古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「裴世清」の肩書問題

2020年03月07日 | 古代史
 すでに考察したように「大業三年記事」はそれをかなり遡上する時期の記事を移動して書いていると考えられることとなりました。それは「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」が、実態としては「隋」の高祖からの使者であると理解しなくてはならないことを意味することとなり、その場合「裴世清」の肩書きの問題を解く必要が出てきます。
 『書紀』の「遣隋使」記事では「肩書き」(「隋皇帝」から「推古天皇」に送られたという詔書の記載による)では「鴻廬寺掌客」となっており、『隋書』の記載の「文林郎」とは食い違いを見せています。
 「文林郎」は「大業年間」の「煬帝」の時代に「散官」ではなく「実務」を担当する者として現れます。また「隋」の「高祖」の時代には、当初なかった「文林郎」が「開皇年間」に新設されたことが『隋書百官志』に書かれています。
「…六年,尚書省二十四司,各置員外郎一人,以司其曹之籍帳。侍郎闕,則釐其曹事。吏部又別置朝議、通議、朝請、朝散、給事、承奉、儒林、『文林等八郎』,武騎、屯騎、驍騎、游騎、飛騎、旅騎、雲騎、羽騎八尉。其品則正六品以下,從九品以上。上階為郎,下階為尉。散官番直,常出使監檢。…」(隋書/志第二十三 百官下/隋)
 ただしこれを見ると「秘書省」の一員としての存在ではないようであり、「煬帝」の時代の「文林郎」とはやや異なる立場ともいえます。
 さらに『列伝』の中に「高祖」に意見する人物として「文林郎」の肩書きを持ったものが登場します。
「…時文林郎楊孝政上書諫曰:「皇太子為小人所誤,宜加訓誨,不宜廢黜。」上怒,撻其胸。尋而貝州長史裴肅表稱:「庶人罪黜已久,當克己自新,請封一小國。」高祖知勇之黜也,不允天下之情,乃?肅入朝,具陳廢立之意。…」(『隋書/列傳第十 文四子/房陵王勇』より) 
 これは皇太子であった「楊勇」を廃する決定を行った際の「仁寿年間」の出来事であり、この時点ですでに「文林郎」が存在しているという事実を反映しているものです。つまり「高祖」の時代に「文林郎」という職官がいたであろうと推察できるわけです。
 これに対し「鴻臚寺掌客」というのは正式な外務官僚です。またこの両者は階級というべき「品(ほん)」が異なっているとされます。確かに「煬帝」治世下では「文林郎」は「従八品」であるのに対して「鴻臚寺掌客」は「正九品」ですが、上に見る「開皇年間」の「文林郎」は「従九品以上」であるのは確かですが、明確に規定されているわけではなく、必ず「上」とも言い難い存在です。これについては通常「兼務」などという解釈もされているようであり、そのため従来の解釈では、「倭国」への使節に任命された際に「鴻臚寺掌客」という「外務」に携わる「職掌」を併せて与えられたと見るわけですが、そのような場合元の職掌よりも上位の「冠位」に相当する職掌が与えられて然るべきであろうと思われ、そうなっていないのはやはり不審です。
 「裴世清」は「倭国王」などと対面する際、自己紹介したでしょうし、それは書かれたものでなければ「正確」なものとはならないはずですから、そのような資料(書状)が「倭国側」に渡ったはずです。これが『書紀』中に出てくるものの参考資料となったものと考えられます。これが「兼務」であるとすると「冠位」の高い方が先に書かれ、また名乗られたと考えなければならないでしょう。そうであれば、名乗った冠位と職掌は「文林郎兼鴻櫨寺掌客」となるはずであり、その逆ではないでしょう。しかるに『書紀』の「国書」には「兼務」した職掌である(後に書かれた「冠位」の低い方の)「鴻臚寺掌客」だけが書かれたとしなければならなくなりますが、それは明らかに不合理であると思われます。
