前の投稿で述べた「疑い」について以下にその徴証といえるものを示します。
『隋書俀国伝』に書かれた「倭国王」の言葉に「聞海西菩薩天子重興仏法」というのがあります。
「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/俀国』より)
ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われます。中国の天子には「菩薩戒」を受けた人物が複数おりますが、ここで該当するのは「隋」の「高祖」(文帝)ではないでしょうか。彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。これに対し「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」はしていますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「文帝」とは同じレベルでは語れないと思われます。さらに、「文帝」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。
「北周」の「武帝」は「仏教」を嫌い、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「文帝」は「北周」から「授禅」の後すぐに「仏教」の回復に乗り出しました。
彼は「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業を矢継ぎ早に行いました。重要なことはそこに「文帝」に直接関連することとして「重興仏法」という用語が明確に使用されていることです。
「…及年七歲告帝曰。兒當大貴從東國來。佛法當滅由兒興之。而尼沈靜寡言。時道成敗吉凶。莫不符驗。初在寺養帝。年十三方始還家。積三十餘歲略不出門。及周滅二教。尼隱皇家。內著法衣。戒行不改。帝後果自山東入為天子。『重興佛法』。皆如尼言。…」(大正新脩大藏經 史傳部二/二○六○ 續高僧傳/卷二十六/感通下正傳四十五 附見二人/隋京師大興善寺釋道密傳一)
これによれば、「重興仏法」という用語が「文帝」と関連して使用されていることは明白です。
また後の「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されています。
「釋日照。姓劉氏。岐下人也。…庵居二十載。屬會昌武宗毀教。照深入巖窟。飯栗飲流而延喘息。大中宣宗『重興佛法』。率徒六十許人。還就昂頭山舊基。… 」(大正新脩大藏經 史傳部二/二〇六一 宋高僧傳卷十二/習禪篇第三之五正傳二十人 附見四人/唐衡山昂頭峯日照傳)
彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これは「隋」の高祖と同様の事業であったものであり、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの例から読み取れます。
これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例が確認できません。彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「文帝」や「唐の宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
さらに「倭国王」から「裴世清」への言葉の中に「大國維新之化」というものがあることにも注目されます。
「…其王與清相見大悅曰 我聞海西有『大隋禮義之國』、故遣朝貢。我夷人僻在海隅不聞禮義、是以稽留境内不即相見。今故清道飾館以待大使、冀聞『大國惟新之化』。…」
ここで言う「維新」の語も「隋書」では「煬帝」に対して使用された例がなく、「高祖」に対してのものしか確認できません。
(以下「維新」の例)
「梁武帝本自諸生,博通前載,未及下車,意先風雅,爰詔凡百,各陳所聞。帝又自糾擿前違,裁成一代。周太祖發跡關、隴,躬安戎狄,羣臣請功成之樂,式遵周舊,依三材而命管,承六典而揮文。而下武之聲,豈姬人之唱,登歌之奏,協鮮卑之音,情動於中,亦人心不能已也。昔仲尼返魯,風雅斯正,所謂有其藝而無其時。『高祖受命惟新』,八州同貫,制氏全出於胡人,迎神猶帶於邊曲。…」(『隋書/志第八/音樂上』より)
「…『高祖受終,惟新朝政』,開皇三年,遂廢諸郡。洎于九載,廓定江表,尋以戶口滋多,析置州縣。煬帝嗣位,又平林邑,更置三州。既而併省諸州,尋即改州為郡,乃置司隸刺史,分部巡察。五年,平定吐谷渾,更置四郡。…」(『隋書/志第二十四/地理上』より)
この「維新」という用語は上の例にもあるように「受命」と対になった観念であり、まさに「初代皇帝」についてのみ使用しうると言えるでしょう。また他には「梁の武帝」の例、「齋(南斉)の高帝」の例があり、いずれも新王朝の開祖としての使用例です。つまりこれが「煬帝」へのものであったとすると不審としかいえないわけです。(他に「唐」の「高宗」の使用例(即位の詔)もありますが、文脈上それは「高祖」あるいはそれを継承した「太宗」につながるものであり、自らの治世に対する発言ではありません。)
さらに「大隋禮義之国」という表現も、「隋代」の中でも「煬帝」よりは「高祖」の時代にこそふさわしい表現であると思われます。なぜなら「禮制」は「北魏」以降「南朝」の制度を取り込んで体系化していったものですが、「北齊」である程度の完成をみた後、「隋」がさらに継承・発展させたものです。例えば「朝服制度」や「楽制」など多くの「禮制」が「隋代」にまとめられたとされていますが、それらは全て「高祖」によるものであったのです。
