以前「新日本王権」は禅譲された王権である「持統朝」について「否定的」な立場にいると見ました。一つには「平城京」への遷都が「難波京」からとする史料があり、「藤原京」が無視されていること、その「藤原京」は「平城京」を作る際に解体され跡形もなくなってしまったことや、「文武」の即位日について『書紀』と『続日本紀』で使用する暦の違いから「干支」が異なっているにもかかわらず、それを隠そうともしていないことなどがあり、それらは「新日本王権」の「持統王権」に対する立場の表明と思われ、「新日本王権」は「持統」の王権から「禅譲」はされたものの「継承」はしていないことを意味すると推察したものであり「持統王権」を「新日本王権」にはつながらない「他の王権」とする立場ではなかったかと推察したものです。(『書紀』が『持統紀』までなのも同様の理由からと思われます)。
その考えを補強すると思われるのが以下に見える「延喜式」の記述です。
「延喜式」は「養老律令」の施行に関する細則といわれますが、日の出日の入り時刻の解析などからも判明しているように(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/91d19f8dd29e78a309f1619c3e524bf0 )「延喜式」成立当時の細則というより古くから続く「儀礼」や「宮廷慣習」のようなものの集大成という意味もあるとされます。その中に以下のような「養老律令」以前の「律」に関する情報が含まれています。
「巻二十九 刑部省二十七 凡父母縁貧窮売兒為賤、其事在己丑年以前、任依元契、若売在庚寅年以後及因負債被強充賤并余親相売者皆改為良、不須論罪、其大宝二年制律以後依法科断…」
この意味は「己丑年以前」に行われた「父母」による「子」を売って「賤」の身分にする行為についてはその善悪も含め問わないが、その翌年の「庚寅年」以降の同様の行為については「罪」には問わないものの「賤」とされた「子」は「良」へ戻すとされ、さらに「大宝二年以降」については「新律」により全面的に禁止とするというものです。
この「刑部省」の取り扱いは「養老律令」についてというよりは明らかに「大宝律令」についての施行細則とでもいうべきものであるのは明白ですが、それに対して注意されるのが「持統五年」に出された以下の「詔」です。
「(六九一年)五年…三月壬申朔…癸巳。詔曰。若有百姓弟爲兄見賣者。從良。若子爲父母見賣者。從賎。若准貸倍沒賎者從良。其子雖配。所生亦皆從良。」
この「詔」では兄が弟を売るのは「良」とするが父母が子を売るのは「賤」とするとしています。これは明らかに上の「細則」とは異なるものであり、「細則」がこの「詔」をいわば「否定」しているのが注目されます。
この「細則」では「己丑」以前については問題にしていないわけですが、本来「新法」ができた場合それ以前の行為については問わないのが普通です。その時点で有効であった法に随っているのですから当然といえば当然ですから、その意味では「己丑年以前」について「元の契約のままでよい」としているのは不審はありませんが、「庚寅年以降」については「措置」を「無効」としているのは不審といえるでしょう。
ここでは旧法を遡って否定しているわけですが、このような事態は新法の成立者が「革命」によって権力を握った場合に見られる現象と言えます。
「革命」は旧権力者を否定することで成立しているわけですから当然旧法により裁かれた人々に対しても救済が行われます。
「大宝律令」を制定した王権は「庚寅」年の「詔」による規定を「前王朝のなしたこと」として、それを継受することを避けたものであり、「遡及」して「無効」としたのです。
ところでこのような「細則」が「大宝律」制定以降時間が経ってから施行されたとは考えられません。当然「大宝律」施行にほど近い時期が想定されるでしょう。さらに「持統」の「詔」を否定しているということから当の「持統」存命中にそのような「細則」が決められ「施行」することが可能だっただろうかと考えると、時期として「持統」の死去した後のことではなかったかと考えられることとなります。
「持統」はその「大宝律」が頒布された直後の「大宝二年十二月」に死去しており、それ以降の早い段階で「細則」が定められたものと推量されますが、最も考えられるのは「元明」即位の「和銅元年」以降ではなかったでしょうか。