 そもそも「外交使節」などに抜擢する場合、冠位を飾るのはよくある話ですが、本来の職位より低い冠位あるいは「同等」の冠位の職掌を充てたのでは「飾る」こととなりません。こう考えるとこの「倭国側資料」にある(しかも皇帝からの「詔」の文中に存在する)「鴻臚寺掌客」というものが「派遣」時点における彼の本来の「職掌」そのものであると考えざるを得ないこととなります。つまり「倭国」に「国書」を持参した際の「裴世清」は「文林郎」ではなかったと考えざるを得ません。この「鴻臚寺掌客」が彼の本来の職分であり、決して「文林郎」と兼務していた訳でもなく、また「文林郎」が正式の職掌でもなかったと推定するしかないこととなります。
 そう考えると、元々「隋代初期」には「鴻臚寺掌客」であったものが次に来倭した時点では「文林郎」であったと考えるとスムースではないでしょうか。その場合「冠位」の矛盾は起きません。つまり「唐」の時代に来倭したとするより「隋代初期」に来倭し、その後再度倭国を訪れたと考える方が無理がないと言えるわけです。 
 この「鴻臚寺掌客」という官職についてみてみると、『隋書』には「鴻臚寺」という官職名が「隋」に始まるとされ、また「掌客」つまり「対応を担当する職掌」という意味の「典侍署」があったとされています。このことから「鴻臚寺掌客」という職名が「鴻臚寺典客署掌客」という正式な官職名の縮約であり、これは「隋」の始めに「高祖」により制定された官制にあるものであり(『隋書百官志下』)、その意味からは「隋代初期」という時期がもっともふさわしいともいえるでしょう。
 また「裴氏族」の「系譜」が書かれた『裴氏家譜碑』(※2)によれば、「裴世清」は「貞観年間」には「江州刺史」として存命していたとされています。この「刺史」という官職はかなり「位階」が高く、「上州」であれば「三品」、「下州」であれば「四品」とされていますが、『裴氏家譜碑』によると「江州」は「下州」とされており「従四品上」の位階を得ていたようです。 
 さらに同碑によれば、彼は「武徳七年」(六二四年)以前に既に「駕部・主客二郎中」であったとも記されており、これはほぼ「五品」に相当し、さらに「貞観二年」(六二八年)に「都督」(旧「総管」)であったとも記されています。(これは「四品」)このような昇進過程から考えると、「初唐」段階で「九品」というのは明らかに低すぎると言えるでしょう。
 しかし、上に推定したようにこの「鴻臚寺掌客」としての「来倭」が隋代であり「開皇の始め」という時期であったとすると、「初唐」の時期に降格したという想定はしなくて良いわけですから、「六〇八年」段階の「文林郎」(従八品)から、約三十年で二十階位以下の昇進でよいこととなります。これは一見かなりノーマルな昇進速度といえるようです。ただし、そうなると逆に「隋初」から「大業三年」までの昇進が異常に遅いこととなるという問題が発生しますが、これは『隋書』の年代が正確であるという前提ですから、『隋書』の年次に対する疑いを検討した現段階では「大業三年」という年次が実際にはかなり遡上するとみれば不自然とは言えなくなります。
 ところで、この当時「隋王朝」の高官として「裴世矩」という人物がいました。(彼は後に「太宗」の名である「李世民」の「世」を諱として避け「裴矩」と称したもの)彼と「裴世清」は同族ではなかったようですが(共に「河東裴氏」とされるものの「裴矩」が「西眷裴氏族」とされるのに対して「裴世清」は「中眷裴氏族」とされる)、「世」の一字を共有しており、近しい関係にあったことが推定できます。このように名前に文字を共有する場合「兄弟」や少なくとも「同世代」である場合が多く、彼らの場合も「年齢」も近いことが推定されますが、「裴矩」は「貞観元年」(六二七年)に「八十歳」で死去していることが知られていますから、「裴世清」はそれよりやや若い程度ではなかったかと思われ、上にみる「六三八年」の「江州刺史」段階で既に八十歳近かったという推定も可能でしょう。そうであれば「開皇初」で二十代であったらしいことが推定されますが、それは上に行った推定とは基本的に矛盾しないものです。
