古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「白鳳」と「朱雀」年号について

2018年03月25日 | 古代史

 「九州年号」群の中に「白鳳」、「朱雀」という年号があります。この二つの年号に関しては、『続日本紀』の中の「聖武天皇」の詔(七二四)の中に出てくることで有名です。

『続日本紀』「神亀元年(七二四)十月丁亥朔条」「治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。伏聽天裁。詔報日。白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公驗。」

 ここでは「治部省」から奏上された「僧の身分確保の件で処置を請う」というものに対して聖武天皇は「詔」を出していますが、そこで「白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。」という言い方をしています。
 ここで問題になっているのは「出家」して「僧」になっている人たちに関してであり、この時点で「僧」の本人判別を行っているものです。彼等の申し立てに対して調査すると「出家」した理由が本当かどうか不明であったり、「鋼帳」に該当する人物はいるが、「官籍」つまり「王権」の側で持っている「リスト」にはいないという場合、あるいは「顔かたち」や「ホクロ」など本人を識別するものが記録されたものと変わってしまっている(つまり年月が経って顔形が変わったということか)というような事情があって、「公験」つまり「僧」としての活動を認める証明書を発行するべきかどうか判断できないというわけです。
 これによれば本人達の出家した理由などに関する部分の中に、「白鳳以来」とか「朱雀以前」という言い方が使用されていたものと見られるわけですが(この事は「書類」として「公験」らしきものが提出されたらしいことが示唆されます)、この「白鳳」や「朱雀」が「年代」や「年次」を表すものとして使用されているのは明らかであり、それは過去においていわゆる「年次」を記録するのに「白鳳」や「朱雀」がその基準として使用されていた実態があったことを如実に示すものです。
 僧の「公験」というのは公式文書であり、そのような中に「白鳳」「朱雀」が使用されていたと言う事になるわけですが、そういわれても「聖武」の朝廷の官僚達は「判定できない」というわけです。それはなぜかということが大きな問題であるわけですが、それは「聖武」の王朝つまり天皇家では改元したとか公布したとかの記録が一切なかったものであり、そのような年次を示すものは彼等にとって無効であったこととなります。しかし実際に使用されていなかったものを天皇が「詔」の中で「言及」するはずがないのは明白ですし、「聖武」の「詔」のニュアンスも「白鳳」「朱雀」という年号の存在を頭から否定しているものではないことに注目すべきでしょう。あくまでも、そのような年号があったのは承知しているが、その年号とリンクした記録がないと言っていると理解できます。

 そして、「聖武」はこの時代のことは「玄遠」つまり、「暗くて遠い」ということであり、良くわからないぐらい昔である、ということを言っているのです。
 しかし、この「詔」を出したとされる「神亀元年」(七二四年)から見ると、「白鳳」(六六一から)「朱雀」(六八四年から)という年代はたかだか「六十-四十年」程度の過去のことです。そのことは、現実にまだ生存している「僧」達の口から(あるいは「文書」として)「白鳳、朱雀」という年号が彼等の時代として語られていると見られることでもわかります。彼等が若い頃出家した頃には「白鳳」「朱雀」という年号が施行されていた時代であったということですから、それほど大昔のことではないこととなります。(彼等自身は七十代程度かと思われます)
 「聖武」の祖父である「草壁皇子」の「生年」が「六六二年」とされますから、まさに「白鳳」の始めに当たります。自分の祖父である「草壁皇子」の時代のことがよくわからないとすれば、朝廷にあってははなはだ不都合なことであろうと推察され、(実際「不都合」が起きているわけですが)そのようなことがなぜ起きたのか、不思議な感じがします。

 この「僧尼」に対する「公験」という問題はその二年前の「養老四年」に同じく治部省から「奏上」がされていることと関連があるとされます。

「(養老)四年(七二〇年)春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。」

「(養老)四年(七二〇年)…八月辛巳朔…癸未。詔。治部省奏。授公驗僧尼多有濫吹。唯成學業者一十五人。宜授公驗。自餘停之。…」

 ここでは「公験」を「始めて」授けたとされ、さらにそれら「僧尼」の中に「濫吹」、つまり学業ができてもいないのにそのような「ふり」を装っているものが多いとされ、「公験」に値するかを精査しているようです。さらにその作業の中でこの年(養老四年)正月に「聖武」の「王権」が「始めて」公験を授けるずっと以前から、すでに「公験」を授けられている者達が多数おり(僧尼は確かにそれ以前から多数いるわけです)、彼等がそもそもいつの時点で「公験」を受けていたのかが不明であったものと考えられるわけであり、「始めて」の意味がここでは不明となっているわけです。

