古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「太陰太陽暦」と「二倍年暦」の共存

2017年11月14日 | 古代史
 「暦」というものは本来農事に関わるものとするのが多数意見ですが、倭国では『魏志倭人伝』が言うように一般民衆は「正歳四節を知らなかった」とされています。つまり本来農業においては重要な要素は日照時間と気温の推移、雨の多少であり、これらは本来「月」の運行とは関係はなく「太陽」に強く依存しています。その意味では「太陰暦」でなければならないという必然性は少ないこととなります。今でも「二一〇日」とか「二二〇日」という言葉がありますが、農業においてはある基準日から日数を数えるだけで事が足りてしまっていたという可能性もあります。その基準日も特定の「星」などの位置によっていたという可能性も考えられ(近世までそのような星の位置などから種まきや刈り入れなどのタイミングを決めていた地方もあるようです)、そうであれば「正歳」を知らなければならないという必然性もないわけです。しかし支配層にしてみれば少しでも統治・支配を強めようとすると民衆を「管理」する必要が出てきます。そのためには「戸籍」が重要な要素となるわけですが、これには「暦(太陰暦)」が必須です。
 『魏志倭人伝』を見ると「戸」の制度があるようであり、これが「戸籍」と直結しているというのは古田氏も指摘しているところですが、他方「其俗不知正歳四節 但計春耕秋收爲年紀」と『魏略』に書かれたように、「俗」つまり「一般民衆」のレベルには「暦」(太陰太陽暦)が使用されていたわけではなさそうです。つまり「支配層」と「被支配層」とで「暦」の受容という点において大きな相違が発生していたと見られるわけです。その意味で「太陰太陽暦」の受容と「二倍年暦」とが齟齬するということは実際にはなかったといえるのではないでしょうか。
 
 ただし『魏略』にいう「計春耕秋收爲年紀」の意味について「単純」に「二倍年暦」であるとするのはやや違うと思われ、私見によればこれは「貸稲の利息を取る期間」として決められていたと理解した論を古田史学会報に投稿しています。(『古田史学会報』(一二五号二〇一四年十二月十日)しかし、会報はまだ「一二三号」までしか公開していないようですから、これを以下に掲載しますので参考にしていただければ幸いです。(同趣旨をブログにアップしたものもありますが、やや縮約したものとなっているため投稿したものを御覧いただいた方が良いと思います)

「春耕秋収」と「貸食」 ―「一年」の期間の意味について―

 ここでは『倭人伝』に記された「但計春耕秋收爲年紀」(春耕秋収を計って年紀としている)という意味について、それが「貸食(貸稲)」の貸与期間でもあった事が推察され、この時代既に後の「出挙」につながる「貸食」の制度があった可能性について述べます。

Ⅰ.「租賦」について
 『倭人伝』によれば「倭国」(邪馬壹国)には「邸閣」があるとされ、「租賦」が収められているとされます。

「…收租賦、有邸閣。…」(『三國志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十/東夷/倭』底本:宋紹興本より)

 ここでいう「租賦」とはいわゆる「税」制の主たる部分を構成するものですが、その内容としては一般に「主食」となる穀物を指す場合が多く(それは緊急食料になる場合を想定するが為もありますが)、「米」(稲)ないし「粟」であることがほとんどであり、「倭国」においてもこれらの主要穀物を対象として「租賦」が設定され「邸閣」に運搬され収められていたことを示すものです。
 この「租賦」「邸閣」については『倭人伝』の中に見られる「於國中有如刺史」というような「似ている」という意義の表現ではなく、「租賦」と言い「邸閣」と言い切っていることが重要でしょう。これは「陳寿」や「魏」からの使者の見聞に入ったものが「中国」のものと変わらないという意識であったことを示すものであり、「中国」(魏晋朝)と全く同じシステムが倭国に存在していたということを示すものと思われます。しかし、そのことの持つ意味はかなり重大であって、制度、組織など背景となっているものも「魏晋朝」とほぼ同じであった可能性を示唆するものです。
 たとえば1996年に出土した「送馬楼呉簡」の解析から「三国時代」の「呉」では(「魏晋」などもほぼ同じと思われるわけですが)、各国(及び各郡県)に「倉」があり、そこに「租賦」は運搬され、そこから供出されたりあるいは貸し付けられたりということが行われていた事が明らかとなっています。(註1)
 このように「租賦」が規定されていたとすると、不作の年や植えるべき種籾もないような人たちはどうしていたのでしょうか。
 「稲作」などは天候不順などにより収量がかなり変動する性格が不可避的にあり、「租賦」を収められないあるいは種籾を植えることができないという状況に陥った人達は一定数必ずいたであろうと思われ、それらについては「租賦」を免除していたという考え方(可能性)もあるかも知れません。確かに中国には以下のような実例もあるようです。