 ちなみに「裴世矩」は「隋」の「高祖」から気に入られ「重臣」として活躍しました。当時は「黄門待郎」という地位にありましたがその後「唐」に「王朝」が代わった際にも「民部尚書」という官職をあてがわれています。これは「位階」で見ると「昇進」となります。この間「隋」から「唐」へ王朝は代わっても双方の官僚は基本的には「共通」していますし、「考課」も変らず行なわれたものと見られます。もちろん古田氏の言うような「王朝交替」に伴う人事異動(左遷・昇進)はあったでしょうけれど、そもそもそのような影響を受けたのは、「政局」に影響が大きい「高位」の存在が対象となったものと思われ、下から数えた方が早いような下級官吏には縁遠い話ではなかったでしょうか。そうであれば「裴世清」もそれほど「唐」建国時点で大幅な昇進や逆に降格があったと云うことは考えにくいこととなるでしょう。
 これらのことから考えて「裴世清」は「隋初」段階で「鴻臚寺掌客」であったものであり、その後同じ「開皇年間」に「文林郎」として再度「倭国」を訪れたと見るのが相当と思われるわけです。

(※1)榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」(『アリーナ 2008』、2008年3月)
(※2)奥村裕之「唐朝政権の形成と太宗の氏族政策 -金劉若虚撰「裴氏相公家譜之碑」所引の唐裴滔撰『裴氏家譜』を手掛かりに-」史學研究會編「史林」九十五巻第四号二〇一二年。これによれば、「金」(一一七一年頃)の時代に「裴氏」の後裔が「裴氏一族」の家譜を刻んだ「碑」(裴氏相公家譜之碑)を建てたとされ、その中に「裴世清」についての記述があります。
コメント

『新唐書日本伝』と遣隋使派遣時期

2020年03月07日 | 古代史
 以上見てきた見地については『新唐書日本伝』にある「王代紀」部分の記述とも矛盾しないものです。
 『新唐書』日本伝には「倭国」以来の各代の倭国王の「諡号」が累々と書き連ねてある部分があります。この部分は「北宋」の時代に「日本」から訪れた「東大寺」の僧「凋然」が持参した「王代紀」を参考にしているとされています。そこでは、各代の天皇名の合間に「隋」や「唐」側で保有していた「倭国」との交渉の記録が挟み込まれるように書かれています。
 この「挿入」される位置は、常識的に考えるとその「交渉」が行われた時期の「倭国王」の記事中であると考えられます。(「編年体」の史書類は基本的にそのような体裁で書かれているはずですから。)
 しかし、記事を見るとその位置が『書紀』に書かれた天皇の代と食い違っているように見えるのが多くあるのが確認できます。
「…次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。『次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。』次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。『其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦 婦人衣純色裙,長腰襦,結髮于後。至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布為衣,左右佩銀?,長八寸,以多少明貴賤。』
 太宗貞觀五年,遣使者入朝,帝矜其遠,詔有司毋拘歳貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。…」(新唐書日本伝)