 察するに、彼等はこの時点でようやく「僧尼」に対する国家管理を行おうとしているわけであり、それまでは「僧尼」が持っていた「公験」の有効性を認めていたと見られます。この時点以降自らの王権の元に「僧尼」に対する統治・管理に乗り出したらしく、その時点で「公験」の精査を始めたものと見られます。そのような中で「前王権」から有効性を認められていた人々から、継続して認めるよう要請があったものと見られ、それに対し「官僚」が適否の判断をできなくなり、ことは手続きの問題から「政治性」を帯びてしまったため直接天皇の裁可を仰ごうということとなったものではないでしょうか。
 「前王朝」との関係を考えると(現王権に対する反対者がまだ隠然たる勢力を持っていたものと推量され)、一概に却下することも出来なかったものであり「聖武」に下駄を預けたというわけでしょう。

 さらに興味があるのは「朱雀」以降についてはどうもデータがあるらしいということです。聖武の詔では「白鳳以來。朱雀以前。」と書かれていますが、「白鳳」の次が「朱雀」ですから「白鳳以来」というと本来その時系列は現在まで続くはずですが、それが「不明」なのですから、実際には次の「朱雀」で切れていることとなります(だから「朱雀以前」がわからないということでしょう)。このことから「聖武の王権では問題となっている「僧尼」や「入道」達の主張について「朱雀」以前のデータだけがないということを示すものと思われますから、その期間を除けば僧籍については把握していたと受け取れる表現と思われるわけです。そう考えると、「聖武」の王朝は(『二中歴』によれば「朱雀」に続く年号である)「朱鳥」から始まる王朝に直接つながっていると見られることとなりますが、それは「朱鳥」が「新王朝」の始まりであるといっているのに等しいわけであり、(後でも触れますが)「朱鳥」が「訓読み」をするとされていることや「持統」が「日本国」と国号を変更した際の年号が「朱鳥」であったという資料の存在から考えても首肯できるものです。

 このようなデータベース(僧籍)については、「寺院側」では廃棄すべきものではなかったとみえ、「王権」や「体制」が変わってもそのまま継続して保有(保存)していたものと思われます。そう考えると、「朱雀」以前の「王権」と「聖武」の「王権」とではその内実が異なっていたという可能性が考えられるでしょう。そのため「朱鳥」から始まる新王朝の「官籍」とは整合しない内容となっていたということと理解できるのではないでしょうか。
 「聖武」は「粗略」なところがあった、という言い方をしていますが、実際には前王朝の官人や資料が(実質的には)継承されていなかったため、「資料」がそもそもなかったことから発生した問題であったものと思われるのです。(「始めて授ける」という表現はそのあたりを示しているようです)

 上に述べたように「聖武」につながる王権の最初は「朱鳥」という年号下の王権と思われるわけですが、そのことに関して『歴代建元考』(「清」の「鐘淵映」の撰)という書物に興味ある記述があります。その中の「外国編」の「日本」のところに以下のようにあります。

「…斉明天皇吾妻鏡作天豊財重日足姫即皇極天皇復位仍用白雉紀元在位七年改元一白鳳/天智天皇舒明太子母皇極天皇 在位十年仍用白鳳紀年/天武天皇 舒明第二子名大海人天欲禅位避吉野山 大友皇子謀簒将兵討之遂立 在位十五年仍用白鳳紀年後改元二朱雀/朱鳥/持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后 因主國事始 更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和…」

