古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「持統」の王権の本質

2020年05月10日 | 古代史
 以前拙論「「天朝」と「本朝」 - 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析」(「古田史学会報一一九号及び一二〇号」)で指摘しましたが「持統」はその「大伴部博麻」へ「詔」の中で「大伴部博麻」の行動について「本朝」に「還向」くために「身を売る」提案後それが実行され、「富杼等」が「天朝」に「通じた」と表現しており、そのことからの帰結として「筑紫國上陽郡」の軍丁である「大伴部博麻」の所属する「本朝」とは「筑紫君」である「薩夜麻」の「朝廷」であること、「持統」が言う「天朝」と「博麻」の言う「本朝」は一致するはずなので、「本朝」と同様「薩夜麻」の「朝廷」を指す言葉として使用されていると考えられ、その朝廷を「持統」が「天朝」と表現していることになることから、「持統」の朝廷は「薩夜麻」の「朝廷」を「天朝」と仰ぐ「諸国」のひとつであったと推定しました。
(以下「持統」の大伴部博麻への詔」)

 乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。

 この「持統」の「詔」には「王権」の地位についての変遷が隠されていると思われ、「薩夜麻」の「筑紫」の朝廷が「本朝」であった時期以降どこかで、「諸国」である「持統」の王権にその座を譲り渡したことが窺えます。

 「筑紫君」とされる「薩夜麻」は「唐・新羅」連合軍による捕囚の身から解放され帰国していますから、その時点以降「筑紫」の朝廷は復活あるいは(以前から)存続していたと思われますから、「持統」が「諸国」に本拠を持つ王権であるとすると、「持統」即位の実態が列島代表権力の座の移動を示すこととなります。そうならざるを得なかった条件としては「薩夜麻」に子供がいなかったということであろうと思われ、「直系」の後継者が不在であったために「傍系」に後継が移ったものと考えられますが、「持統」は「直轄領域」ではなく「諸国」の出身であったと推定します。

 『書紀』では「天武」の言葉として「自分には成人男子がいない」とされています。(「壬申の乱」の際の言葉)この発言は実態を表していたものと思われ、「後継者」の資格を満たす人物がいなかったことが明らかです。このとき「高市皇子」が「自分がいる」という発言をしていて、この時点以降「高市皇子」つまり同じ「筑紫」に拠点を持つ勢力の「宗像」氏族の地位が高くなったことが窺えます。逆にこのことから「薩夜麻」の主たる母体勢力は「宗像」ではないことが窺え、推測によれば「阿曇」ではなかったかと考えられます。それは「天武」の氏の葬儀に「誄」を奏している「大海宿禰」が「阿曇」氏族であり、彼が「壬生」として「誄」を奏していますが、この役は非常に本人に近い氏族が行うものとされていますから、「天武」と「阿曇」が近いことが窺えるものであり、そのことは「天武」という「影武者」の背後に隠されている「薩夜麻」の本貫が「阿曇」であることを示していると思われます。つまり「筑紫朝廷」とは「阿曇」の朝廷を意味するものであり、その意味で「阿曇比羅夫」という存在が浮かび上がります。彼は「百済を救う役」で「大将軍」として出陣しており、水軍を率いての経験と実力を発揮することが期待されたものと見られますが、また彼が「薩夜麻」の親族であったと考えれば首肯できるものと言えます。
 「阿曇」がその後繁栄しなかったのは『続日本紀』でも『公卿補任』でも高位に昇った「阿曇」氏が皆無であることからも窺えます。この現象は「持統」の王権に禅譲せざるを得なかったことの延長と思われるのです。