「二年三月,遣使者振貸 貧民毋種、食者。秋八月,詔曰 往年災害多,今年蠶麥傷,所振貸種、食勿收責,毋令民出今年田租。」(『漢書/本紀 昭帝 劉弗 紀第七/始元二年』底本:王先謙漢書補注本より)

 ここでは「貧民」に対して「田租」や「貸食」の返却分を収めさせてはいけないとされ、免除されていることが記されています。
 他方「種籾」や収めるべき「稲」等の不足分を「融通」することが行われていたと見ることも可能と思われます。その相手方としては気心が知れた「隣近所」かも知れませんし、一族(宗族)内であったかも知れませんが、また当然「公的機関」(国家)が貸与する場合もあったでしょう。これら全てに「利息」が伴わなかったと考えるのは明らかに不自然ではないかと思われますが、実際に「送馬楼呉簡」によれば「貸食」と呼ばれる「稲」「粟」などを「貸与」する制度や「種粻」という「種籾」を貸し出す制度があり、それに伴う「利息」の存在の徴証が確認されています。(註2)これは後の隋・唐における「出挙」と同じ性質のものが当時から存在していたと考えることが出来ると思われます。(但し「税」としてのものではなかったと思われ、いわば「予算化」されていたとは言えないと思われます)
 このように『倭人伝』と同時代の「呉」政権において「米」や「種籾」の貸与が行われていたことは「魏晋」でも同様に行われていたことを想定させますが、それは即座にその前代である「後漢」以前にその淵源が求められるべきものであることとなります。「後漢」が分裂して三国が形成されたという経緯を考えても「呉」で行われていた政策は「後漢」時代からの継続であったと考えるべきであり、それを示すように上に見る「漢書」の記述中に「振貸」記事が存在しています。
 このように当時から「貧民」に対する救済措置として「種」(種籾)を「貸与」するという政策があったものであり、このことから、「倭国」と「後漢」の関係を考えると(註3)「魏晋」以前から「倭国」で「貸食」「種粻」が行われていたのではないかと考えて不思議はないこととなるでしょう。
 当時の中国には「春貸秋賦」という言葉があり、春に農民に「種籾」を貸し付けて,秋の収穫時に五割(ときには十割)の利息をつけて返還させる一般的慣行が存在していたとされます。このような慣習は本来農民同士の相互扶助的性質のものであり、「送馬楼呉簡」や先の「漢書」の例においても「貸食」が「貧民」に対するものであることから、この時点では国の基幹である農業とその主体である農民の生活の安定に資する目的があったと思われます。
 同様のものが「倭国」に既に存在していたと考える余地があると言う事です。

Ⅱ.『倭人伝』の「春耕秋収」と「養老令」
 ところで『倭人伝』には(正確には『倭人伝』に引用された『魏略』には)いわゆる「二倍年暦」の表現と思われる、「但計春耕秋收爲年紀」つまり「春耕秋収」を計って「年紀」とするというものがあるのはご承知の通りです。ここでいう「年紀」とは「三国志」や先行する史書である「史記」「漢書」などの例では「編年体」による記録を意味する例が見られますが、その基礎となっている概念は「一年」という長さであり、それを「単位」として「年数」を数えるあるいは記録するというものと推量されます。

「…晉唐叔虞者,周武王子而成王弟。…於是遂封叔虞於唐。唐在河、汾之東,方百里,故曰唐叔虞。姓姬氏,字子于。唐叔子燮,是為晉侯。晉侯子寧族,是為武侯。武侯之子服人,是為成侯。成侯子福,是為厲侯。厲侯之子宜臼,是為靖侯。靖侯已來,『年紀』可推。自唐叔至靖侯五世,無其『年數』。」(「史記/晉世家第九」底本:金陵書局本より)

 ここでは「年紀」と「年数」とが対応していると見られますから、「年紀」には「年数」の意義があると推量できるでしょう。

「…將軍駱統表理溫曰 伏惟殿下,天生明德,神啟聖心,招髦秀於四方,置俊乂於宮朝。 多士既受普篤之恩,張溫又蒙最隆之施。而溫自招罪譴,孤負榮遇,念其如此,誠可悲疚。然臣周旋之閒,為國觀聽,深知其狀,故密陳其理。溫實心無他情,事無逆迹,但『年紀』尚少,鎮重尚淺,而戴赫烈之寵,體卓偉之才,亢臧否之譚,效褒貶之議。…」(『三國志/吳書十二 虞陸張駱陸吾朱傳第十二/張溫』底本:宋紹興本より)