 先ずここでは「用明」の時代が「阿毎多利思北孤」の時代であるというような主張が見られます。そして彼の時代が「開皇末」であり、その時点で「初めて」中国と「通じた」というわけです。この主張は『隋書』を下敷きにしたものと見られますが、『書紀』とは大きく齟齬します。そして、その後「崇峻」へと続くわけですから、その食い違いは大きく「二十年近く」の年時差となると思われます。「隋の開皇末」云々とは『隋書たい国伝』の「開皇二十年」(六〇〇年)記事を指しているのは間違いないと思われるのに対して、『書紀』では「崇峻」はその十年近く前の「五九二年」に死去してしまっているわけですから、その違いはかなり大きいものです。(しかも『書紀』ではあくまでも「推古十六年」(六〇七年)の遣隋使が最初のこととして書かれています。)
 これについてはこの「隋開皇末,始與中國通」という記事が依拠した『隋書』にすでに「誤謬」があると考えれば理解できるものです。つまり、『隋書』の年紀に疑いがあるということは既に述べたわけですが、それに基づけば本来の「遣隋使」派遣は「隋初」のことと考えられ、「二十年」程度の遡上を措定する必要が出てくることとなります。そうであれば、「崇峻」の前(「用命」の時代とされますから「五八六年」と「五八七年」のいずれか)に「中国と通じる」と書かれているのは一概に「間違い」とはいえないこととなるでしょう。 
 これについては後に「日蓮」により書かれた『報恩抄』にもほぼ同様の記事が見られます。
「…又用明天皇の御宇に 聖徳太子仏法をよみはじめ 、和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、…」(「第十一章 日本伝教大師の弘通」より)
 これによれば「妹子」が隋に派遣されたのは「用明」の時であると理解しているように受け取られ、これは上の『新唐書』の記事と一致しています。
 この『新唐書』の記事は「凋然」がもたらした「王代紀」が元となっているとされるわけですが、それは「日蓮」が目にしたものと同じようなものなのかも知れません。いずれにしても、当時の「日本側」の常識としては「用明」の時代に「遣隋使」が派遣されたというものであり、これは「正史」としての『書紀』に書かれたこととは全く食い違うものです。このようなことが「正史」という存在に関わらず、認識されていたと言うことはかなり重要であると思われます。
 従来『隋書』記事と『推古紀』記事は同一内容であり、また同年次のこととして書かれているから同一の事象であり、史実であるとする立場がほとんどでした。そのような議論は『書紀』と『隋書』が全く独立に書かれたとした場合有効なものであったわけですが、「雄略天皇」の遺詔が「隋の文帝」の遺詔の(悪く言えば)剽窃であるというのは既に有名なことであり、また「元明天皇」の「平壌遷都詔」もまた「隋」の「文帝」の「大興城遷都詔」を「換骨奪胎」したというべき内容となっていることもまた明らかとなっています。
 『書紀』はその完成が『続日本紀』の中で「七二〇年」のこととして書かれていますが、当然その編纂はそれ以前に行われていたものです。また「平壌京遷都詔」が出されたのは『続日本紀』に拠れば「和銅元年二月十五日条」として書かれており、これは西暦で言うと「七〇八年」とされます。つまり「書紀編纂」がまさに行われつつあったその時期に「遷都詔」が出されているわけであり、これは『隋書』についての知識が「王権内」で共有化されていたことを示すものと思われます。当然「遷都詔」を書いた人たちと「雄略」の遺詔部分を書いた人たちが同一であったという可能性ももちろんあると思われます。そうであれば、このような『隋書』からの「剽窃」という行為が、『書紀』一般の「潤色」として「他の部分」にも及んでいたという可能性を念頭に置くべきであることは論を待たないものであり、「裴世清」についての記事も『隋書』を横に見て「それに合わせて書いた」と言うこともあり得べきこととなります。その場合、その潤色等の内容として『隋書』に合わせて年次を移動した、という可能性も考えられるわけであり、上に縷々行った論証はそのことを示すものでもあります。