 記事の中で使用されている「仍」とは「継続して」という意味であり、「白鳳」は「斉明」の時代に改元され、「天智」「天武」と継続して使用され、その「天武」のときに「朱雀」「朱鳥」と改元されたというわけです。この情報からは「天武即位」を「元年」とする「白鳳」年号は誤謬であり、「天智元年」つまり「斉明」の「末年」を「元年」とする「白鳳」の方が正しいように受け取ることができます。しかし、そもそも他の年号であっても「即位改元」されているものがみられません。このことはこれら「天皇」の存在と「改元」とが「無関係」であることを窺わせるものであり、本来の「最高権力者」が別に存在していたことを裏付けるものです。その意味で「白鳳」が延々と(二十三年間)継続使用されているのは、「倭国」を代表する権力者つまり「倭国王」がその間継続して存在していたからであり、そのゆえに「改元」されなかったと見るべきです。
 それではその「倭国王」は誰かと言うことですが、「白鳳元年」が通常考えられる「六六一年」であるとすると、考えられる人物としては「筑紫君薩夜麻」が挙げられます。彼は「百済を救う役」に参戦し捕囚となったものであり、「天智末年」に「唐軍」と共に帰国しています。その後の動静は不明ですが、(私見では)元通り「筑紫君」として復帰したとみるのが相当であり、自らの身を売って主君である「薩夜麻」の帰国に尽力したとされる「大伴部博麻」が帰国する直前まで生存していたとみるべきでしょう。(というより存命中には帰国が許されなかったとみるべきではないでしょうか)そして、「持統」により「国号」が「日本」と変更されると共に「博麻」は帰国したものと見られますが、それはまさに「白鳳」の継続年数に整合しています。


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2017/02/10)(ホームページより転載したものに加筆)

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『一切経』と『江談抄』

2018年03月25日 | 古代史

 「大江匡房」の談話録とされる『江談抄』の巻三に「一切経日本渡事」という項があり、以下のことが書かれています。

「日本人王三十代御門欽明天皇僧要元年乙未年自唐渡也」(『江談抄』巻三より)

 ここでは「僧要」という年号が使用されていますがこれは「正史」とされる『書紀』などには見られない年号であり、いわゆる「九州年号」群の中に存在しています。
 この『江談抄』とは「大江匡房」が語り、それを「藤原実兼」が筆録したとされているものです。またこの「大江匡房」は十一世紀から十二世紀にかけて活躍した人物であり、「大宰帥」「中納言」などを歴任した当時の重臣です。彼の言葉の中にそのような「正史」とされる史料には書かれていない「年号」が使用されているのです。
 彼がどのような知識で書いたのか、どのような資料を参照したのかは不明ですが、ここにそのような「年号」が使用されていることは重大ですが、さらにこの記事には別の意味で不審があります。それは「人王三十代御門欽明天皇」という天皇名です。

 他の史料では「僧要」は「舒明」の時代の年号であり、この「乙未」というのは「六三五年」と理解されています。しかしここでは「欽明天皇」とされています。これは同じ「明」という字句を持つ「舒明」との混乱と考えられそうですが、「人王三十代」とされてもいますから、そうは断言できません。「舒明」であれば「三十四代」のはずであり、「代数」も同時に書き間違えていることとなってしまいます。
 もっとも「乙未」は「干支一巡」遡上した「五七五年」と理解することもできると思われ、そうであれば「敏達」の在位年代となります。(敏達を三十代とする数え方もあるようです。)
 ただし今度は『一切経』の成立年次と齟齬するという可能性が出てきます。『一切経』は「仏教経典」の集大成であり、このようなものは何回か作られました。しかし『一切経』とは「北朝」において成立した仏典の集大成をいい、「南朝」において成立した『大蔵経』とはその素性が少なからず異なります。ここでは『一切経』とされていますから、「北朝」で成立したものが伝来したことを示しますが、「倭国」はその国交が「南朝」に著しく偏っており、「北朝」との交流は「隋」成立後のことでした。そのため「隋」以前の「北周」「北斉」「東西魏」などの「正史」には「倭国」は全く登場しません。「倭国」は「隋」に至って始めて「北朝」と接したものと考えられる訳です。では「北朝」との接点はなかったのかと言うそうでもないわけです。それはこれが「百済」から伝来したという可能性が考えられるからです。
 「百済」は当時「南朝」との交渉と平行して「北朝」とも通交しており、「北斉」や「北周」からは「帯方郡公百済王」という称号を授与されていました。その「百済」を通じて『一切経』が倭国内に流入したということは考えられます。それを示すのが以下の「空海」「日蓮」の記述です。

