古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「持衰」と「瀚海」について

2020年05月24日 | 古代史
 『魏志倭人伝』には「持衰」という特徴ある風習について書かれています。
 
「魏志東夷伝 倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」

 ここでは「恆使一人…爲持衰」とされていますから、その「一人」とは「船」に乗り組んでいる人員のうちの「一人」と解釈すべきであり、使者のうちの一人であることは確実です。
 この「持衰」についての理解の中には、彼は航海の間陸上(出発地)にいるもので、乗船していなかったとするものもあるようですが、それでは「疾病や「暴害」などに遭遇したかは帰国しなければ判らないわけですから、「持衰」に対する対応としては後手に回るでしょう。当然彼は同乗していると考えざるを得ないものです。これに関しては古田氏が示した『海賦』の一節が傍証となります。

「『若其負穢臨深』,虚誓愆祈。則有海童邀路,馬銜當蹊。…。」(木華作『海賦』より)

 この冒頭に出てくる「若其負穢臨深」という部分が古田氏により「持衰」のこととされているわけであり、それは卓見と思われますが、ここでは「穢」を「負う」もの(これがすなわち「持衰」)が「深き」に「臨む」とされており、この「深き」とは「海」を表象するものと思われますから、「持衰」が船に乗っていることを示す文章であると思われ、「陳寿」や時代を同じくする「木華」などの常識として「持衰」は船に乗っていると考えられていたことを示します。
 「持衰」は航海の前に「誓い」を立て、それを破らず「祈り」続けることで航海の安全が保てると考えられていたようであり、それが満たされなければ遭難すると考えられていたもののようです。 
 ところでこの「海賦」で示された「海」とは「瀚海」を指すものではなかったでしょうか。
 後の史料にはこの「海賦」をベースにした表現が多く見られますが、そこには「瀚海」という名称が使用されています。

「(隆安)十九年,立國子學,以本官領國子博士。皇太子講孝經,承天與中庶子顏延之同為執經。頃之,遷御史中丞。時索虜侵邊,太祖訪羣臣威戎御遠之略,承天上表曰:
伏見北藩上事,虜犯青、兗,天慈降鑑,矜此黎元,博逮羣策,經綸戎政,臣以愚陋,預聞訪及。竊尋獫狁告難,爰自上古,有周之盛,南仲出車,漢氏方隆,衛、霍宣力。『雖飲馬瀚海』 ,揚旍祁連,事難役繁,天下騷動,委輸負海,貲及舟車。…
其論曰:…然和親事重,當盡廟算,誠非愚短,所能究言。若追蹤『衛、霍瀚海之志』,時事不等,致功亦殊。寇雖習戰來久,又全據燕、趙,跨帶秦、魏,山河之險,終古如一。…」(宋書/列傳第二十四/何承天)

 これを見ると「飲馬瀚海」という表現があり、この「馬」とは『海賦』にいう「馬銜」つまり海に住むという怪物を意味するものと思われますから、『海賦』のいう「海」が「瀚海」を指しているのは明確と思われます。
 また別の史料には「臨瀚海而斬長鯨」という表現も見られます。

「…虞世基字茂世,會稽餘姚人也。…、見王師之有征。登燕山而戮封豕,『臨瀚海而斬長鯨』。望雲亭而載蹕,禮升中而告成。實皇王之神武,信蕩蕩而難名者也。陳主嘉之,賜馬一匹。…」(隋書/列傳第三十二/虞世基)

 これによれば「瀚海」には「長鯨」がいるというわけですが、これも「海童」や「馬銜」と同類であり、いずれも『海賦』やその『海賦』のベースとなっている伝説や神話的な海に関する怪異の情報にその根拠があると思われますが、その「怪異」が現れる「海」というのが「瀚海」であったわけです。
 また後の「百済を救う役」の際に「斉明」の「詔」に以下のような文言が確認できます。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙『翦其鯨鯢。』紓彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

 ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などを意味するものですが、この「鯨鯢」という単語は「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもでてくるもので、「海」や「大河」に住む「大魚」の一種というように考えられていたものです。

「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,『鯨鯢』唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」

 このように「海」に棲んでいるという怪異についての情報は古典的なもののようですが、「斉明」がこの戦いにおいてこの語を使用しているのは、そこが「瀚海」だからとも言えるものであり、「新羅」に対して侮蔑的な使用法となっているわけです。

 すでに考察したように「瀚海」とは(「古田氏」が言うような流れの早い海流」を指す用語ではなく)、「広い海」を指す言葉であり、それは「九州本土」から見て「向こう側」の海を指すものであったと思われます。実際にその対象となる海は『倭人伝』の記述からは「対馬」と「壱岐」の間を流れる「対馬海峡東水道」を意味するものであったと思われますが、ここも含め「対馬海峡」を流れる「対馬海流」は流速が早く、外洋の中でも古代の船にとっては「難所」ではなかったかと思われます。このような「難所」を乗り越えるには本来正しい航行技術と航行に耐える構造の船が必要ですが、当時それらは(特に「倭人」には)求めて得られず、必然的に「神」に祈ることが必要であったと思われます。
 「魏」あるいはそれ以前の「後漢」や「半島」との往来に当たってはこの「瀚海」を渡る必要がありましたから、そのような外洋航海の際には「持衰」が乗船することが必須であったものです。
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