以前拙論「「天朝」と「本朝」 - 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析」(「古田史学会報一一九号及び一二〇号」)で指摘しましたが「持統」はその「大伴部博麻」へ「詔」の中で「大伴部博麻」の行動について「本朝」に「還向」くために「身を売る」提案後それが実行され、「富杼等」が「天朝」に「通じた」と表現しており、そのことからの帰結として「筑紫國上陽郡」の軍丁である「大伴部博麻」の所属する「本朝」とは「筑紫君」である「薩夜麻」の「朝廷」であること、「持統」が言う「天朝」と「博麻」の言う「本朝」は一致するはずなので、「本朝」と同様「薩夜麻」の「朝廷」を指す言葉として使用されていると考えられ、その朝廷を「持統」が「天朝」と表現していることになることから、「持統」の朝廷は「薩夜麻」の「朝廷」を「天朝」と仰ぐ「諸国」のひとつであったと推定しました。
(以下「持統」の大伴部博麻への詔」)
乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。
この「持統」の「詔」には「王権」の地位についての変遷が隠されていると思われ、「薩夜麻」の「筑紫」の朝廷が「本朝」であった時期以降どこかで、「諸国」である「持統」の王権にその座を譲り渡したことが窺えます。
「筑紫君」とされる「薩夜麻」は「唐・新羅」連合軍による捕囚の身から解放され帰国していますから、その時点以降「筑紫」の朝廷は復活あるいは(以前から)存続していたと思われますから、「持統」が「諸国」に本拠を持つ王権であるとすると、「持統」即位の実態が列島代表権力の座の移動を示すこととなります。そうならざるを得なかった条件としては「薩夜麻」に子供がいなかったということであろうと思われ、「直系」の後継者が不在であったために「傍系」に後継が移ったものと考えられますが、「持統」は「直轄領域」ではなく「諸国」の出身であったと推定します。
『書紀』では「天武」の言葉として「自分には成人男子がいない」とされています。(「壬申の乱」の際の言葉)この発言は実態を表していたものと思われ、「後継者」の資格を満たす人物がいなかったことが明らかです。このとき「高市皇子」が「自分がいる」という発言をしていて、この時点以降「高市皇子」つまり同じ「筑紫」に拠点を持つ勢力の「宗像」氏族の地位が高くなったことが窺えます。逆にこのことから「薩夜麻」の主たる母体勢力は「宗像」ではないことが窺え、推測によれば「阿曇」ではなかったかと考えられます。それは「天武」の氏の葬儀に「誄」を奏している「大海宿禰」が「阿曇」氏族であり、彼が「壬生」として「誄」を奏していますが、この役は非常に本人に近い氏族が行うものとされていますから、「天武」と「阿曇」が近いことが窺えるものであり、そのことは「天武」という「影武者」の背後に隠されている「薩夜麻」の本貫が「阿曇」であることを示していると思われます。つまり「筑紫朝廷」とは「阿曇」の朝廷を意味するものであり、その意味で「阿曇比羅夫」という存在が浮かび上がります。彼は「百済を救う役」で「大将軍」として出陣しており、水軍を率いての経験と実力を発揮することが期待されたものと見られますが、また彼が「薩夜麻」の親族であったと考えれば首肯できるものと言えます。
「阿曇」がその後繁栄しなかったのは『続日本紀』でも『公卿補任』でも高位に昇った「阿曇」氏が皆無であることからも窺えます。この現象は「持統」の王権に禅譲せざるを得なかったことの延長と思われるのです。
「持統」に王権が移った段階で「遷都」が行われると同時に「国名」変更と「改元」が行われたものと思われます。中国の歴代王朝においても「王朝名」変更は基本的には「遷都」と改元(建元)は必ず伴うものであり、古代の日本においても同様であったと思われ、それは倭国年号における「大化」改元がその時点であろうと思われますが、それに先立ち「庚寅年」に権力の座の移動と改革の趣旨が宣言されたものと思われます。この時点で「改新の詔」が出されたとして不自然ではありません。
また「遷都」するには「京城」が完成していなければならず、その工程に幾分かの時間が必要ですから、「改新の詔」発布後5年ほど経過した時点で「京城」の中心である「京域」の整備が行われ、この時点で掘立柱の「仮」の「大極殿」が作られ「持統」はそこに入ったものと思われますが(これが「藤原京」の端緒)、同時に「大化」改元が行われたものであり、ここで「日本国」という国名変更が行われたものと推量します。
