古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

内田樹氏の『サル化する世界』と紀元前八世紀

2020年03月11日 | 古代史
内田樹氏の『サル化する世界』という書籍について、その概要について本人が語っているのをネットで見ることができますが(文春オンライン)、その内容にとても興味を引かれました。氏はそこで、「時間意識」の形成が行われ、「ある程度長い時間を俯瞰する視座」というものを人類が取得、形成可能となり、一神教が成立し始めるのが「春秋戦国時代」であり、「紀元前1000年から500年くらいのこと」とされていて、それが「人類史的な特異点(シンギュラリティ)」形成の時期とされています。その時代以降「刹那的」な生活様式が否定あるいは衰退し、ある程度ロングスパンで生活や人生を考える立場が肯定されるようになったと見られるわけです。
この論を見て「紀元前八世紀」の全地球的大規模気候変動が、人類の意識の変化に直結していることが改めて感じられることとなりました。
たとえば列島では上記の時点で「縄文」から「弥生」へと時代が変わるわけですが、それは単に「稲作」が始まったというより、「農業」への生活様式への変化であり、それまでの「狩猟」をメインとする生活から「稲作」をはじめとする「農業」へと生活が変革されたこととなります。
そのことは列島においても「時間感覚」が劇的に変化したことを示し、一年という時間経過についていっそうの精緻さ、正確さが必要となったことを示すものです。
 実際には縄文も末期になると「栽培」という手法が用いられるようになっていましたが、それは生活の主な依存形態が狩猟ではなくなったという意味を持っていたわけではなく、あくまでも弥生という時代に入り「農業」が生活として確立することで生活全体が変革されていったものです。
 農業は種をまく時期や肥料を施す時期などをかなり正確に決める必要があり、「暦」が必須です。たぶん「狩猟」においても季節変化に応じての野山から採集できる動植物類などは異なっていたものであり、それなりに一年という時間経過を認識していたと思われますが、農業を主体として生きるならばいつ何をやるかをしっかり決める必要があるでしょう。それが内田氏が言う「ある程度長い時間を俯瞰する視座」に通じるものではないかと考えられるものです。そして、それは「暦」が担うべきことと考えられるわけであり、そうであれば弥生時代に「暦」がなかったはずがないこととなります。
 古代ローマでもバビロニアでもこの時期に「暦」が正確性を急激に増すものであり、「太陰暦」と「太陽暦」の融合が図られるようになります。たとえば現在二月が二十八日という日数になっているのは当初作られた際の太陽暦(一年の長さ)との「日数あわせ」のためであったことが知られていますが、これが決められたのが「紀元前八世紀」であり、ローマ第二代王「ヌマ・ポンピウス」の時であったとされています。彼は同時に「ロビガリア」という農業祭祀を始めたことでも知られ、これは豊穣を祈るとともに日照りの害などを避けるために始められたと考えられています。
このように「暦」が「農業」とそれに伴う「祭祀」とともに完成されたこと、その時点の「暦」が「農事暦」としての性格が前面に出てきたことは、その時点でローマにおいて農業の重要性が高まったことを示すとともに「暦」に対してより正確性が要求されることとなったことを示しますが、それはローマ以外の地域においてもほぼ同様であったのではないかと考えるべきでしょう。
 すでに『魏志倭人伝』(に引用された『魏略』)に「春耕秋収を記して年紀とする」という文章があることについて検討し、それが「俗」つまり一般民衆の慣習として「貸稲」の利息対象期間を意味するものとして存在していたとみたわけですが、紀元前八世紀に農業が主たる生活の糧となって以来このようなシステムは不可欠であったと思われ、その時点で「暦」は「春から秋までの日数」を数えて暦としていたと見られます。
 具体的には不明ではあるものの、基本「太陽暦」であったはずであり、現在も「二百十日」「二百二十日」「八十八夜」などの呼称があり、これは「立春」から数えたものですが、これによく似たものではなかったでしょうか。すなわちどこか「基点」を決め、そこからの「日数を数える」ということで各種のタイミングを見ていたと思われます。それが「ローマ」「ギリシア」「エジプト」「バビロニア」などの諸国と同様「シリウス」を見て決めたのかは定かではありませんが、可能性はなくはないと思われますが、中国では上にみる「春秋戦国時代」以降「一年」を意識するようになった結果「二十四節気」が考え出されており、これは一年を24のポイントに分けて考えるもので、上記の「立春」もその一つです。このことは少なくとも中国では「シリウス」が暦の起点とはなっていないらしいことが推測できます。中国と交流があり、弥生時代の始まりにもそれが関係しているとすれば列島においても当時から「立春」が起点であったのかもしれません。
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「聖武」の「詔報」と「庚午年籍」