 ここは「張温」が「孫権」の配下にありながら「蜀」を賞賛したことが「孫権」の逆鱗に触れたことを「将軍」の「駱統」が弁護している部分で、「張温」が「罪譴」を招いて「謹慎」してからまだ「年数」が経っていない、という意で使用されていると思われます。
 その他複数の例でも同様であり、「年紀」は「年数」という意味があったと考えられます。
 また「計」は「数える」意義ですから、「倭人伝」の場合も当然「春耕」から「秋収」までの間を「計」え(これは「結縄」によるか)、それを単位として年数を数えるということが行われていたと見られますが、これはまた「不知正歳四節」つまり暦がないため正確な一年が判っていないと書かれたように、「魏晋朝」で使用されていた「暦」が「倭国」では使用されておらず「倭国」独自の暦(これが「二倍年暦」か)が行われていたことを示すものでもあります。(註4)
 それに対し同じ『三国志』内の「韓伝」によれば「馬韓」など半島内各国では「…常以五月下種訖、祭鬼神、羣聚歌舞、飮酒晝夜無休。…十月農功畢、亦復如之。…」(『三国志東夷伝韓伝』)とあるように「五月」「十月」という月表示があり、「魏晋」と同じ暦があったことを示しています。
 このように「倭人伝」によれば「倭国」では「魏晋」とは異なる暦を使用していたらしいことが窺え、その基準点として「春耕秋収」が区切りとしての機能を果たしていたというわけです。
 ところで、その区切りは先に見た「春貸秋賦」という言葉の示す時期と重なっており、このことから「稲」や「種籾」の「貸与」の期間の設定と関係して可能性が考えられるものではないでしょうか。
 「貸与」に利息が伴うとすると当然その有効期間が設定されたと思われますが、「春貸秋賦」という言葉が示すとおり「春」に貸し付けられたものは「秋」に収穫された段階で返済することとなるわけですから、「貸付期間」としては「春」から「秋」までであったこととなります。
 これに関連して注目されるのは「養老令」の「雑令」にある「出挙」に関する規定です。そこでは「出挙」という制度の有効期間として(つまり利息を取る期間ともいえます)、「一年を以て断(限り)とする」と書かれています。

「雑令二十以稲粟条」「凡以稲粟出挙者。任依私契官不為理。仍以一年為断。…」

 これは「北宋」の「天聖令」の出現によってほぼ「唐令」の直輸入としての表現であったことが知られていますが(註5)、この「一年」について「養老令」の公的解釈集である「令義解」では以下のように解説されています。
「謂、春時擧(イラヒ)受。以秋冬報。是為一年也。」
 つまり春(種まき時期)から収穫時期である秋や冬までの期間を一年と見なすと解釈しているわけです。
 この「一年」という期間の設定は「倭人伝」と同じ考え方であり、「春耕」から「秋収」までの期間が一般の人々にとって重要であったことを示すものですが、逆に言うと「倭人伝」において「春耕」から「秋収」までの期間を「一年」としている理由の一端はそれが「貸食」の期間であり、また「利息」をとるべき期間として設定されていたからということも考えられると思われます。
 この「一年」という期間は上記「送馬楼呉簡」の例では返却が二月となっている例もあり、「貸与」の期間はその年度内であるものの「秋収」までを「一年」としているわけではないことが判ります。「天聖令」の条文においても同様であり、「暦」(太陰暦)の存在がある限り「一年」の正確な長さは判っているわけですから、ここに言う「一年」は確かに「太陰暦」の「一年」を意味すると思われます。そうすると「令義解」の解釈は「唐」からの直輸入ではなく「倭国」独自のものであることが推測できます。つまり「令義解」の解釈はその時点のものというより倭国における伝統が反映しているものと見られ、「一年」という期間としては異例とも思える範囲が設定されているのも古代の倭国からの状況をそのまま継続してきている現状を反映した結果と言えるのではないでしょうか。
 『書紀』で確認できる「出挙」のような「貸食(貸稲)」の制度は「孝徳紀」に始めて出てきます。

(「大化二年(646年)三月癸亥朔甲子条」)「…宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々『貸稻』。以其屯田班賜群臣及伴造等…」