また「禮義」とは「禮制」(儀礼など)を言うと思われるものの、またそれ以外の「道徳律」なども含んだものと思われ、「隋」時点ではさらに「刑法」と関連したものとして考えられていたようです。
「夫刑者,制死生之命,詳善惡之源,翦亂誅暴,禁人為非者也。聖王仰視法星,旁觀習坎,彌縫五氣,取則四時,莫不先春風以播恩,後秋霜而動憲。是以宣慈惠愛,導其萌芽,刑罰威怒,隨其肅殺。『仁恩以為情性,禮義以為綱紀,養化以為本,明刑以為助。』…」(『隋書/志第二十/刑法』より)
ここでは「仁恩」と「養化」、「禮義」と「明刑」とが対句として使用されています。「養化」が「本」であり、「明刑」はその「補助」であるというわけですが、その「養化」の為には「仁恩」が必要であり、「明刑」が生きるためには「禮義」が「綱紀」とならなければならないというわけです。
このような例から考えると、ここで「倭国王」が述べているのは「隋」には「綱紀」の基準として「刑法」がしっかり機能しており、その「綱紀」は「禮義」によって維持されているということではないでしょうか。その場合「念頭」に置かれているのは「開皇律令」というものの存在であったと思われます。
「開皇律令」は「開皇」の始めに造られたものであり、「律令」そのものはそれ以前からあったものの、この「隋」時点において「法体系」として整備、網羅され、ひとつの「極致」を示したとされます。ただしそれも「禮義」が整っていてこそのものと思われ、その意味で「隋」を「禮義之国」と呼称したという可能性が考えられるものであり、その「禮義之国」を造ったのは「高祖」であるわけですから、これを「煬帝」に対するものとははなはだ言いにくいものと思われるわけです。
「古田氏」は「大部写経」などの実績からこの「重興仏法」した天子を「煬帝」であるとして疑ってはいないようですが、上に見るように「文帝」を差し置いて「重興仏法」という用語を「煬帝」に使用したと理解するのはかなり困難であるように思われます。
この点については、多元史論者以外でも従来から問題とはされていたようですが、その解釈としては「煬帝」にも「仏教」の保護者としていう面はあるということから「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「文帝」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「文帝」が在位していると思っていたというようなものまであります。
しかし、上に見るように「重興仏法」などの用語が「文帝」に即した使用例しかないこと考えると、その用語を「煬帝」に向けて発しても「賞賛」にはならないのではないでしょうか。それは「煬帝」にも、その言葉を直接耳にすることとなった「裴世清」にも(彼が「煬帝」から派遣されていたとすると)、「違和感」しか生まないものであったと思われます。
また、「倭国年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと思われますが、また改元等の情報の入手にも積極的であったことを示しものでもありますが、必要な情報は「百済」を通じて得ていたものと思われます。
この当時「百済」は「隋」から「帯方郡公」という称号を与えられており、ちょうど「魏晋朝」において「倭国」が「帯方郡」を通じて「中国」と交流していたように「百済」を通じて「隋」の情報を得ていたとして不思議はありません。そうであれば「皇帝」の存否の情報などを「倭国王権」が持っていなかったというようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「高祖」に向けて発せられたものと考えるしかないこととなるでしょう。
この推測の傍証と言えるのは(一見関連が薄そうですが)「元史」に書かれた「日本」への使者派遣の記事です。
「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島に到着したと思われます)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。
(元史/列傳 第四十六/趙良弼より) 「…隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎…」
これによれば「裴清」(裴世清)は「隋の文帝」が派遣したと明確に書かれています。ここで「王郊迎成禮」とされているのが『隋書』の「倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗 、從二百餘騎郊勞。」という部分に対応すると思われますから、彼が言う「裴世清」を派遣したというのは「大業三年記事」に対応するものと思われますから、年次に対する「疑い」が正当なものであることが言えます。(開皇二十年記事には「隋使」派遣の記事がなくまた倭国側の受け入れを記した記事も当然ながらありませんからこの記事との関連はないと思われることとなります。)
「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/俀国』より)
ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われます。中国の天子には「菩薩戒」を受けた人物が複数おりますが、ここで該当するのは「隋」の「高祖」(文帝)ではないでしょうか。彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。これに対し「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」はしていますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「文帝」とは同じレベルでは語れないと思われます。さらに、「文帝」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。