「仏法、百済国より始めて日本朝に届る。是れ梁の武帝の大宝三年、壬申に当たるなり。其の壬申より日本の第三十帝、天国排開広庭天皇の十三年壬申に至るまで、仏入滅の後、一千一百六十二歳を経て、仏法始めて日本に届る。」(空海「高野雑筆集」『弘法大師空海全集』七巻所収)

「…又、日本国には人王第三十代・欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に百済より一切経・釈迦仏の像をわたす。」(日蓮『報恩抄』・『日蓮大聖人御書全集』所収)

 ここにも「日本の第三十帝、天国排開広庭天皇」「人王第三十代・欽明天皇」という表現がみられます。ただし伝来の始発が「唐」と「百済」というように食い違っていますが実祭にはすでに見たように始発も同じであったという可能性が考えられます。「空海」や「日蓮」がどのような記録を見てこれを書いたのか不明ですが<「日蓮」関係資料では『書紀』のように「経論若干」ではなく『一切経』とある点などみても『書紀』ではない史料を見ているのは明らかと思われます。(仏教関係の史料と思われます)
 『一切経』はその「集大成」という素性から考えても、ボリュームが非常に大きいものであり、とても「若干」とはいえないものです。
 このような資料からは「僧要」年間つまり「七世紀」も半ばの時期などではなくそれに先立つ「六世紀」の「欽明朝」にも『一切経』など多数の経論が「百済」から渡っていたのではないかということが推定できると思われることとなります。そう考えると、一概に『江談抄』の記事が「舒明」の書き間違いとも断定できなくなります。
 つまり、「一切経」は幾度か作られまたそれが幾度かにわたり我が国へ伝えられたものであり、「六世紀代」、さらに「隋代」に作られたものが「遣隋使」などの手によりもたらされたという可能性もあると思われます。

 「一切経」として成立したもので主だったものを挙げると以下のものがあります。

①前秦・道安『綜理衆経目録』(『道安録』) 一巻、六三九部八八六七巻
②梁・僧祐『出山三蔵記集』(『僧祐録』) 一五巻、一五七二部三三六五巻(ただしこれは『大蔵経』としてのもの)
③隋・法経等『衆経目録』(『法経録』)七巻、二二五七部五三一〇巻
④隋・費長房『歴代三宝紀』(『長房録』)一五巻、一〇七六部三二九二巻
⑤隋・彦琮『隋衆経目録』(『彦琮録』『仁寿録』)五巻、二一〇九部五〇五九巻

 これをみると「隋」以前の「北朝」において成立しているものとしては「前秦」の「道安」によるものがあるとされています。このようなものが「欽明朝期」に渡ってきていて不思議はないと思われます。(推定によれば『請観音経』もほぼ同時に渡ったものと思われます)

 ところで『二中歴』の「僧要」の項には渡ってきた一切経の巻数として「三千余巻」という表記があることを考えると、これが「隋」の「費長房」の『歴代三宝紀』(『長房録』)(一〇七六部三二九二巻)を指すと考えるのが相当と思われますから、この場合は「遣隋使」との関係を考えるべきでしょう。 
 結局『一切経』については随時最新のものが渡ってきていたという可能性があり、『江談抄』にはそれが混乱して書かれているという可能性が最も考えられるのではないでしょうか。
 またここに出てきている「僧要」という年号については、「大江匡房」は原史料にあった「僧要」をそのまま書いているだけという考え方もできるでしょうが、その原表記を尊重しているという中にこの「僧要」という年号に対する「大江匡房」の態度が現れていると思われ、このような「正史」にない年号についても彼は「敬意」を持って対応していると見られます。(これを「偽年号」というような記述が見られないことも重要と思われます。)


(この項の作成日 2014/12/07、最終更新 2017/02/19)(ホームページより転載したものに加筆)

