古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「不改常典」に関する正木氏の論について

2018年03月17日 | 古代史

 最近の古田史学会報(第144号2018年2月13日)に正木氏が「不改常典」についての論を発表しています。「多元史観」による画期的なものという古賀氏の紹介記事もネットでみることができます。しかし、その内容を見ると皇位継承にかかわるものという残念ながら従来の多数派を占める解釈から一歩も出ていないように受け取れます。
 正木氏は「定策禁中」という用語に着目し、臣下(重臣)の進言(上申)による「皇位継承」が「不改常典」の中身であるとされています。そこでは確かに「皇位継承法」であるとは言い切ってはいないものの、「皇位継承に関わるもの」という理解は一元史観の論者と何ら変わらず、ただ主体が本来「倭国」のものであったものを「近畿天皇家」がいわば「奪取」したもののように論を進められています。しかし「重臣の意見に従うべき」というのはいつの時代もそうあるべき話であり、それは決して「天智が定めたもの」ではないと思います。それは(正木氏も例に挙げたように)『雄略紀』の「雄略」亡き後、後継ぎである「市辺押磐皇子の皇子たち」を探し出した際の記事にも表れており、別に「天智」の時代以前にもみられるものですから、その意味で「天智」を定めたという趣旨と食い違います。しかも「天智」が「立て賜い」「敷き賜える」という用語から察して、それは「創始」したことを意味すると受け取られ、そう考えれば「定策禁中」と同等に扱えるものではないと思います。しかも「不改常典」については、「持統」から「文武」への「譲位」に現れるのが最初とされているようですが、「元明」の「詔」では「持統」の即位の際にも「不改常典」が登場したらしいことが推察でき、氏の理解と食い違っているように思われます。

「元明の即位の際の詔」
「(慶雲)四年…秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。此天下乎治賜比諧賜岐。是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法乎。受被賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。…」

 この「詔」の大意としては「元明」が「即位」するにあたって「文武」から継承することとなった「食国天下之業」というものは「藤原宮御宇倭根子天皇」つまり「持統」が「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」を受けて行っていたものであり、またそれを「皇太子」(文武)へと授けたものであるというわけであり、今それを「自分」(元明)が「継承」するというわけです。
 つまり、「持統」は「即位」にあたって「不改常典」に反しないという誓約を行っていたことが推定されるわけですが、その推定が正当と思われるのは「天智」が決めたものとすると「持統」の即位にそれが適用されなかったはずがなく、「持統」も当然「即位」の際には「不改常典」に従うという誓約を行ったとみられるからです。ただし『書紀』にはそのような「詔」は見られませんが、それは「持統」だけではなく皆同様であり、本来あったはずの各代の「即位詔」が「隠ぺい」されているように思われます。(「三輪高市麻呂」の「冠を脱いでの諫言」もそれが「即位」の際に誓約した「不改常典」の順守に反することだからであったと考えたわけです。 (https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/7e445d2a0ece3212ca889489dc2e21b5 とそれに続く記事)

 また上にみる「元明」やそれ以降の「即位詔」においても明らかですが、重要なキーワードとして「食国法」という表現が現れるのに対して、氏の論ではそれが全く無視されています。
 この「食国法」とは単に「即位」に必要なものではなく、統治の際の根本法典ですからこれを軽視したり無視することがないように「即位」の際に誓約することが求められたものと思われ、それが「不改常典」という表現で神聖化されていたものと思われるわけです。少なくとも「不改常典」について議論するなら「食国法」という表現について何らかの検討をするのは最低限ではないでしょうか。そのような検討を経たのち捨てられたならばともかく、全く議論に乗せられていないように見えるのは不審です。(紙幅の関係で削ったのかもしれませんが、重要な部分なのでそのような扱いはしなかっただろうと思われます)それを述べない限り論として不十分でしょう。

 また私見では「不改常典」は「十七条憲法」を指すとみており、それに異論があることは承知していますが、少なくとも『懐風藻』や『弘仁格式』で「十七条憲法」が「聖徳太子」ではなく「近江朝」と関連して語られていることには留意すべきと思います。

 これらについては以下に書きましたので参考にしてください。 (http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/63587e93470e54a32a5bd1f550374970 からの一連の記事)

 

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