に「新しく」造られた、或いは新しい「知識」「情報」により「変改」されたものもあったのではないかと考えられ、そのようなものの中に「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を渡されるようなタイプの神話が有ったと推測します。
 つまり、古来より伝えられてきた「純粋」な「神話」が底流にあり、それを「アレンジ」してこの「潮滿瓊及潮涸瓊」が出てくるストーリーが「後から」造られたと考えられるものであり、このような「新しい」と考えられるストーリーに強く関係していると思われるのが『賢愚経』や『大方便仏報恩経』という仏教の経典に出てくる「説話」です。
 そこには「善の兄王子と悪の弟王子」という兄弟の存在、「善の王子が衆生のために如意寶珠を取りに行く」話、「善の王子が龍宮で如意寶珠を手に入れる」等々「海幸彦山幸彦神話」に類似した点が数多くあります。つまり、「龍神」と「龍王」、「海幸」「山幸」と「釈迦」「提婆達多品」、「潮満瓊潮干瓊」と「如意寶珠」というように各々の登場人物とモチーフ、鍵を握る「珠」他状況設定等の対応が明確であり、この二つの説話が深い関係にあることは確実です。これらの経典はかなり早い時期に「北魏」などで漢訳されており、「南北朝期」(五~六世紀)には中国国内でかなり著名であったものです。これらの経典が倭国にも早期に伝来していたという可能性もあると思われます。

 このような「酷似」が発生する要因ないし状況には二つの可能性があると考えられます。一つはこのような「仏教説話」あるいはそれがまとめられた「類聚」の類が「六世紀後半代」に倭国に伝来し、それの影響を受けて「同時代」(あるいは直後)に「海幸彦神話」が形成されたという場合です。この場合は「説話」の伝来に直接リンクして、「リアルタイム」で「神話形成」が行なわれたこととなります。
 もうひとつは「後代」つまり「八世紀以降」の『書紀』の編纂過程において「仏教説話」が利用され、それを「種本」として『書紀』が書かれたという場合です。この場合であれば、全て後代の「改定」と「潤色」で固められていることとなるでしょう。
 いずれの可能性が高いのかと云うことを考えると、『古事記』の内容が「推古」までしかないことの他『隋書俀国伝』に「如意寶珠」記事があるという重要なポイントがあります。

 『隋書俀国伝』には「隋」の「開皇二十年」(六〇〇年)に「倭国」からの「使者」が述べた記事の中に「俗」の信仰として「如意寶珠」があるとされています。(ただし、この記事は実際には「十年」程度の遡上が推定でき、「五九〇年付近」のこととなると考えています。それに関しては     を参照していただきたい)
 このことは実際の問題として「如意寶珠」についての信仰が「六世紀末」の「列島」に存在していたことを示すものであると言えますが、それは「如意寶珠」との関連で「海幸彦山幸彦神話」がこの時点で形成されたと考えても不思議ではないことをも示すものです。
 またそれを示すのが、「宇佐神宮」に「如意寶珠」信仰があったことが資料から判断できることです。「八幡宇佐宮繋三」によれば「文武天皇元年壬辰(ママ)大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ」とあり、それらの資料ではかなり古い時代のこととして「如意寶珠」信仰について書かれており、そこに書かれた年次(干支)から考えても「六〇〇年」以前であるのは確実であり、それは『隋書俀国伝』の「如意寶珠」とほぼ重なる意味を持っていると思われます。
 そう考えると、『隋書俀国伝』に言う「巫覡」と「宇佐神宮」の「神官」や「巫女」という存在は「如意寶珠」を媒介としてつながっているといえるでしょう。
 これらのことから「六世紀末」以前に「北朝」から「半島(百済や高句麗)経由」で「如意宝珠」と「釈迦の兄弟」に関する説話の類が伝来していたことを示すと思われ、「俗」(民間)にこの「如意寶珠」に対する信仰が広まり、それは「神話」の構成から考えてまず「海人族」を中心に受容されたことを示すと思われます。それは「宇佐」そのものが「海人族」の信仰の中にあったことからもいえることです。

 ところで「聖徳太子」の撰とされる『法華義疏』には「提婆達多品」がありません。「八歳の龍女説話」はこの『提婆達多品』の中に存在するものですから、このことは彼が依拠した『法華経』には「提婆達多品」が「ない」ことになり、その依拠する資料は「天台大師」以前のものであることが明白であることとなります。少なくとも「五八〇年代前半」以前の流入を想定すべき事となるでしょう。そうであれば、有力なものとしては「五七七年」のこととして「百済」から『法華経』が伝来したという以下の記事が相当すると思われます。

「藥恒法花驗記云。敏達天皇六年丁酉。百濟國獻經論二百餘卷。此論中。法華同來。」(『扶桑略記』より)

「(敏達)六年(五七七年)夏五月癸酉朔丁丑条」「遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。」
「(同年)冬十一月庚午朔条」「百濟國王付還使大別王等。獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。」

 ここでは「大別王」という人物を百済に派遣して、「仏典」等を招来したというわけですが、その中に『法華経』の経典があった、という事のようです。(『一切経』が招来されたものか)そしてこの『法華経』の中には「提婆達多品」がなかったということとなります。逆に上にみるような「海幸山幸神話」に元となるような経典がそこに含まれていたということは十分考えられます。
 このような経緯があったとすると、その後も「如意寶珠」と「満干の瓊」との類似性が強く意識されることとなったものと思われ、謡曲「鵜羽」では「豊玉姫」を語る際に「八歳の龍女」と「如意宝珠」が引き合いに出されています。