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「寿考」について

2018年03月25日 | 古代史

 動物によらず鼓動の回数には上限があるとされ、それがいわゆる「寿命」であるとされています。(本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』中公新書1994年)それによれば通常人間の(いや全ての動物の)鼓動回数の上限は「20億回」とされ、脈拍数として毎分60~70回とすると約50-60年程度で到達してしまいます。これが原初的な人間の寿命であると思われるわけですが、実際にはそれを上回る寿命となっています。その理由として大きいのはもちろん、「衛生状態」「栄養状態」「社会的救済」「薬」などの発展と充実が関係しているでしょう。これについてよく聞くのは「盲腸」(虫垂炎)や「破傷風」というような病気が寿命を決定づける大きな要因ではなかったかということです。
 例えば「抜歯」の風習は「破傷風」に対するものという説もあります。この病気は「地下」の浅い場所にいる「破傷風菌」によって傷口などから感染するもので、「足」などに傷がありまた「わらじ」などの粗雑な履き物しかない場合に罹患する可能性が高いものです。
 感染すると高熱が出て「筋肉の緊張」が起こり、口が開かなくなります。その場合でも流動食的なものが「抜歯」した歯の隙間から飲み込むことができるように先人が経験則的に工夫したものとする説もあるようなのです。このように対策らしきものが建てられているとすると、このような病気は人の一生の内に罹る率が高いことを示し、それによって人の「寿命」が決定づけられていたともいえるでしょう。しかしそのようなものに罹らなかったとすると、「栄養状態」などによって「寿命」の長短が決まったということもまた確かと思われます。
 
 縄文時代においては「栄養価」の高いものを日常的に摂取することはかなり困難であったのではないかと思います。もちろん「水産物」や「動植物」による栄養確保はそこそこできていたとは思われますが、やはり「米」を食べるという方法による「日常」的栄養確保法はドラスティックなものであり、一気に「栄養状態」の改善が成されたと見られます。
 当時すでに「クリ」などを「栽培」し、それを栄養価向上の一策にしていたようであり、そのような工夫は相当程度成功していたようですが、気候変動が起きると主食であったであろう山野における収穫物が減少し、その穴埋めがかなり困難となったものと見られます。そのタイミングで「稲作」が導入されたわけであり、「米」を摂取することによる「エネルギー」と「栄養価」(ビタミンなど)の確保が可能となったことは画期的であり、その意味で「縄文」から「弥生」は単なる「稲作」がの有無というだけではなく、生活全体の革命をもたらしたものであり、それは「寿命」にも大きく影響したことは間違いないものと思います。(米にはタンパク質も含まれており、肉や魚などの摂取が必須ではないことも重要です)
 その結果前述したような病気に遭わず、不測の事故もなければ、「稲作」によって基本的な栄養状態が確保され、また老衰等により動けなくなっても家族や村落全体からの助けによって食事ができていれば、そこそこ長生きしたのではないでしょうか。その意味ではいわゆる「寿命」は「縄文」から「弥生」に至ってかなり延長されたとみるべきでしょう。

 上記のように「鼓動数」から計算される「寿命」は人間にはそのまま適用できないわけですが、その大きな要因が「時代の転換」に関係しているとすれば、「弥生」の始まりと共に「実質的」に寿命が延びたという可能性が考えられ、そうであれば『倭人伝』がいう「其人壽考、或百年、或八九十年。」という数字は誇大な数字であるとか「二倍年暦」によるものではないと見るべきこととなります。しかも当時「戸籍」があったと見れば(しかもその「戸籍」に「年齢」が書かれていたとすると)、「九十歳」「百歳」が実数であるという可能性は低くないと思われます。
 古田氏も言うように「戸数」が書かれているのは「戸籍」の存在を前提として考えるべきであり、しかもその「戸籍」の型式等はほぼ「漢魏」の「戸籍」と同じ様なものであったと見るべきです。(そうでなければ「戸」ではなく「家」で全て書かれたはずと思われる)その場合「年齢」は「必須」のはずです。
 中国では「秦」の時代までは「身長」で「賦課」を決めていたようですが「漢」になってからは「年齢」が基準となったもののようです。(これは太陰太陽暦の発展によるものか)そうであれば「倭」においても「漢制」に則っていたという可能性が最も高いのではないでしょうか。
 一般に「二倍年暦」の証拠とされる「其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」という文は、「裴松之」によって『魏略』より引用されたものでそれは「俗」のものとされており、「倭」あるいは「邪馬壹国」という公的な立場からのものではなかったものです。つまり「暦」に関しては国内に二種類が存在していたものであり、この「寿考」については「公的」なものと考えるべきではないかということです。

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