内田樹氏の『サル化する世界』という書籍について、その概要について本人が語っているのをネットで見ることができますが(文春オンライン)、その内容にとても興味を引かれました。氏はそこで、「時間意識」の形成が行われ、「ある程度長い時間を俯瞰する視座」というものを人類が取得、形成可能となり、一神教が成立し始めるのが「春秋戦国時代」であり、「紀元前1000年から500年くらいのこと」とされていて、それが「人類史的な特異点(シンギュラリティ)」形成の時期とされています。その時代以降「刹那的」な生活様式が否定あるいは衰退し、ある程度ロングスパンで生活や人生を考える立場が肯定されるようになったと見られるわけです。
この論を見て「紀元前八世紀」の全地球的大規模気候変動が、人類の意識の変化に直結していることが改めて感じられることとなりました。
たとえば列島では上記の時点で「縄文」から「弥生」へと時代が変わるわけですが、それは単に「稲作」が始まったというより、「農業」への生活様式への変化であり、それまでの「狩猟」をメインとする生活から「稲作」をはじめとする「農業」へと生活が変革されたこととなります。
そのことは列島においても「時間感覚」が劇的に変化したことを示し、一年という時間経過についていっそうの精緻さ、正確さが必要となったことを示すものです。
実際には縄文も末期になると「栽培」という手法が用いられるようになっていましたが、それは生活の主な依存形態が狩猟ではなくなったという意味を持っていたわけではなく、あくまでも弥生という時代に入り「農業」が生活として確立することで生活全体が変革されていったものです。
農業は種をまく時期や肥料を施す時期などをかなり正確に決める必要があり、「暦」が必須です。たぶん「狩猟」においても季節変化に応じての野山から採集できる動植物類などは異なっていたものであり、それなりに一年という時間経過を認識していたと思われますが、農業を主体として生きるならばいつ何をやるかをしっかり決める必要があるでしょう。それが内田氏が言う「ある程度長い時間を俯瞰する視座」に通じるものではないかと考えられるものです。そして、それは「暦」が担うべきことと考えられるわけであり、そうであれば弥生時代に「暦」がなかったはずがないこととなります。
古代ローマでもバビロニアでもこの時期に「暦」が正確性を急激に増すものであり、「太陰暦」と「太陽暦」の融合が図られるようになります。たとえば現在二月が二十八日という日数になっているのは当初作られた際の太陽暦(一年の長さ)との「日数あわせ」のためであったことが知られていますが、これが決められたのが「紀元前八世紀」であり、ローマ第二代王「ヌマ・ポンピウス」の時であったとされています。彼は同時に「ロビガリア」という農業祭祀を始めたことでも知られ、これは豊穣を祈るとともに日照りの害などを避けるために始められたと考えられています。
このように「暦」が「農業」とそれに伴う「祭祀」とともに完成されたこと、その時点の「暦」が「農事暦」としての性格が前面に出てきたことは、その時点でローマにおいて農業の重要性が高まったことを示すとともに「暦」に対してより正確性が要求されることとなったことを示しますが、それはローマ以外の地域においてもほぼ同様であったのではないかと考えるべきでしょう。
すでに『魏志倭人伝』(に引用された『魏略』)に「春耕秋収を記して年紀とする」という文章があることについて検討し、それが「俗」つまり一般民衆の慣習として「貸稲」の利息対象期間を意味するものとして存在していたとみたわけですが、紀元前八世紀に農業が主たる生活の糧となって以来このようなシステムは不可欠であったと思われ、その時点で「暦」は「春から秋までの日数」を数えて暦としていたと見られます。
具体的には不明ではあるものの、基本「太陽暦」であったはずであり、現在も「二百十日」「二百二十日」「八十八夜」などの呼称があり、これは「立春」から数えたものですが、これによく似たものではなかったでしょうか。すなわちどこか「基点」を決め、そこからの「日数を数える」ということで各種のタイミングを見ていたと思われます。それが「ローマ」「ギリシア」「エジプト」「バビロニア」などの諸国と同様「シリウス」を見て決めたのかは定かではありませんが、可能性はなくはないと思われますが、中国では上にみる「春秋戦国時代」以降「一年」を意識するようになった結果「二十四節気」が考え出されており、これは一年を24のポイントに分けて考えるもので、上記の「立春」もその一つです。このことは少なくとも中国では「シリウス」が暦の起点とはなっていないらしいことが推測できます。中国と交流があり、弥生時代の始まりにもそれが関係しているとすれば列島においても当時から「立春」が起点であったのかもしれません。