(以下謡曲「鵜羽」の一部)
「鵜の羽葺き合はせずの謂委しく承り候ひぬ。さて干珠満珠の玉のありかは何くの程にて候ふぞ。さん候玉のありかもありげに候。誠は我は人間にあらず。暇申して帰るなり。そも人間にあらずとは。いかなる神の現化ぞと。袖を控へて尋ぬれば。終にはそれと白浪の。龍の都は豊かなる。玉の女と思ふべし。龍の都は龍宮の名。又豊かなる玉の女と聞けば豊玉姫かとよ。あら恥かしや白玉か。何ぞと人の問ひし時。露と答へて消えなまし。なまじひに顕はれて。人の見る目恥かしや。隔てはあらじ芦垣の。よし名を問はずと神までそ。唯頼めとよ頼めとよ。玉姫は我なりと。海上に立つて失せにけり。/\。嬉しきかなやいざさらば。/\。この松蔭に旅居して。風もうそぶく寅の時。神の告げをも待ちて見ん。/\。八歳の龍女は宝珠を捧げて変成就し。我は潮の満干の瓊を捧げ。国の宝となすべきなり。」
 
 『書紀』の「神功皇后紀」の「豊玉比売」の説話と『法華経』の「八歳の竜女」説話とが同一のレベルの話となり、混在して理解されているわけです。

 「娑竭羅龍王」の「八歳の竜女」は「厳島神社」の創建に関わって「神功皇后」の妹として出て来るわけですが、「神話」では「豊玉比売」という人物は「彦火火出見」の妻として出てくるものであり、「竜王」の「娘」とされます。このことは『書紀』の「満干の瓊」と『法華経』の「如意寶珠」が同一視されていた証明でもありますが、またそれが説話の形成時期として「同一」であるという証明でもあると思われます。

 この「龍女説話」が含まれる『法華経』の伝来は「遣隋使」と「隋使」の往還によると考えれば「五八九年付近」のこととみることもでき、そうであれば「厳島神社」の創建が「五九三年」とされていることは、その意味で整合的であり、これらが直接関連していることを示すものです。つまり彼らにより『提婆達多品』が添付された『法華経』が「倭国」にもたらされたものであり、それに啓発されて「八歳の龍女」伝承が「厳島神社」などでみられるようになったものと思われるわけです。それは「神功皇后」の実年代も同様に「六世紀末」であるということを示唆するとものですが、それは別の言い方をするとこの時点付近で「神話」が国家により形成されたと考えることもでき、結局「神話」が「民話」の段階から「国家」としての「建国神話」となる時点の上限は「六世紀の末」付近であることが推測できるというわけです。

 この時点で「建国神話」が造られたとすると「建国神話」の登場人物は「現実」(「利歌彌多仏利」時点)での実在の人物と強く「リンク」していると考えられます。
 たとえば、「天孫降臨神話」の説話は、「当人」である「瓊瓊杵命」及びその母である「萬幡豊秋津師媛命」、またその父である「高皇産靈尊」(高木神)、「天孫降臨」に随伴する「思兼神」(これも「高皇産靈尊」の子供)、「瓊瓊杵命」の子である「彦火火出見(山幸彦)」、「瓊瓊杵命」の父である「天忍穂耳命」、その更に父である「素戔嗚尊」などで構成されています。
 上で考察したように、この「原・日本紀」とも言うべき史書の成立がこの時代であるとすると、これら「神話」中の人物は『神功皇后紀』の登場人物を「媒介」として「利歌彌多仏利」の周辺の人物に同定可能となると考えられます。
 たとえば、「神功皇后」は「法隆寺釈迦三尊像」の「光背」に書かれた「鬼前太后」に比定されるものと思われますが、彼女は「高皇産靈尊」の子供である「萬幡豊秋津師媛命」に対応していることとなるでしょう。
 また、彼女が抱いていたまだ幼い「瓊瓊杵命」は「胎中天皇」と呼ばれた「応神天皇」を通じて「阿毎多利思北孤」に対応しているものと考えられます。(「胎中」という用語は「隋の文帝」についても使用されており、『書紀』編纂者は『隋書』を見て「応神」について「胎中」という用語を使用していると思われますから、「隋の文帝」のイメージそのものが「応神」に投影されているという可能性があるでしょう。また、その意味でも「六世紀末」という時期が措定されるのは妥当であると思われます。)

 (隋の文帝に関する「胎中」の使用例)
「歴代三寶紀卷第十二譯經大隨開皇十七年翻經學士臣費長房上
大隋録者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。雲慶露甘珠明石變。聾聞瞽視?語躄行。禽獸見非常之祥。草木呈難紀之瑞。豈唯七寶獨顯金輪。寧止四時偏和玉燭。是以金光明經正論品云。因集業故得生人中。王領國土。故稱人王。處在『胎中』諸天守護。或先守護然後入胎。三十三天各以己德分與是王。以天護故稱為天子。赤若之??屋馭時。土制水行興廢毀之。佛日火乘木 運?年。號以閏皇。可謂法炬滅而更明。否時還泰者也。…」
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