古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「根子」について

2020年05月03日 | 古代史
 『書紀』を見ると、天皇の称号として「根子」というものが現れます。この「根子」という称号についての理解として最も適当なのは「支配者」「統治者」ではないでしょうか。その意味で「最高権力者」だけが名乗れるというものではなかったと思われます。
 実際『書紀』によれば「山背根子」「難波根子」と称される人物が出てきます。かれらはあくまでも「山背」「難波」という小領域の権力者であり、また統治者であったと思われ、その意味から類推すると「倭根子」とは「倭」の地域の権力者であることとなるでしょう。
 「倭」については元々ある特定地域「小領域」を指す用語であったと思われますが、「権力」が強くなるに随い、その範囲も広くなっていったものと思われ、最終的には「列島」の広い範囲を指す用語として使用されていたと思われます。
 『書紀』では以下のように「日本」は「やまと」と読むようにという指定がありますが(神武紀)、(これは「新日本王権」のイデオロギーによるものと思われるわけですが)、「倭」についてはそのような指示が文中にありません。
 (ちなみに「日本」が示す領域は『書紀』の早い段階では「近畿」の一部の小領域を示す意義しかなかったと思われます。それは『旧唐書』において「遣唐使」が「日本旧小国」と表現したことでも明らかです。)

「…於是陰陽始遘合爲夫婦。及至産時。先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本日本。此云耶麻騰。下皆效此。…」

 ここで「神武紀」の始めの部分で「日本」は「やまと」と読むとされ、以下出てくる「日本」は全て「やまと」と読むようにというわけです。それに対し「倭」の場合は読みが指定されていません。たとえば以下のような例があります。

「…亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留宅於日之少宮矣。少宮。此云倭柯美野。…」

 ここでは「倭」は「わ」という音を表す意義で使用されています。

「…倭文神。此云斯圖梨俄未。…」

 ここでは「音」というより「名称」の読みとして現れます。

「…時弟猾又奏曰。倭國磯城邑有磯城八十梟帥。…」

 ここでは読みが指定されていませんが、上の例からみて、基本としては「わ」の音を表す例から考えて「倭」は「わ」としか読まないと思われ「わこく」と発音すると思われるものです。
 その「倭」は歴代の中国王朝から「列島」を意味する「地域名」として認知されていたわけであり、『書紀』でも同様の意義で使用されていたと見るのが相当でしょう。
 その意味で「倭根子」とは「倭王」の意義以外考えられず、その「倭根子」の使用例が『書紀』に現れる最初の人物が「成務」であるというのは示唆的です。

 「成務」は「稚倭根子」という「称号」を持っていますが、以下のように「国郡」「県邑」に「責任者」をおいたとされ、また山河で区切って「国県」を定めたというようなすでにある領域を分割したり境界線を変更するなどの施策を実行していますが、このような事業は「強い権力」の発露というべきであり、「倭」つまり「列島」を代表する権力者として機能していたことを示すものです。その意味で「倭根子」の称号は実態を表しているというべきでしょう。しかし、にも関わらず「成務」は「三男あるいは四男」とされており、彼のような立場の人物が「王権」を代表することになるとは通常考えにくく(上の者たちが全て死去するなどの事態が発生しない限り)、そうであればこれは同時代「正当な倭王権」の座にあった人物の事績を「剽窃」した可能性が高く、自らの功績として記述したと思われるのです。(『書紀』によると「景行」の長男に「稚足彦」がいるとされ、「成務紀」では「稚足彦」としての事績が書かれているようですが、「四男」と表記されており、これであれば「稚倭根子」であり、何か混乱があるようですが、施策の内容から考えて「倭根子」つまり「倭国王」であったなら首肯できるものです。(ただし「稚」が前置されており、「稚」が当時「幼い」意義があったとすれば「少年王」という名称となりますから「四男」でも不自然ではないかもしれませんが、「少年」がそのような強い権力を持っていたとも思えませんから、後ろ盾となった人物の権威が高かったことを意味するのかもしれません。)

「五年秋九月、令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置、並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面。是以、百姓安居、天下無事焉。…」(成務紀)

 これ以降の「倭根子」は「孝徳」まで飛ぶこととなります。このことからこの間の「近畿王権」は「倭」の代表権力者として存在していたわけではなかったことが帰結されます。
 ところで「孝徳」は「日本倭根子」という特殊な称号を持っており(『書紀』『続日本紀』中彼が唯一の例)、これは従来の「倭根子」に「日本」が付加された形となっていますが、これは「倭」の領域としてそれまで組み込まれていなかった「東国」を始めて統治下に入れたことを示すものと思われ、より広域を統治する「王」としての「称号」と思われます。
 この推測は「改新の詔」で「始めて万国を修(治)める」という言い方をしていることにつながります。

「(六四五年)大化元年…
八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。…」

 これ以前は支配が(特に東国に)広く及んでいなかったことを推測させますが、この時点以降統治下に入ったとするわけであり、それを意味するのが「日本倭根子」という表記と見られまいす。そのことを貫徹するために「東国」に「国司」を派遣するというわけです。

 その後「根子」称号は『書紀』では見られなくなります。その代わり『続日本紀』で「天智」「持統」「文武」が「倭根子」という称号を奉られていますが、これは「追号」ではないかと思われます。実際にはそのような立場にはいなかった人物が、彼または彼女の後裔の人物によりあたかもその立場にいたかのような扱いを受けることがあり、「天智」「持統」「文武」の場合も同様ではなかったかと思われます。
 また「文武」が「倭根子」とされていることと、「元明」即位以降「持統朝」を「前王権」として否定している姿勢とは共通していると思われます。つまり「文武」も「持統朝」の延長と見ていた節が認められます。
 既に指摘したように『延喜式』の中に「持統朝」の「庚寅年」に出された「詔」を否定する施策が書かれており、これは「持統朝」の施策について基本「否定」する立場の表れと見たわけですが、実際には「持統」の死去以降ではなく「文武」の死去以降行われたものと推測したわけです。このことと「元明」以降が「日本根子」を自称することは直接つながっていると考えられるものです。
 「持統」の場合「大上皇」と「追号」されており、その意味で「倭根子」も同様のものではなかったかと思われるわけです。このあたりは「新日本王権」が「持統」より「禅譲」を承けた形となっていることへの配慮ともいうべきですが、「宣詔」する場合には「日本根子」という称号が一切出てこないことにも留意すべきであり、「倭根子」称号はそのような事情によるものとも言えそうです。
 『続日本紀』を見ると「元明」以降の天皇が「宣詔」する際には「倭根子」称号がかならず使用されており、これはあくまでも「大義名分」として「新日本王権」が歴代の「倭王権」につながる存在であることを宣言することが重要であったものと思われるわけです。
 ちなみに「天武」は「日本根子」と表記されており、このことは「倭根子」に当たる人物が別にいたことを示唆します。「孝徳」同様「日本」が「東国」を意味するとしたとき「日本根子」とは「東国」に中心勢力を持つ王権の意義となり、それは「壬申の乱」で「東国」からの応援で戦いに勝利したことと重なるものです。(「倭根子」が誰であったのかについては別に検討することとします。)
コメント (1)