「北周」の「武帝」は「仏教」を嫌い、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「文帝」は「北周」から「授禅」の後すぐに「仏教」の回復に乗り出しました。
彼は「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業を矢継ぎ早に行いました。重要なことはそこに「文帝」に直接関連することとして「重興仏法」という用語が明確に使用されていることです。
「…及年七歲告帝曰。兒當大貴從東國來。佛法當滅由兒興之。而尼沈靜寡言。時道成敗吉凶。莫不符驗。初在寺養帝。年十三方始還家。積三十餘歲略不出門。及周滅二教。尼隱皇家。內著法衣。戒行不改。帝後果自山東入為天子。『重興佛法』。皆如尼言。…」(大正新脩大藏經 史傳部二/二○六○ 續高僧傳/卷二十六/感通下正傳四十五 附見二人/隋京師大興善寺釋道密傳一)
これによれば、「重興仏法」という用語が「文帝」と関連して使用されていることは明白です。
また後の「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されています。
「釋日照。姓劉氏。岐下人也。…庵居二十載。屬會昌武宗毀教。照深入巖窟。飯栗飲流而延喘息。大中宣宗『重興佛法』。率徒六十許人。還就昂頭山舊基。… 」(大正新脩大藏經 史傳部二/二〇六一 宋高僧傳卷十二/習禪篇第三之五正傳二十人 附見四人/唐衡山昂頭峯日照傳)
彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これは「隋」の高祖と同様の事業であったものであり、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの例から読み取れます。
これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例が確認できません。彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「文帝」や「唐の宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
さらに「倭国王」から「裴世清」への言葉の中に「大國維新之化」というものがあることにも注目されます。
「…其王與清相見大悅曰 我聞海西有『大隋禮義之國』、故遣朝貢。我夷人僻在海隅不聞禮義、是以稽留境内不即相見。今故清道飾館以待大使、冀聞『大國惟新之化』。…」
ここで言う「維新」の語も「隋書」では「煬帝」に対して使用された例がなく、「高祖」に対してのものしか確認できません。
(以下「維新」の例)
「梁武帝本自諸生,博通前載,未及下車,意先風雅,爰詔凡百,各陳所聞。帝又自糾擿前違,裁成一代。周太祖發跡關、隴,躬安戎狄,羣臣請功成之樂,式遵周舊,依三材而命管,承六典而揮文。而下武之聲,豈姬人之唱,登歌之奏,協鮮卑之音,情動於中,亦人心不能已也。昔仲尼返魯,風雅斯正,所謂有其藝而無其時。『高祖受命惟新』,八州同貫,制氏全出於胡人,迎神猶帶於邊曲。…」(『隋書/志第八/音樂上』より)
「…『高祖受終,惟新朝政』,開皇三年,遂廢諸郡。洎于九載,廓定江表,尋以戶口滋多,析置州縣。煬帝嗣位,又平林邑,更置三州。既而併省諸州,尋即改州為郡,乃置司隸刺史,分部巡察。五年,平定吐谷渾,更置四郡。…」(『隋書/志第二十四/地理上』より)
この「維新」という用語は上の例にもあるように「受命」と対になった観念であり、まさに「初代皇帝」についてのみ使用しうると言えるでしょう。また他には「梁の武帝」の例、「齋(南斉)の高帝」の例があり、いずれも新王朝の開祖としての使用例です。つまりこれが「煬帝」へのものであったとすると不審としかいえないわけです。(他に「唐」の「高宗」の使用例(即位の詔)もありますが、文脈上それは「高祖」あるいはそれを継承した「太宗」につながるものであり、自らの治世に対する発言ではありません。)
さらに「大隋禮義之国」という表現も、「隋代」の中でも「煬帝」よりは「高祖」の時代にこそふさわしい表現であると思われます。なぜなら「禮制」は「北魏」以降「南朝」の制度を取り込んで体系化していったものですが、「北齊」である程度の完成をみた後、「隋」がさらに継承・発展させたものです。例えば「朝服制度」や「楽制」など多くの「禮制」が「隋代」にまとめられたとされていますが、それらは全て「高祖」によるものであったのです。
また「禮義」とは「禮制」(儀礼など)を言うと思われるものの、またそれ以外の「道徳律」なども含んだものと思われ、「隋」時点ではさらに「刑法」と関連したものとして考えられていたようです。
「夫刑者,制死生之命,詳善惡之源,翦亂誅暴,禁人為非者也。聖王仰視法星,旁觀習坎,彌縫五氣,取則四時,莫不先春風以播恩,後秋霜而動憲。是以宣慈惠愛,導其萌芽,刑罰威怒,隨其肅殺。『仁恩以為情性,禮義以為綱紀,養化以為本,明刑以為助。』…」(『隋書/志第二十/刑法』より)
ここでは「仁恩」と「養化」、「禮義」と「明刑」とが対句として使用されています。「養化」が「本」であり、「明刑」はその「補助」であるというわけですが、その「養化」の為には「仁恩」が必要であり、「明刑」が生きるためには「禮義」が「綱紀」とならなければならないというわけです。