2020年03月11日 | 古代史
 「聖武」への治部省からの奏上に「官籍」という語が出てきます。この「官籍」は王権側で作成保有している「戸籍」を指すと思われますが、これに対する「聖武」の詔報の中では「白鳳以来」「朱雀以前」という表現がされています。このこととの関連で考えるとここでいう「官籍」は六七〇年成立とされる「庚午年籍」そのものであるという可能性が高いと思料します。「白鳳」が天智即位との関連のものと見れば「六六二年」であり、また「朱雀」は「六八四年」と考えられていますから、この両方に関わる戸籍といえば「庚午年籍」ではないでしょうか。これであれば「白鳳以来」も「朱雀以前」もともに該当します。
 「庚午年籍」は「律令」で「永久保存」とされ、「氏姓の根本」とされていますから、ここに「ない」とするといくら「綱帳」にあっても判断できないということではなかったでしょうか。さらにいえばここに出てくる「僧尼」たちは「京及び諸国」とは書かれていますが実態としてはその多くが「九州地方」の者たちではなかったかと思われます。なぜならこの「詔報」時点ではまだ「筑紫諸国」の「庚午年籍」が入手できていなかったものであり、この時点(七二四年)では「官籍」にないのも当然と言えるからです。
 『続日本紀』によれば「筑紫諸国の庚午年籍」を入手したのはこの三年後であり、このように入手を急いだ理由もこの「僧尼」の公験に関係しているという可能性もあるでしょう。これがないかぎり「僧尼」が申し立てれば「公験」を発給せざるを得なくなるわけであり、そのため欠けている「庚午年籍」を急ぎ入手する必要があったと思われるものです。これが「大宰府」にあるものなら何も時間をかける必要はなかったでしょうから「三年」という時間は「探索」にかかった時間と思われます。
 「筑紫諸国」の「庚午年籍」はその他の「庚午年籍」が各国府にあるのと同様「大宰府」にあったはずですが、それが何らかの理由により亡失していたということと思われ、それは「隋」において「秘府」(皇帝直属のアーカイブ)から「隋末」の混乱の際に相当量の史料が流失したのと同様の混乱を推定させます。
 そのような混乱としては「新日本王権」への統治権委譲とそれに伴う「首都」の移動の際に発生したと見るのが相当でしょう。この事態の推移に納得がいかない勢力により「大宰府」から外部へ持ち出さされたものと思われ、そうであれば「首都」から遠ざかる方向、地域へと持ち出されたものと思われ、考えられるのは「薩摩」ではなかったでしょうか。その探索に「三年」を要したということと思われます。
 そもそも「僧尼」に対する「公験」の授与が七二〇年の正月から始められており、これ以前には行われていなかったことが明白ですが、同じ年の二月に「隼人」の「反乱」が始まっており、この両者に関係があることが察せられます。

四年(七二〇年)春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。
二月…壬子。大宰府奏言。隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。
三月丙辰。以中納言正四位下大伴宿祢旅人。爲征隼人持節大將軍。授刀助從五位下笠朝臣御室。民部少輔從五位下巨勢朝臣眞人爲副將軍。

 新日本王権が「公験」授与の権利を得、その権利行使に必要な「官籍」つまり「筑紫諸国」の「庚午年籍」を手に入れようとしたことが反乱の発端かもしれません。
 「新日本王権」はこの「庚午年籍」が大宰府にないことは当然すでに把握していたはずであり、すでに「探索」していたものと思われ、それを「(大隅及び薩摩)隼人」が保持しているのを承知していたのかもしれません。それを「大隅国守」が入手しようとして彼等の抵抗にあったということではなかったでしょうか。
 この反乱は「七二三年」には収束し、その時点で新日本王権の統治下に入った僧尼がかなりいたものと思われますが、彼等の戸籍の入手はこの段階ではまだできていなかったものであり、それについての処置に困っていたところ、翌年に禅譲を控えていたため新天皇即位の後奏上し「詔報」を得ることとしていたものではなかったでしょうか。
 このような経緯の後「筑紫諸国」の「庚午年籍」の探索が続けられ七二七年になって「やっと」入手できたということと思われ、この時点以降「公験」授与が「九州地方」の僧尼に対しても「官籍」と「綱帳」の双方を勘案して行うことが可能となったものと思われるのです。

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