日本の律令の手本とされる「唐」の律令の中の祭祀に関する規定である「祇令」には「皇帝」が代わる際の儀式に関係するものがありません。この理由として挙げられているのは「同一王朝内における帝位継承の場合の即位儀礼には「皇帝となるための脱俗の秘儀とかが認められない」からであるとされています。(※)これは「漢代」以降の伝統とされているようです。しかし「養老律令」及びそれに先行する「大宝律令」には「大嘗祭」という「即位儀礼」に準じた祭祀における規定があります。これは「天皇」が代わった後に最初に行われる「新嘗祭」を特に「大嘗祭」として特別視するものですが、それに付随して「秘儀」が行われるものです。このようなものを特に「付加」して「日本」律令を構成しているわけです。
『書紀』を見ると明確に「大嘗祭」を主宰していると認められるのは「持統」です。それ以前の「天武」の際にも「大嘗祭」に参加した人への「褒美」が与えられた記事がありますが、開催したという記事がありません。
これ以前には「新嘗祭」記事はありますが「大嘗祭」記事は皆無です。このように「同一王朝内」であれば必要のない儀式を定めているのは、「大嘗祭」というものの本質を露呈していると見られ、(少なくとも)「持統」への権力移動が「同一王朝内の出来事ではなかった」ことを示していると考えられるものであり、また先行する王権である「天武」の王権も(明確には書けなかったものの)、それ以前の王権とは一線を画するものであったことを意味すると思われるのです。
ところで「新日本王権」は「持統朝廷」の否定をその政策に掲げていたようですから、「別の王権」であり、そのことは彼等の素性として「本朝」つまり「筑紫朝廷」の直接の後裔かあるいは別の「諸国」の王権かということになるでしょう。
しかし「新日本王権」は「天智」をその「先帝」として戴いており、彼は「近江朝廷」を開いていて、私見では彼もまた「革命王朝」と考えていますから、「本朝」(つまり「筑紫朝廷」)の正当な後継王朝ではなかったこととなり、そのことから「新日本王権」は「持統」とは別の「諸国」の王権であったものと推量します。
「持統」は「諸国」とはいいながら「本朝」(「筑紫朝廷」)からその権力の座を譲り渡されたという経緯からも「本朝」の主要な支持勢力の一つであり、その意味で「天智」の勢力とは一線を画すものであったと思われます。
(以下「持統」の大伴部博麻への詔」)
乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。
この「持統」の「詔」には「王権」の地位についての変遷が隠されていると思われ、「薩夜麻」の「筑紫」の朝廷が「本朝」であった時期以降どこかで、「諸国」である「持統」の王権にその座を譲り渡したことが窺えます。
「筑紫君」とされる「薩夜麻」は「唐・新羅」連合軍による捕囚の身から解放され帰国していますから、その時点以降「筑紫」の朝廷は復活あるいは(以前から)存続していたと思われますから、「持統」が「諸国」に本拠を持つ王権であるとすると、「持統」即位の実態が列島代表権力の座の移動を示すこととなります。そうならざるを得なかった条件としては「薩夜麻」に子供がいなかったということであろうと思われ、「直系」の後継者が不在であったために「傍系」に後継が移ったものと考えられますが、「持統」は「直轄領域」ではなく「諸国」の出身であったと推定します。
『書紀』では「天武」の言葉として「自分には成人男子がいない」とされています。(「壬申の乱」の際の言葉)この発言は実態を表していたものと思われ、「後継者」の資格を満たす人物がいなかったことが明らかです。このとき「高市皇子」が「自分がいる」という発言をしていて、この時点以降「高市皇子」つまり同じ「筑紫」に拠点を持つ勢力の「宗像」氏族の地位が高くなったことが窺えます。逆にこのことから「薩夜麻」の主たる母体勢力は「宗像」ではないことが窺え、推測によれば「阿曇」ではなかったかと考えられます。それは「天武」の氏の葬儀に「誄」を奏している「大海宿禰」が「阿曇」氏族であり、彼が「壬生」として「誄」を奏していますが、この役は非常に本人に近い氏族が行うものとされていますから、「天武」と「阿曇」が近いことが窺えるものであり、そのことは「天武」という「影武者」の背後に隠されている「薩夜麻」の本貫が「阿曇」であることを示していると思われます。つまり「筑紫朝廷」とは「阿曇」の朝廷を意味するものであり、その意味で「阿曇比羅夫」という存在が浮かび上がります。彼は「百済を救う役」で「大将軍」として出陣しており、水軍を率いての経験と実力を発揮することが期待されたものと見られますが、また彼が「薩夜麻」の親族であったと考えれば首肯できるものと言えます。