このような例から考えると、ここで「倭国王」が述べているのは「隋」には「綱紀」の基準として「刑法」がしっかり機能しており、その「綱紀」は「禮義」によって維持されているということではないでしょうか。その場合「念頭」に置かれているのは「開皇律令」というものの存在であったと思われます。
「開皇律令」は「開皇」の始めに造られたものであり、「律令」そのものはそれ以前からあったものの、この「隋」時点において「法体系」として整備、網羅され、ひとつの「極致」を示したとされます。ただしそれも「禮義」が整っていてこそのものと思われ、その意味で「隋」を「禮義之国」と呼称したという可能性が考えられるものであり、その「禮義之国」を造ったのは「高祖」であるわけですから、これを「煬帝」に対するものとははなはだ言いにくいものと思われるわけです。
「古田氏」は「大部写経」などの実績からこの「重興仏法」した天子を「煬帝」であるとして疑ってはいないようですが、上に見るように「文帝」を差し置いて「重興仏法」という用語を「煬帝」に使用したと理解するのはかなり困難であるように思われます。
この点については、多元史論者以外でも従来から問題とはされていたようですが、その解釈としては「煬帝」にも「仏教」の保護者としていう面はあるということから「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「文帝」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「文帝」が在位していると思っていたというようなものまであります。
しかし、上に見るように「重興仏法」などの用語が「文帝」に即した使用例しかないこと考えると、その用語を「煬帝」に向けて発しても「賞賛」にはならないのではないでしょうか。それは「煬帝」にも、その言葉を直接耳にすることとなった「裴世清」にも(彼が「煬帝」から派遣されていたとすると)、「違和感」しか生まないものであったと思われます。
また、「倭国年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと思われますが、また改元等の情報の入手にも積極的であったことを示しものでもありますが、必要な情報は「百済」を通じて得ていたものと思われます。
この当時「百済」は「隋」から「帯方郡公」という称号を与えられており、ちょうど「魏晋朝」において「倭国」が「帯方郡」を通じて「中国」と交流していたように「百済」を通じて「隋」の情報を得ていたとして不思議はありません。そうであれば「皇帝」の存否の情報などを「倭国王権」が持っていなかったというようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「高祖」に向けて発せられたものと考えるしかないこととなるでしょう。
この推測の傍証と言えるのは(一見関連が薄そうですが)「元史」に書かれた「日本」への使者派遣の記事です。
「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島に到着したと思われます)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。
(元史/列傳 第四十六/趙良弼より) 「…隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎…」
これによれば「裴清」(裴世清)は「隋の文帝」が派遣したと明確に書かれています。ここで「王郊迎成禮」とされているのが『隋書』の「倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗 、從二百餘騎郊勞。」という部分に対応すると思われますから、彼が言う「裴世清」を派遣したというのは「大業三年記事」に対応するものと思われますから、年次に対する「疑い」が正当なものであることが言えます。(開皇二十年記事には「隋使」派遣の記事がなくまた倭国側の受け入れを記した記事も当然ながらありませんからこの記事との関連はないと思われることとなります。)
ただしこの「元史」は「杜撰」というような評価があり、これを補筆・改定するために改めて「清代」に「新元史」が編纂されましたが、この部分はその「新元史」でもやはり「随文帝」と書かれており、修正はされていないようです。
「趙良弼」や「元史」の編纂者が『隋書』を見ていなかったとは考えにくく、そうであれば「裴世清」を「文帝」が派遣したとは現在の『隋書』を見る限り理解することはできないものです。このことは、彼らは何か「別の史料」(これは不明ですが『隋書』編纂時に参考にされたものがその後宮廷の書庫に残っていたことが考えられ、「王劭」版「隋書」であったという可能性も考えられるところです)によってこのような知識を彼らの教養として身につけていたものではないでしょうか。
「趙良弼」や「元史」の編纂者が『隋書』を見ていなかったとは考えにくく、そうであれば「裴世清」を「文帝」が派遣したとは現在の『隋書』を見る限り理解することはできないものです。このことは、彼らは何か「別の史料」(これは不明ですが『隋書』編纂時に参考にされたものがその後宮廷の書庫に残っていたことが考えられ、「王劭」版「隋書」であったという可能性も考えられるところです)によってこのような知識を彼らの教養として身につけていたものではないでしょうか。
以上のような思惟進行によれば、この『隋書俀国伝』記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなります。つまりこの「倭国王」の話した内容は「隋」の「高祖」の治世期間であれば該当するものと思われるのです。
(続く)
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