この論を見て「紀元前八世紀」の全地球的大規模気候変動が、人類の意識の変化に直結していることが改めて感じられることとなりました。
たとえば列島では上記の時点で「縄文」から「弥生」へと時代が変わるわけですが、それは単に「稲作」が始まったというより、「農業」への生活様式への変化であり、それまでの「狩猟」をメインとする生活から「稲作」をはじめとする「農業」へと生活が変革されたこととなります。
そのことは列島においても「時間感覚」が劇的に変化したことを示し、一年という時間経過についていっそうの精緻さ、正確さが必要となったことを示すものです。
実際には縄文も末期になると「栽培」という手法が用いられるようになっていましたが、それは生活の主な依存形態が狩猟ではなくなったという意味を持っていたわけではなく、あくまでも弥生という時代に入り「農業」が生活として確立することで生活全体が変革されていったものです。
農業は種をまく時期や肥料を施す時期などをかなり正確に決める必要があり、「暦」が必須です。たぶん「狩猟」においても季節変化に応じての野山から採集できる動植物類などは異なっていたものであり、それなりに一年という時間経過を認識していたと思われますが、農業を主体として生きるならばいつ何をやるかをしっかり決める必要があるでしょう。それが内田氏が言う「ある程度長い時間を俯瞰する視座」に通じるものではないかと考えられるものです。そして、それは「暦」が担うべきことと考えられるわけであり、そうであれば弥生時代に「暦」がなかったはずがないこととなります。
古代ローマでもバビロニアでもこの時期に「暦」が正確性を急激に増すものであり、「太陰暦」と「太陽暦」の融合が図られるようになります。たとえば現在二月が二十八日という日数になっているのは当初作られた際の太陽暦(一年の長さ)との「日数あわせ」のためであったことが知られていますが、これが決められたのが「紀元前八世紀」であり、ローマ第二代王「ヌマ・ポンピウス」の時であったとされています。彼は同時に「ロビガリア」という農業祭祀を始めたことでも知られ、これは豊穣を祈るとともに日照りの害などを避けるために始められたと考えられています。
このように「暦」が「農業」とそれに伴う「祭祀」とともに完成されたこと、その時点の「暦」が「農事暦」としての性格が前面に出てきたことは、その時点でローマにおいて農業の重要性が高まったことを示すとともに「暦」に対してより正確性が要求されることとなったことを示しますが、それはローマ以外の地域においてもほぼ同様であったのではないかと考えるべきでしょう。
すでに『魏志倭人伝』(に引用された『魏略』)に「春耕秋収を記して年紀とする」という文章があることについて検討し、それが「俗」つまり一般民衆の慣習として「貸稲」の利息対象期間を意味するものとして存在していたとみたわけですが、紀元前八世紀に農業が主たる生活の糧となって以来このようなシステムは不可欠であったと思われ、その時点で「暦」は「春から秋までの日数」を数えて暦としていたと見られます。
具体的には不明ではあるものの、基本「太陽暦」であったはずであり、現在も「二百十日」「二百二十日」「八十八夜」などの呼称があり、これは「立春」から数えたものですが、これによく似たものではなかったでしょうか。すなわちどこか「基点」を決め、そこからの「日数を数える」ということで各種のタイミングを見ていたと思われます。それが「ローマ」「ギリシア」「エジプト」「バビロニア」などの諸国と同様「シリウス」を見て決めたのかは定かではありませんが、可能性はなくはないと思われますが、中国では上にみる「春秋戦国時代」以降「一年」を意識するようになった結果「二十四節気」が考え出されており、これは一年を24のポイントに分けて考えるもので、上記の「立春」もその一つです。このことは少なくとも中国では「シリウス」が暦の起点とはなっていないらしいことが推測できます。中国と交流があり、弥生時代の始まりにもそれが関係しているとすれば列島においても当時から「立春」が起点であったのかもしれません。