「阿曇」がその後繁栄しなかったのは『続日本紀』でも『公卿補任』でも高位に昇った「阿曇」氏が皆無であることからも窺えます。この現象は「持統」の王権に禅譲せざるを得なかったことの延長と思われるのです。
「持統」に王権が移った段階で「遷都」が行われると同時に「国名」変更と「改元」が行われたものと思われます。中国の歴代王朝においても「王朝名」変更は基本的には「遷都」と改元(建元)は必ず伴うものであり、古代の日本においても同様であったと思われ、それは倭国年号における「大化」改元がその時点であろうと思われますが、それに先立ち「庚寅年」に権力の座の移動と改革の趣旨が宣言されたものと思われます。この時点で「改新の詔」が出されたとして不自然ではありません。
また「遷都」するには「京城」が完成していなければならず、その工程に幾分かの時間が必要ですから、「改新の詔」発布後5年ほど経過した時点で「京城」の中心である「京域」の整備が行われ、この時点で掘立柱の「仮」の「大極殿」が作られ「持統」はそこに入ったものと思われますが(これが「藤原京」の端緒)、同時に「大化」改元が行われたものであり、ここで「日本国」という国名変更が行われたものと推量します。
日本の律令の手本とされる「唐」の律令の中の祭祀に関する規定である「祇令」には「皇帝」が代わる際の儀式に関係するものがありません。この理由として挙げられているのは「同一王朝内における帝位継承の場合の即位儀礼には「皇帝となるための脱俗の秘儀とかが認められない」からであるとされています。(※)これは「漢代」以降の伝統とされているようです。しかし「養老律令」及びそれに先行する「大宝律令」には「大嘗祭」という「即位儀礼」に準じた祭祀における規定があります。これは「天皇」が代わった後に最初に行われる「新嘗祭」を特に「大嘗祭」として特別視するものですが、それに付随して「秘儀」が行われるものです。このようなものを特に「付加」して「日本」律令を構成しているわけです。
『書紀』を見ると明確に「大嘗祭」を主宰していると認められるのは「持統」です。それ以前の「天武」の際にも「大嘗祭」に参加した人への「褒美」が与えられた記事がありますが、開催したという記事がありません。
これ以前には「新嘗祭」記事はありますが「大嘗祭」記事は皆無です。このように「同一王朝内」であれば必要のない儀式を定めているのは、「大嘗祭」というものの本質を露呈していると見られ、(少なくとも)「持統」への権力移動が「同一王朝内の出来事ではなかった」ことを示していると考えられるものであり、また先行する王権である「天武」の王権も(明確には書けなかったものの)、それ以前の王権とは一線を画するものであったことを意味すると思われるのです。
ところで「新日本王権」は「持統朝廷」の否定をその政策に掲げていたようですから、「別の王権」であり、そのことは彼等の素性として「本朝」つまり「筑紫朝廷」の直接の後裔かあるいは別の「諸国」の王権かということになるでしょう。
しかし「新日本王権」は「天智」をその「先帝」として戴いており、彼は「近江朝廷」を開いていて、私見では彼もまた「革命王朝」と考えていますから、「本朝」(つまり「筑紫朝廷」)の正当な後継王朝ではなかったこととなり、そのことから「新日本王権」は「持統」とは別の「諸国」の王権であったものと推量します。
「持統」は「諸国」とはいいながら「本朝」(「筑紫朝廷」)からその権力の座を譲り渡されたという経緯からも「本朝」の主要な支持勢力の一つであり、その意味で「天智」の勢力とは一線を画すものであったと思われます。
※西嶋定生「漢代における即位儀礼─とくに帝位継承のばあいについて─」(榎博士還暦記念東洋史論叢編纂委員会編『東洋史論叢─榎博士還暦記念』山川出版社、一九七五年)