「老司式」、「鴻臚館式」という瓦は「複弁蓮華紋」を基本として共通しているものです。この「複弁蓮華紋」という様式は「近畿」では「七世紀」の第二四半期に初めて確認されるものであり、この時期を「下限」として考えられています。(つまり時代としてはそれより遡らないと言うことです)しかし、このように認定する理由は、この「複弁」様式が「近畿」でそれまで見られない、というただそれだけの理由からなのです。
つまり「近畿」にないものは「新しい」ものであるという、「テーゼ」とも言うべきものに支配された論理なのです。しかし、そのような「論理」に科学的正当性はありません。
実際には、この「複弁蓮華紋」は「漢代」以降、中国北半部で多く使用されたものであり、それはそのまま「北魏」から「隋」へと受け継がれていきます。(「北魏」の「平城京」からは多くの「複弁蓮華文」式の瓦が出土しています。)
これに対し「単弁蓮華紋」の系統は「中国」南半部で多く見られ、「南朝系統」とも考えられます。「半島」では基本的に「南朝」系統が優勢であり、「単弁蓮華紋」が全盛となります。
『書紀』に「百済」から「瓦博士」を招いたという記事が『推古紀』にあり、そのことは「飛鳥寺」「四天王寺」「若草伽藍」などが「百済」形式の「瓦」を(しかも「同笵瓦」として)使用していることでも判ります。
これら「四天王寺式」と言われる各寺院に共通している、南に「堂」、北に「塔」という直線的配置は「高句麗」の系統を引く様式と一般には言われていますが、「高句麗」の瓦は「蓮華文」ではなく「蓮蕾文」という様式が主たるものであり、これは独自形式となっています。この「高句麗」の瓦に近似したものは国内からほとんど確認されていません。
これに対し「複弁蓮華紋」が「近畿」に現れるのは上に見たように「七世紀」第二四半期と考えられているわけであり、このことから、従来の理解では「倭国内」では「単弁蓮華紋」が先行し「複弁蓮華紋」が遅れる、と考えられていたわけです。しかも「単弁」から「複弁」へ「変化」したとされており、あたかも同一系統の上の事と見なされていますが、それは全く認識が錯乱しています。
上で見たように「単弁」系瓦と「複弁」系瓦はその出自が違います。「単弁」が「複弁」に変化するというわけではありません。この二つの系統は「単に」「弁」の形状が異なるだけではなく、寸法、重量、厚み、整形の技法など全てが異なっており、全く別の「技術」とその「技術」を携えた「人間」(技術者)の存在を考えなければなりません。
「七世紀」第二四半期にそれらの存在が「近畿」に現れる理由については、従来は「遣唐使」という存在を想定しているわけですが、そう考えるには時期が遅すぎます。
『隋書たい国伝』の記述からも「遣唐使」の前に「遣隋使」という存在が確実にあったわけであり、彼らによって「隋」の文化や制度などが「倭国」に導入されたと見られる訳ですが、『隋書たい国伝』の新たな解析により「六世紀末」の「隋」成立直後というかなり早い段階で「隋」から制度・文化などの導入があったと見られることとなりました。その中では仏教に関するもの(「元興寺」の建設など)がその主たるものであったと考えられることとなったものです。この時に「隋」から「瓦」に関する技術も伝えられたとするのはそれほど無理なことではないでしょう。
「倭国」は「隋」との外交手段として仏教を重視することとなったわけですが、それは明らかに「隋」の高祖「文帝」が仏教へ強く傾倒していたことが原因していると見られます。さらに「文帝」から「訓令」を受けた事が強い契機となって「倭国」においても「仏教推進」、「寺院建立」などが政策として行われることとなったものと思われます。
つまり「百済」からの文化に遅れて「隋」からの仏教文化も流入したこととなると思われるわけですが、それが「七世紀第二四半期」に現れるというのはいかにも「遅すぎる」と言えるでしょう。このことは「遣隋使」が持ち帰った文化制度が一旦「近畿」(大和)以外の場所で「咀嚼」された後に改めて「近畿」へ伝来したと見るべきことを示します。