(※)大正新脩大藏經 法苑珠林百卷/卷四十/舍利篇第三十七/慶舍利感應表「…高麗百濟新羅三國使者將還。各請一舍利於本國起塔供養。詔並許之。…」
コメント

隋代七部楽と遣隋使

2020年03月07日 | 古代史
 「開皇二十年」記事の中に「倭国」の「国楽」について書かれた部分があります。
(再掲)
「…其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。…」
 この「国楽」との関連が考えられるのが、「隋代七部楽」の制定です。その中には「雑楽」の中の一部として「倭国」の楽も入っています。
「…始『開皇初』定令置七部樂。一曰國伎、二曰淸商伎、三曰高麗伎、四曰天竺伎、五曰安國伎、六曰龜茲伎、七曰文康伎。又雜有疏勒・扶南・康國・百濟・突厥・新羅・『倭國』等伎。…。」(『隋書卷十五 志第十/音樂下/隋二/皇后房内歌辭』より)
 この「七部楽」はここに見るように「開皇の始め」に初めて制定されたというわけです。
 『隋書』を見ると「開皇九年」に以下の記事があるのが確認できます。
「十二月甲子,詔曰:「朕祗承天命,清蕩萬方。百王衰敝之後,兆庶澆浮之日,聖人遺訓,掃地?盡,制禮作樂,今也其時。朕情存古樂,深思雅道。鄭、衞淫聲,魚龍雜戲,樂府之?,盡以除之。今欲更調律呂,改張琴瑟。且妙術精微,非因教習,工人代掌,止傳糟粕,不足達神明之德,論天地之和。區域之間,奇才異藝,天知神授,何代無哉!蓋晦迹於非時,俟昌言於所好,宜可搜訪,速以奏聞,庶覩一藝之能,共就九成之業。」仍詔太常牛弘、通直散騎常侍許善心、祕書丞姚察、通直郎虞世基等議定作樂。…」
 ここでは「文帝」が「制禮作樂,今也其時。」と語っていることからもわかるように「楽」を定めるとしています。この時点は「南朝」を滅ぼし「中国」を統一した時点であり、ここで南朝の「楽」が「隋」にもたらされたものです。(この「南朝」の「楽」が「七部楽」の「二」にいう「淸商伎」と考えられているようです。)
 これを契機に「七部楽」を「儀礼」に使用する正式なものとして制定したものと見られるわけです。(※)
 この「七部楽」に採用された各「伎楽」は「勢力下」に置かれた地域の「楽」であり、それは「南朝」のように「征服」によってもたらされるケースや、「高麗」などの場合は「北魏」による「燕」などの東方勢力を征服したこととの関連が考えられる場合などがあります。「倭国」の「楽」の場合も明らかに「外交」によるものであったと思われ、いわゆる「朝貢」に伴うものであったと見るべきでしょう。
 これが、民間伝承のような形で伝わったとか、「百済」や「新羅」など半島の国を経由して伝わった、いわば「間接的」なものというような解釈はできないと思われます。このように「制度」として定められたと言うことは、いわば「フォーマル」なものであり、正式な「外交」の成果としてもたらされたものと考えるべきでしょう。それは「倭国」に限らず、各国からの「正式」な(公式な)ものとして「隋」にもたらされたことを推定させるものであり、そうであれば少なくともこの「開皇九年」という「隋初」段階(あるいはそれ以前)に「遣隋使」が送られていたことの証左とも言えるものです。
(前王朝である「北周」の史料には「倭国」が現れませんから、早くても「隋代」であるのは確かと推察できます。)
 従来からこの「隋代七部楽」の成立というものと「開皇二十年記事」に書かれた「国楽」というものの間に関係があるとは考えられていたものの、その場合この両者間に「年次」の「矛盾」が発生してしまう点についてはある意味「無視」され、この「開皇二十年記事」を「隋代」全体に亘る知識として理解して処理していたものです。
