すでに「弥生時代」の始まりと「シリウス」という星の状態に関係があったこと、「紀元前八世紀」付近で地球的気候変動があったことを述べたわけですが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/7103f16e4dd324e74a6e31f639dc7fad)、そのことはギリシャの当時の実情を解析した別の論文からも言えそうです。
紀元前八世紀付近の気候変動に関わると思われる論文を渉猟していた中に安永信二氏の論文(「アルゴリスにおけるポリス成立をめぐって―学界の動向と今後の展望―」(『九州産業大学国際文化学部紀要』第22号二〇〇二年))がありました。その中でこの時期に「ギリシャ」では「墓」の数が急増すること、放棄される「井戸」が増加することについて述べた論文があることが書かれていました。それは「Camp,Jr.J.McK.」氏が発表した"A Drought in the Late Eighth Century B.C."です。
従来「墓」の数の増加は「人口増」が原因であるとされていましたが、この論文ではそれを「Drought」つまり「干ばつ」によるものとし、ギリシャを襲った「干ばつ」の結果、栄養不足と疫病によって亡くなる人が増大し、それが墓の増加の原因であるとしたのです。つまり人口が増加したわけではないとしたわけですが、彼がそう指摘した根拠のひとつは「井戸」の数の変化でした。彼はこの時代に「廃棄」される「井戸」や「異常に深く掘られた井戸」などの数が増大することを考古学的証拠として挙げ、それが「干ばつ」の影響であることを示したのです。
さらに、同じ時期にそれまで多くは見られなかった「神域」や「神殿」が新たに設けられ、多くの供物が奉納されるようになることを示しました。そのなかには「雨乞い」のための「壺」を「供物」とする例が「七三五年」以降激増することも挙げていますが(それまでの四倍ほどに急増する)、これは「ローマ」において同じ時期に始められる「ロビガリア」という農業儀式と同様「干ばつ」による農作物の不作を「神」に祈ることで回避しようとするものであり、「宗教的」な存在に寄り縋ることを多くの人々が望んだことを示していると(私見では)見ています。
また同じく渉猟した中に小山田真帆氏の論があり(「ブラウロンのアルクティア再考:アルテミスへの奉納行為を手がかりに」(『京都大学西洋古代史研究』第16号二〇一六年十二月十六日)、その中に「女神」である「アルテミス」に対する信仰儀式として「アッティカ」地方の「ブラウロン」で行われていた「アルクティア」という奉納儀式について新たな角度から検討した論があることが示されています。それは「C.A.Faraone」氏が発表した"Initiation in ancient Greek rituals and narratives : new critical perspectives"です。この中では、この「アルテミス」に対する祭儀を、通常の理解である「女性」の「少女」から「大人」への通過儀礼という単純な見方を否定し、そこでは女性に特有の出産における「栄養不足」による母体と乳児に降りかかる種々の「災い」や「死」に対する庇護を願い、ひいては国家の安寧を願うものという新たな理解が示されていますが、そもそもこの「アルテミス」という女神に対する祭儀の始まりは「八世紀」の終わり付近であり、明らかに「疫病」や「栄養不足」などの条件が背景としてあったことが指摘されています。
確かに「祈り」の根底には「畏れ」があるものであり、単なる少女から大人への通過儀礼であるとすると「祭儀」として大がかりすぎるものであると同時に、「紀元前八世紀」以降突然始められると共にその後紀元三世紀付近以降忘れられる理由も不明といえます。このことはこの「祭儀」の根源が「死」に対する「畏怖」であり、そこからの「救済」を願うものであることは自明であり、母体や乳幼児など最も弱い存在に対して大自然が与える「不条理」に対する「畏れ」がそこにあったと見る必要があるでしょう。
その他この時期ギリシャ各地で「ルネッサンス」の如く多くの神々達を祭る「神域」が発生しており、それが「ギリシャ」の発展と反映を表すものであるとするものや、「宗教」が一部の特権階級的立場の者から民衆のものへと発展的段階へと遷移したというような理解がされていたものですが、これもまた「干ばつ」とそれによる「疫病」などから逃れるために多くの人々が種々の神達に祈りを捧げていた風景が原初としてあるように思われることとなるでしょう。
