古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

弥生時代の始まりと倭王権

2017年11月12日 | 古代史
 以前「シリウス」について考察しましたが、「紀元前八世紀」という時点付近で「縄文時代」に別れを告げ、「弥生時代」という新しい時代位相を迎えたとみられるわけですが、『書紀』の神話にもそれが反映していることとなりました。つまり「天孫降臨神話」の主役である「火瓊瓊杵尊」という名前から、その原型は「シリウス」が「赤かった」あるいは昼間も見えるほど「明るかった」時代を反映しているとみられるわけです。そして、それはとりもなおさず、紀元前の早い時期のことのことであったこととなるでしょう。それは紀元前後付近では「シリウス」はほぼ現在と変わらない状態となっていたと推察されるからであり、神話の発生は弥生時代の始まりとまさに軌を一にするものであったという可能性を示唆するものです。
 つまりこの「星の世界」を投影した神話が「当初」形成されたのは当然古墳時代などではなく、もっと古い時代つまり「弥生時代」の始まりの時期が相当することとなるでしょう。(当然「書かれたもの」としてではないはずですが)

 ところで『論衡』に記されたところによると紀元前十二世紀付近で「倭」と古代中国(ここでは「周」)との関係が初めて構築されたように見えます。

「周の時(紀元前十二世紀)、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」( 「論衡」巻八、儒増篇)

「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢す」(「論衡」巻十九、恢国篇)

 この段階は「殷」の宰相であった「箕氏」が「周王朝」成立後「朝鮮」に封じられその地に「周王朝」に対する敬意を抱く文化を醸成したとされますが、その文化の及ぶ範囲に「倭」もあったという事を示すものと思われ、その後の「倭王権」の従属意識の方向を決定づけたと言って良いでしょう。
 しかしこの時点では「倭」ではまだ「縄文時代」であり、本格的な「クニ」造りが始まっていなかったと見られます。ただし、この時点で「半島」との交流が行われるようになった地域とそうでない地域とでは同じ「縄文」といいながら内実はかなり差があったことが窺えます。

 神話世界をみてみると「天孫降臨」の際には「葦原中国」を統治している「王」のような存在である「大国主命」という存在がすでに存在していることが描かれています。明らかに先在王権としてのものであり、それが「半島」との交流の結果他地域に対して優越する軍事・文化を擁していたことが窺えるわけですが、それが「出雲」という地域として描写されているのは意外ではありません。
 半島との距離など考えると交流がありうるとして当然だからです。「素戔嗚尊」についての説話の中に「新羅」との関連が示唆されるものがあるのもそれを示します。
 新進であり後発である「江南」からの移住者たる「火瓊瓊杵尊」等は「出雲」の権力者との関係をどう構築するかが最大の問題であったでしょう。それらは「国譲り」という神話として描かれることとなったわけであり、結果的に「軍事面」での優位性をアピールすることにより列島における「覇権」を握ったとみられるわけであって、それが「神話」に反映していると思われるものです。

 「紀元前八世紀」に入って「一大気候変動」が起き、それに伴い「周」王朝が衰退するなどした結果列島でも「弥生時代」が始まるわけですが、この時の時代位相の変化は(気候変動が食料調達の困難さを伴うものである事から)必然的に人の移動を伴うものであったものであり、その流れは列島内では北方から南方へというものであり、また大陸から列島へというものであったものです。そのようなケースの中には大陸から周王室の血筋を引く人物が列島にやってきたということも考えられます。
 そのようなケースがあったとすると、彼は列島の人々から「天孫」と考えられても不思議はなかったでしょう。そしてそれはその後「倭」からの使者が「大夫」を称する淵源となったとも考えられることとなります。

 弥生時代の「倭」では「周」に対する畏敬の念はかなり深かったものと思われますが、その一因としては「弥生」文化の主要な担い手が大陸(特に江南方面か)からの流民であり、かれら自身が「周」王室に対して一定の敬意を持っていたと思われるからです。それは「呉」の成立の事情と関係していると思われます。
 『史記』によれば「周王朝」の王子が「呉」の建国者とされており、「呉」の人々の「周」に対する畏敬の念は当時の倭人と共通していたという可能性が考えられます。倭人も『後漢書』等によれば「呉の太白の末裔」を自称していたとされ、そのような人々が弥生の倭王権(原初的なものとは思われますが)の主人公であったとすると、周王室に関係した人物について「王」として新たに戴くことに大きな抵抗があったとは思われません。

 平安時代までの宮中講義で、天皇家の「姓」が問題となり「姫」氏であるとされているらしいことが判明していますが、それが「周王室」の姓であるのは明らかとなっています。そのことは「周」王朝と日本国の源流であるところの倭王権が「同祖」であることを示しますが、それがどの時点に分岐点があるのかというと従来明確とは言えなかったと思われますが、既に行った分析により「弥生時代」の始まりの時期こそがまさにそのタイミングであったらしいことが強く推定されることとなったわけです。(この時代に「西周」が崩壊したとされていますから、その意味でも整合しているわけです。)
 この時点で「初代王」としての「瓊瓊杵尊」が降臨、つまり中国から渡来し、「倭」という東夷において「周」に対する敬意の元で中国文明に対して従属するという意識を持った王権が形成されていったものと思われるわけです。

 日本神話を見ると「国譲り」が描かれており、それは「出雲」から「筑紫」へという権力移動を示していると思われるわけですが、それは上にみた「周王朝」の関係者が大挙して列島に移り住むようになった時期と時を同じくするものと思われ、「弥生」以前の西日本全体の支配の中心が「出雲」にあったことを示すものと思われます。
 そこでは「出雲」と「諏訪」の関係の他、「出雲王権」の出自が「半島」に起源をもつものであること、彼らは「武器」というより「医薬」の力で信頼と尊敬を集めていたことなどがうかがえるものです。そう考えれば「出雲」に中心王権があったのは弥生時代というより縄文終末期であったこととなりますが、そうであれば「太陰暦」を使用していたと考えるのは一見難しそうですが、「周」と関係があったとみれば「周暦」が渡っていたという想定もできなくはありません。しかしその統治範囲が「関東」に及んでいたあるいは「出雲」へと続く「官道」が(細いながらも)あったとするのはかなり難しいのではないかと思いますが、それも可能性ゼロとはしません。しかしすでにみたように実際には「出雲」勢力が倭王権の内部で力を持っていたのはもっと下った時期であり、実際には「六世紀」ではなかったかと思われ、それは「磐井の乱」の影響により「九州王権」が「肥の国」(これは「旧都」と思われる)へ押し込められていた時期を想定するべきかと思われます。(これについては別途)
 
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