古田史学の会のサイトなどで展開している古賀氏のブログで関西例会の様子が書かれていますが、その中に谷本氏の「那須直韋提」の碑文にある「永昌元年」に関する論が触れられています。その詳細はわかりませんが、それ以降書かれている古賀氏の記事内容から見て「国造」と「追大壱」が授与されたのが「永昌元年」と考えられているようであり、これは古田氏の説を踏襲したものと思われますが、当方はその理解に対し異議を唱えており、この「永昌元年」という時点で「国造追大壱」であった「韋提」が「評督」を賜ったものと考えています。
そのあたりについては既に「那須直韋提の碑文について(一~六)」(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/7efea600a66e2dc051b383309d481743他)などで書いていますが、この「六八九年」という年次において「評督」である人物に「国造」という地位を与えたとは考えられません。
このように思惟する根本として、木簡などでもこの「永昌元年」という時期に「国造」を授与されるというような例が見あたらないこと、そもそもこの時期の木簡に「国造」が表記された例そのものが皆無であり、やはり「評制」が施行されている間に「国造」が同時並列的に「制度」として施行されていたとは考えにくいと考えたからです。
「評制」が行われなくなった「大宝令」施行後以降「国造」が再び制度して決められたらしいことが「木簡」から窺えるものの、あくまでも「七世紀」においては「評制」が施行されていたものであり、「国造」は「評制」が行われるようになって以降制度としては施行されていなかったものであり、そのようなものを「授与」するとは考えられないと言う事です。
逆にこれを「永昌元年」という時点で「評督」という地位を与えたとみれば、これはそれ以前に「国造」であった(あるいは自称していた)「韋提」に「追大壱」を与えた事案があり、それは大地震後に「冠位制」が定められた「六八五年」のこととみるのが相当と思われ、これは地震発生後の乱れた人心を安定させる施策の一環であったと思われます。また彼に授けられた「追大壱」という位階は「辺境」など国内における統治の不完全な地域に対する冠位授与の通例のものであり、不自然ではありません。そしてその後「永昌元年」段階で「韋提」に対し「評督」が授与されたとみています。このような思惟進行に依ればこの「飛鳥浄御原宮」は「評督」を授与しているのですから「倭国九州王権」に連なる存在であるのは当然と考えます。
また「谷本氏」が提起した「暦」の一年ズレについても上に挙げた記事(「那須直韋提の碑文について(六))で議論していますが、基本としては「周正」(十一月を歳首とする暦)への変更が招いた混乱と考えれば整合するのではないでしょうか。