つまり「六世紀末」から「七世紀初め」という時期に「隋」から「瓦」を含めた「仏教文化」がもたらされたことは確実であり、それが「近畿」にその時代のものとしてみられないと云うことは、「近畿」に「隋」の制度等がその時期には伝来しなかったことを示すものです。そして、それは当然「九州」に一旦伝来したと見るべきであり、その時点の「倭国」の中心領域が「九州」であったことの明確な証明といえるでしょう。
また、その「近畿」への伝来は「倭国」の「難波遷都」という事業との関連が考えられるところです。そう考えると前項で述べたような「藤原宮式」よりも「太宰府政庁」の「鴻臚館式」や「観世音寺」の「老司式」の方が遅れるとは考えにくいこととなります。
また「瓦」の一種である「鬼瓦」についても「鬼面紋鬼瓦」が国内で初めて使用されたのも「大宰府政庁」とされています。
この「鬼面紋鬼瓦」は「北魏」に始まり「隋」・「唐」へと続くものですが、それが最初に「大宰府政庁」で使用され、遅れて「平城京」に使用されるのです。それまでの近畿では「獣面紋鬼瓦」しか確認されておらず、これは「半島」各国にあるものであり、特に「新羅」の影響が感じられるものですが、「隋」・「唐」の影響を感じさせるものではありません。
これらのことは「北魏」など「北朝」側から仏教文化全般(「寺院」やそれに付随する全て)が「六世紀末」付近までにすでに「九州」に伝搬していたということを示唆するものであり、「九州」内で発見される「複弁蓮華紋」瓦は「開皇年間」に行われた「遣隋使」による交流の成果と推測され、「近畿」への「単弁蓮華紋」に僅かに遅れて「九州」へ流入したと言うことを想定すべきではないかと思料されます。
「近畿」はそれ以降「七世紀第二四半期」に至ってようやく「複弁蓮華文」の発現を見るわけですから、「北朝」からの仏教に関わる技術についての蓄積は、「近畿」に対して「筑紫」がかなり先行していたといえるでしょう。
また「法隆寺」(元興寺)の創建「瓦」は「複弁蓮華紋瓦」でありまた「粘土紐巻付け」方式であったと見られ、「老司式」「鴻臚館式」「藤原宮式」「薬師寺式」などの諸寺院の瓦と異なる形式のものであることが知られています。これについては『書紀』の記事と「部材」に対する年輪年代測定法の結果から「六七〇年代」以降の「再建」と理解されていますが、「心柱」の伐採年代に良く現れているように当初の創建時期はかなりそれらを遡上するという可能性が考えられ、そうであれば「元興寺」として「隋」からの直接の影響を受けて創建されたのは遅くとも「七世紀初め」と考えられることとなって、いわば「ミッシングリンク」が今「法隆寺」として「近畿」にあることとなるでしょう。
この「元興寺」を「嚆矢」として「国内」に「複弁蓮華紋瓦」が(それも一斉に)同じ「粘土紐巻付け」という技法によって作られるようになるのです。このように「仏教文化」が広く「九州」を中心として流入していたと考えると「寺院」に関する事物全体が他地域よりも「九州」が先行していたと考えても不思議はないものと思われます。
従来の「瓦編年」は『書紀』の「藤原京」についての記述を根拠として編年しており、それは「須恵器」などの土器についても同じことがいえるわけですが、『書紀』の編年自体に問題があるとするならこれらの編年には全く信がおけないこととなるでしょう。
フラットな目で見れば「粘土紐巻付け」という方法で作られた「複弁蓮華紋瓦」は「遅くても」「七世紀初め」にはこの列島に現れていたと見るべきこととなります。その嚆矢となったのは後に「法隆寺」となった「元興寺」であり、その後この寺院を基準として各地に寺院が造られていくようになったものと思われ、七世紀半ばにはこの「瓦」が標準として作られまた使われるようになったものと思われます。
(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/10/26)旧ホームページから転載