「文武」在位時点ではまだ「藤原京」について造作が停止されていませんからその意味では「持統」の意志がまだ有効であったと思われますが、「文武」が死去した後すぐに「平城京」への遷都が計画されたようですから、この時点で「持統王権」に対する「否定」が始まったものと思われ、「刑部省」の細則もこれ以降施行されるようになったと推測できるでしょう。
その考えを補強すると思われるのが以下に見える「延喜式」の記述です。
「延喜式」は「養老律令」の施行に関する細則といわれますが、日の出日の入り時刻の解析などからも判明しているように(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/91d19f8dd29e78a309f1619c3e524bf0 )「延喜式」成立当時の細則というより古くから続く「儀礼」や「宮廷慣習」のようなものの集大成という意味もあるとされます。その中に以下のような「養老律令」以前の「律」に関する情報が含まれています。
「巻二十九 刑部省二十七 凡父母縁貧窮売兒為賤、其事在己丑年以前、任依元契、若売在庚寅年以後及因負債被強充賤并余親相売者皆改為良、不須論罪、其大宝二年制律以後依法科断…」
この意味は「己丑年以前」に行われた「父母」による「子」を売って「賤」の身分にする行為についてはその善悪も含め問わないが、その翌年の「庚寅年」以降の同様の行為については「罪」には問わないものの「賤」とされた「子」は「良」へ戻すとされ、さらに「大宝二年以降」については「新律」により全面的に禁止とするというものです。
この「刑部省」の取り扱いは「養老律令」についてというよりは明らかに「大宝律令」についての施行細則とでもいうべきものであるのは明白ですが、それに対して注意されるのが「持統五年」に出された以下の「詔」です。
「(六九一年)五年…三月壬申朔…癸巳。詔曰。若有百姓弟爲兄見賣者。從良。若子爲父母見賣者。從賎。若准貸倍沒賎者從良。其子雖配。所生亦皆從良。」
この「詔」では兄が弟を売るのは「良」とするが父母が子を売るのは「賤」とするとしています。これは明らかに上の「細則」とは異なるものであり、「細則」がこの「詔」をいわば「否定」しているのが注目されます。
この「細則」では「己丑」以前については問題にしていないわけですが、本来「新法」ができた場合それ以前の行為については問わないのが普通です。その時点で有効であった法に随っているのですから当然といえば当然ですから、その意味では「己丑年以前」について「元の契約のままでよい」としているのは不審はありませんが、「庚寅年以降」については「措置」を「無効」としているのは不審といえるでしょう。
ここでは旧法を遡って否定しているわけですが、このような事態は新法の成立者が「革命」によって権力を握った場合に見られる現象と言えます。
「革命」は旧権力者を否定することで成立しているわけですから当然旧法により裁かれた人々に対しても救済が行われます。
「大宝律令」を制定した王権は「庚寅」年の「詔」による規定を「前王朝のなしたこと」として、それを継受することを避けたものであり、「遡及」して「無効」としたのです。
ところでこのような「細則」が「大宝律」制定以降時間が経ってから施行されたとは考えられません。当然「大宝律」施行にほど近い時期が想定されるでしょう。さらに「持統」の「詔」を否定しているということから当の「持統」存命中にそのような「細則」が決められ「施行」することが可能だっただろうかと考えると、時期として「持統」の死去した後のことではなかったかと考えられることとなります。
「持統」はその「大宝律」が頒布された直後の「大宝二年十二月」に死去しており、それ以降の早い段階で「細則」が定められたものと推量されますが、最も考えられるのは「元明」即位の「和銅元年」以降ではなかったでしょうか。
「文武」在位時点ではまだ「藤原京」について造作が停止されていませんからその意味では「持統」の意志がまだ有効であったと思われますが、「文武」が死去した後すぐに「平城京」への遷都が計画されたようですから、この時点で「持統王権」に対する「否定」が始まったものと思われ、「刑部省」の細則もこれ以降施行されるようになったと推測できるでしょう。