古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「内裏焼亡」史料と「倭国王権」

2018年08月22日 | 古代史

 『古事談』という書物があります。鎌倉時代(初期)に書かれたとされるものです。(説話集とされ、それ以前からあったものを収集したものとされる)その中に興味ある記述があります。その「第一」には「内裏」(宮室)が火災にあった事例が3回あるとされています。

『古事談第一』
「…遷都以後。始内裏焼亡ハ天徳四年九月廿三日也。人代以後者第三度也。難波宮之時一度、藤原宮之時一度也。…」

 この件については『扶桑略記』にも同様に「(村上天皇)(天徳四年九月廿三日)御日記云…人代以後内裡焼亡三度也。難波宮。藤原宮。今平安宮也。遷都之後、既歴百七十年。始有此災。」とあります。

 これによれば「難波宮」と「藤原宮」の「内裏」に火災があったことが記されています。しかし「藤原宮」については『書紀』他の資料で「火災」にあったという記事は確認できません。また(「現在までの発掘では」という条件付きではあるものの)「藤原宮」では火災の痕跡は確認されていません。これについてはこの記事の信憑性を疑うこともできそうですが、『扶桑略記』によれば「御日記」とされ、(村上)天皇の日記が原資料とすると、一概にそれが事実ではないとは言いきれなくなります。つまり私たちが今知っている事実と違う事実が天皇家に伝わっていたという可能性は充分考えられるからです。それは『書紀』の原型と思われるもともとの『日本紀』には書かれてあったことかもしれません。

 また「難波宮」の火災については確かに『書紀』に書かれてはいますが、その『書紀』の記述からは当時「王権」の主役である「天皇」達は「飛鳥」(浄御原宮)にいたように受け取られます。つまり「火災」の際には「難波宮」にはいなかったというわけですが、それが疑わしいのは既に指摘しました。(以下は以前書いた内容です)

「…「朱鳥元年(六八六)正月乙卯一四 酉時難波大藏省失火。宮室悉焚。或曰『阿斗連藥家失火。之引、及宮室。』唯兵庫職不焚焉。」

 この難波宮殿の火災記事によれば「大蔵省」「兵庫職」という官職(職名)が書かれています。これらの「職名」で表される「官衙」がここに存在していたというわけですから、「難波宮」がこの時点で「政府中枢」として機能していたのは間違いないものと見られます。
 また、「阿斗連藥家失火。之引、及宮室。」と書かれていることから、「宮殿」付近に「官人」の住居があったことを示していると考えられます。別の言い方をすれば「飛鳥宮殿」の「近辺」には官人がいなかったのではないかと考えられるものです。
 「飛鳥宮」至近には「都市機能」つまり「条坊制」などが布かれた形跡はなく、また「宮殿」の「至近」に有力豪族や官人などの住まいがあったようにも見えません。つまり「飛鳥宮殿」の「政府中枢機関」としての機能は「限定的」であったことが読み取れます。
 しかし、「難波宮殿」や後の「藤原京」は「統合」された政府機関であり、その中に「国家」の中枢としての全ての機能が集まっていました。このような「宮殿」とそれを取り巻く周辺施設がありながら、あえてそれを使用せず、「飛鳥」にとどまる理由が従来は正確に説明できていません。…」

 このように以前考察したわけであり、少なくとも『書紀』の記事からでさえ「国家」の機能が主に「難波」にあったとみられるいうこととなるわけですが、そのことは「倭国王」もこの時「難波宮殿」の中にいた可能性が高いことをを推察させるものです。
 また上の『古事談』や『扶桑略記』の記事からも「内裏」が焼亡したという内容となっており、「内裏」が「天皇」の住居(私的空間)を含む表現ですから、この時の火災の際に「当時の王権関係者」(天皇含む)に何らかの被害があったとみるのはそれほど不自然ではないでしょう。それを『書紀』の記述に求めると、「六八六年正月」の「難波宮殿」火災記事以降「書紀」には「天武」の「死」を予期させるような記事ばかりが並び、結局その年の十月に死去した、という流れが気になります。

「(朱鳥)元年(六八六年)正月己未(十八日)朝庭大餔。是日御御窟殿前而倡優等賜禄有差。亦歌人等賜袍袴。」

 この記事は「火災記事」の直後の記事ですが、すでに「御窟殿」という「正体不明」の場所名が書かれています。ここで使用されている「窟」という文字は「岩屋」や「洞穴」の類に使用される文字であり、「殯宮」(死んだ後の「喪がり」を行う場所)を連想させるものです。その証拠に「倡優」や「歌人」がその前で、「演技」(所作)を行ったり「歌」を歌ったりしていますが、これは「葬送儀礼」を連想させるものです。つまりこの時「御窟殿」の前で行われた「倡優」による「演技」(悲しみを表す所作か)や「歌」は「喪がり」に奉仕したことを示唆するものであり、「天武」がこの段階ですでに死去していることを意味していると考えられます。それはその火災発生の時刻からもいえます。
 
 この火災発生の時間帯としては「酉時」と書かれていますが、これは当時「日没時間帯」を指す表記ですから、その時点ではあたりはすでに薄闇となっていたと思われ、当時の感覚としては既に就寝時間帯かもしれず、宮殿の奥まったところの「寝所」にいたような場合には逃げ遅れたという可能性もあるでしょう。
  「難波宮殿」は上町台地の一番標高の高いところにありましたから、水利が悪かったという事も考えられます。火災が起きたときに十分な「水」が確保できなかったかもしれません。
 「難波宮」の「発掘調査」からは、北西の「谷」から「湧出水」を利用するための「樋」状の施設が発見されており、その用途についての議論の中では、「宮殿」の内部には「井戸」がなかったという可能性が指摘されています。このため、火災などが発生した場合に必要な「防火用水」としてはその量が不十分であったのかも知れません。

 こうしてみると「難波宮」の「内裏焼亡」という事件は実際には「倭国王権」にとって非常に重大な事案であり、かなり強いダメージがあったとみるべきではないでしょうか。

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