 しかし、これは「私出挙」とでも言うべき「吉備嶋皇祖母」の「貸稲」を止めるというものであり、その起源を語るものではありません。(註6)当然それを遡る時期にその起源は求められるべきものでしょう。(註7)
 この「貸食(貸稲)」と「租」の関係に関しては「租」と「貸食」とが連動しているとする考え方や「貸食」が「租」に先行するとするものなど各種議論がありますが、この「倭人伝」時点では確実に「租」が存在しているわけですからいずれの立場でも「貸食」という制度ないし慣習がこの時点で確実にあったものと見なければならないことになるものと思われ、「貸食」の起源としては「卑弥呼」の時代あるいはそれをさらに遡る時代を措定すべきではないかと推量します。そしてその慣習はその後の「倭国」に長く残ったものであり、それが「養老令」の「雑令」に残ったと見ることが出来ると思われます。
 「稲作」は「邪馬壹国」時代以前から連綿として続けられてきているわけですし、天候不順も必ずあるわけですから、不作となって収穫する稲穀が少なかったり、植えるべき種籾がないというような状況はある期間を通じれば普遍的に存在するわけです。そうであれば「貸食」という慣習がなくなるようなことはなかったはずと思われるわけです。
 (ただし「出挙」という用語は「隋代」にその初見があるものであり、そのことは「倭国」の「出挙制」が「遣隋使」によってもたらされたものという可能性は考えられる事となるでしょう。可能性としてはこの時点で初めて「公出挙」が制度として決められたとも考えられますが詳細は別稿とします。)

結語
Ⅰ.『倭人伝』に拠れば「卑弥呼」の時代の「倭国」には「税」のシステムである「租賦」が規定され、人々から「租」(稲や粟などの穀物か)を徴集していたらしいこと。その関連として「呉」の制度として「貸食」「種粻」という制度があったこと。それは「漢代」以来のものと思われ、「魏晋」や「倭」でも同様に行われていた可能性があること。
Ⅱ.『倭人伝』(魏略)における「但計春耕秋収爲年紀」という表現は「二倍年暦」という「倭国」独自の暦の存在を示すと共に、不作などの場合の救済措置として行われていた「貸食」の有効期限としての表現であったと見られること。その「貸食」という慣習は「倭国」では「貸稲」というものに名を変えた後「八世紀」の「養老令」の「出挙」に継承されたと推定されること。
以上を述べました。

「註」
1.伊藤敏男『長沙呉簡中の邸閣・倉里とその関係』歴史研究49号2011年 大阪教育大学歴史学研究室によります。
2.谷口建速『長沙走馬楼呉簡にみえる「貸米」と「種粻」 ―孫呉政権初期における穀物貸与―』史觀 162冊2010年 早稲田大学史学会によります。そこでは「息米」という表現があり、これが「利息」としての「米」であるという理解がされています。ただし「利率」については不明とされます。
3.『後漢書』によれば「委奴国王」が「光武帝」から「金印」を授けられており、又「倭国王」「帥升」が「生口一六〇人」を献上したとされるなど、両国の間には深い関係が構築されています。
4.「春耕」から「秋収」までという期間は、「春」「秋」という表現から旧暦の「三月」から「九月」が想定され、約「百八十日」程度となると思われます。これを「単位」として年数を数えるというわけですが、逆の「秋」から翌「春」まで日にちを数えなかったとすると大いに不審ですから、そちらも別の「一年」となることは必定であり(「秋収」時点で「結縄」は一旦リセットされるものと思われます)、年数が倍となる(つまり「二倍年暦」)ことは必然と思われます。
5.「天聖令」(雑令)に拠れば「諸以粟麦出挙、還為粟麦者、任依私契。官不為理。仍以一年為断。不得因旧本年利、又不得廻利為本。」とありますが、「養老令」では「凡以稲粟出挙者。任依私契。官不為理。仍以一年為断。不得過一倍其官半倍。並不得因旧本更令生利。及廻利為本。…」となっており、「粟麦」を「稲粟」としている他はほぼ同じとなっています。
6.この措置はいわば「私出挙」の制限であり、国家による「出挙」つまり「公出挙」を人々に強制するための準備とも言うべきものではなかったかと思われます。
7.「2008年4月」に「旧百済」の地である、韓国双北里の農耕地から「貸食」とその運用について書かれた木簡が出土しました。そこに「戊寅年」という表記があり、共伴土器から考えて「618年」より新しくはないだろうとされています。(李鎔賢『百済木簡 ─新出資料を中心に』 国立扶余博物館2008年)
 その記述から推測される「利息」の値から考えると「出挙」につながるものであって、これが「孝徳紀」の「貸稲」に影響を与えたという考え方もあるようですがそれに得心がいかないのは上の議論に示したとおりです。

他参考文献
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店
黒板勝美「国史大系『令義解』」吉川弘文館
三上喜孝『北宋天聖雑令に関する覚書 : 日本令との比較の観点から』山形大学歴史・地理・人類学論集第8号2007年
水谷謙治『中国における物的貸借の歴史的考察』立教経済学研究第66巻第二号2012年
春山千明『律令時代に於ける出挙』金城学院大学論集14号1959年
松好貞夫『融通の原型、出挙制度』流通経済論集第5巻1号1970年
台湾中央研究院Webサイト「漢籍電子文献全文資料庫」
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