まだまだ知見に入った文献は少量ですが、大勢として「紀元前八世紀」付近に大規模な気候変動があったらしいことは確実であると思われますが、他方古代ギリシャを専門とする学者達にはそのような視点が欠落しているように見え、文学的観点からの理解から脱していない例が多く見られるようであり、問題の矮小化が行われているように見えます。
紀元前八世紀付近の気候変動に関わると思われる論文を渉猟していた中に安永信二氏の論文(「アルゴリスにおけるポリス成立をめぐって―学界の動向と今後の展望―」(『九州産業大学国際文化学部紀要』第22号二〇〇二年))がありました。その中でこの時期に「ギリシャ」では「墓」の数が急増すること、放棄される「井戸」が増加することについて述べた論文があることが書かれていました。それは「Camp,Jr.J.McK.」氏が発表した"A Drought in the Late Eighth Century B.C."です。
従来「墓」の数の増加は「人口増」が原因であるとされていましたが、この論文ではそれを「Drought」つまり「干ばつ」によるものとし、ギリシャを襲った「干ばつ」の結果、栄養不足と疫病によって亡くなる人が増大し、それが墓の増加の原因であるとしたのです。つまり人口が増加したわけではないとしたわけですが、彼がそう指摘した根拠のひとつは「井戸」の数の変化でした。彼はこの時代に「廃棄」される「井戸」や「異常に深く掘られた井戸」などの数が増大することを考古学的証拠として挙げ、それが「干ばつ」の影響であることを示したのです。
さらに、同じ時期にそれまで多くは見られなかった「神域」や「神殿」が新たに設けられ、多くの供物が奉納されるようになることを示しました。そのなかには「雨乞い」のための「壺」を「供物」とする例が「七三五年」以降激増することも挙げていますが(それまでの四倍ほどに急増する)、これは「ローマ」において同じ時期に始められる「ロビガリア」という農業儀式と同様「干ばつ」による農作物の不作を「神」に祈ることで回避しようとするものであり、「宗教的」な存在に寄り縋ることを多くの人々が望んだことを示していると(私見では)見ています。
また同じく渉猟した中に小山田真帆氏の論があり(「ブラウロンのアルクティア再考:アルテミスへの奉納行為を手がかりに」(『京都大学西洋古代史研究』第16号二〇一六年十二月十六日)、その中に「女神」である「アルテミス」に対する信仰儀式として「アッティカ」地方の「ブラウロン」で行われていた「アルクティア」という奉納儀式について新たな角度から検討した論があることが示されています。それは「C.A.Faraone」氏が発表した"Initiation in ancient Greek rituals and narratives : new critical perspectives"です。この中では、この「アルテミス」に対する祭儀を、通常の理解である「女性」の「少女」から「大人」への通過儀礼という単純な見方を否定し、そこでは女性に特有の出産における「栄養不足」による母体と乳児に降りかかる種々の「災い」や「死」に対する庇護を願い、ひいては国家の安寧を願うものという新たな理解が示されていますが、そもそもこの「アルテミス」という女神に対する祭儀の始まりは「八世紀」の終わり付近であり、明らかに「疫病」や「栄養不足」などの条件が背景としてあったことが指摘されています。
確かに「祈り」の根底には「畏れ」があるものであり、単なる少女から大人への通過儀礼であるとすると「祭儀」として大がかりすぎるものであると同時に、「紀元前八世紀」以降突然始められると共にその後紀元三世紀付近以降忘れられる理由も不明といえます。このことはこの「祭儀」の根源が「死」に対する「畏怖」であり、そこからの「救済」を願うものであることは自明であり、母体や乳幼児など最も弱い存在に対して大自然が与える「不条理」に対する「畏れ」がそこにあったと見る必要があるでしょう。
その他この時期ギリシャ各地で「ルネッサンス」の如く多くの神々達を祭る「神域」が発生しており、それが「ギリシャ」の発展と反映を表すものであるとするものや、「宗教」が一部の特権階級的立場の者から民衆のものへと発展的段階へと遷移したというような理解がされていたものですが、これもまた「干ばつ」とそれによる「疫病」などから逃れるために多くの人々が種々の神達に祈りを捧げていた風景が原初としてあるように思われることとなるでしょう。
まだまだ知見に入った文献は少量ですが、大勢として「紀元前八世紀」付近に大規模な気候変動があったらしいことは確実であると思われますが、他方古代ギリシャを専門とする学者達にはそのような視点が欠落しているように見え、文学的観点からの理解から脱していない例が多く見られるようであり、問題の矮小化が行われているように見えます。