 しかし、この「開皇二十年記事」はその時点の「遣隋使」が「皇帝」からの下問に応えたものをまとめたものと思われ、少なくともその年次における「事実」が「主」たるものであるのは明らかであると思われます。そこには「国交開始」を示唆する記事があり、それに対し「隋代七部楽」の中に「倭」があることが問題となっていたわけです。上にみたように「七部楽」を含む「国楽」の成立は「高祖」の治世期間の初期のものと理解されるものですから、当然「倭国」から「国楽」が「隋」に奉納されたのも同様に「隋初」のこととならざるを得ないものであり、それはこの「開皇二十年記事」の「年次」には明確な「疑い」が生じざるを得ないことを表すものといえます。
 つまり、この記事についても「大業三年記事」と同様本来「国楽」を定める以前の「隋初」の時代の記事であったという可能性を考える必要があるということとなるでしょう。
 またそれは「大業三年記事」に「鼓角を鳴らして」の「歓迎」の儀式が書かれている事と関連していると思われます。つまり、この「鼓角を鳴らす」という「楽」は逆に「隋」から「倭国」へ取り込まれたものと考えられるわけです。
 そもそも「鼓吹」あるいは「鼓角を鳴らす」というものは「戦い」に関するものであり「日本」の戦国時代に「ホラ貝」を鳴らすことで自陣に対する指示などを伝達していたらしいことが知られていますが、その原型は「鼓吹」にあったと考えられ、『旧唐書』などにも「鼓吹」が「軍楽」であるという内容の記事が見られます。
『…景龍二年,皇后上言:「自妃主及五品以上母妻,并不因夫子封者,請自今遷葬之日,特給鼓吹,宮官亦準此。」侍御史唐紹上諫曰:「竊聞鼓吹之作,本為軍容,昔?帝?鹿有功,以為警衞。故?鼓曲有靈?吼、鵰鶚爭、石墜崖、壯士怒之類。自昔功臣備禮,適得用之。丈夫有四方之功,所以恩加寵錫。假如郊祀天地,誠是重儀,惟有宮懸,本無案架。故知軍樂所備,尚不洽於神祇;鉦鼓之音,豈得接於閨?。準式,公主王妃已下葬禮,惟有團扇、方扇、綵帷、錦障之色,加至鼓吹,?代未聞。…』(『舊唐書 志第八/音樂一』より)
『…(武徳)六年,薨。及將葬,詔加前後部羽葆鼓吹、大輅、麾幢、班劍四十人、虎賁甲卒。太常奏議,以禮,婦人無鼓吹。高祖曰:「鼓吹,軍樂也。往者公主於司竹舉兵以應義旗,親執金鼓,有克定之勳。周之文母,列於十亂,公主功參佐命,非常婦人之所匹也。何得無鼓吹。…」』(『舊唐書/列傳第八/柴紹 平陽公主 馬三寶』より)
 この二つの例ではいずれも周囲から「鼓吹」は「軍楽」であるから「婦人」の葬儀には使用できないとしており、また後の例では「高祖」はそれを承知している発言(高祖曰:「鼓吹,軍樂也。…」)をしています。このことから「裴世清」を迎えた「鼓吹」も「軍楽」としてのものであった、つまり「裴世清」を「軍」が出迎えたと考えられることとなるでしょう。
 そのような「楽制」の伝来があった時期は少なくとも「開皇二十年記事」の「俗」に関する記事として揚げられているものの中に「楽器」があり、そこには「…樂有五弦琴笛。…」とあるだけで「鼓」も「角(つのぶえ)」も書かれていない事から、この「鼓角」という「楽器」はこの「開皇二十年記事」以降に「倭国内」に流入したものと考えられること、またそれは「隋皇帝」からの「下賜」としてのものであったという可能性が高いことを示すものと思料されます。
 この「隋」で制定されたという「七部楽」は「煬帝」即位以降の「大業年中」に「九部楽」に改正されましたが、そこからは「倭国」の楽が(「新羅」や「百済」とともに)脱落しています。(「雑楽」そのものがなくなっている)
 これは明らかに「煬帝」に至る以前に「倭国」との間に「友好的」関係が破綻し、宮廷楽から除外されるに至る何らかの事象があったことによると考えられ、それは「天子」を標榜した「国書」が送られたこと、それに対し「使者」を派遣し「宣諭」し、「叱責」したという一連の流れが該当すると思われ、その意味からも「大業三年」という段階で「友好的内容」の国書が送られた可能性が低いことを想定させるものです。

(※)王小盾「中国楽部史における七部楽について」國學院大學北海道短期大学部紀要第二十七巻
コメント