 「持統」に王権が移った段階で「遷都」が行われると同時に「国名」変更と「改元」が行われたものと思われます。中国の歴代王朝においても「王朝名」変更は基本的には「遷都」と改元(建元)は必ず伴うものであり、古代の日本においても同様であったと思われ、それは倭国年号における「大化」改元がその時点であろうと思われますが、それに先立ち「庚寅年」に権力の座の移動と改革の趣旨が宣言されたものと思われます。この時点で「改新の詔」が出されたとして不自然ではありません。
 また「遷都」するには「京城」が完成していなければならず、その工程に幾分かの時間が必要ですから、「改新の詔」発布後5年ほど経過した時点で「京城」の中心である「京域」の整備が行われ、この時点で掘立柱の「仮」の「大極殿」が作られ「持統」はそこに入ったものと思われますが(これが「藤原京」の端緒)、同時に「大化」改元が行われたものであり、ここで「日本国」という国名変更が行われたものと推量します。

 日本の律令の手本とされる「唐」の律令の中の祭祀に関する規定である「祇令」には「皇帝」が代わる際の儀式に関係するものがありません。この理由として挙げられているのは「同一王朝内における帝位継承の場合の即位儀礼には「皇帝となるための脱俗の秘儀とかが認められない」からであるとされています。(※)これは「漢代」以降の伝統とされているようです。しかし「養老律令」及びそれに先行する「大宝律令」には「大嘗祭」という「即位儀礼」に準じた祭祀における規定があります。これは「天皇」が代わった後に最初に行われる「新嘗祭」を特に「大嘗祭」として特別視するものですが、それに付随して「秘儀」が行われるものです。このようなものを特に「付加」して「日本」律令を構成しているわけです。
 『書紀』を見ると明確に「大嘗祭」を主宰していると認められるのは「持統」です。それ以前の「天武」の際にも「大嘗祭」に参加した人への「褒美」が与えられた記事がありますが、開催したという記事がありません。
 これ以前には「新嘗祭」記事はありますが「大嘗祭」記事は皆無です。このように「同一王朝内」であれば必要のない儀式を定めているのは、「大嘗祭」というものの本質を露呈していると見られ、(少なくとも)「持統」への権力移動が「同一王朝内の出来事ではなかった」ことを示していると考えられるものであり、また先行する王権である「天武」の王権も(明確には書けなかったものの)、それ以前の王権とは一線を画するものであったことを意味すると思われるのです。

 ところで「新日本王権」は「持統朝廷」の否定をその政策に掲げていたようですから、「別の王権」であり、そのことは彼等の素性として「本朝」つまり「筑紫朝廷」の直接の後裔かあるいは別の「諸国」の王権かということになるでしょう。
 しかし「新日本王権」は「天智」をその「先帝」として戴いており、彼は「近江朝廷」を開いていて、私見では彼もまた「革命王朝」と考えていますから、「本朝」(つまり「筑紫朝廷」)の正当な後継王朝ではなかったこととなり、そのことから「新日本王権」は「持統」とは別の「諸国」の王権であったものと推量します。
 「持統」は「諸国」とはいいながら「本朝」(「筑紫朝廷」)からその権力の座を譲り渡されたという経緯からも「本朝」の主要な支持勢力の一つであり、その意味で「天智」の勢力とは一線を画すものであったと思われます。

※西嶋定生「漢代における即位儀礼─とくに帝位継承のばあいについて─」(榎博士還暦記念東洋史論叢編纂委員会編『東洋史論叢─榎博士還暦記念』山川出版社、一九七五年)
コメント

「倭姫」と「筑紫」

2020年05月10日 | 古代史
 「天王寺」の鐘について以前考察しました。そこでは「浄金剛院」と並び「黄鐘調」の音階であることが判明していますが、その「黄鐘調」という音階は「古律」によれば「無常」を表すものであると同時に各種資料には「黄鍾」は「宮」であり、その「宮」は音の君とされていることなど「五行説」に基づいて「梵鐘」の音髙は「黄鍾調」でなければならないとしていたと推察しました。このことから「鐘」の構造は「規格化」されていたと考えられ、その意味で「鐘」の製造は同一工房で同じ鋳型から行われていたという可能性が考えられるとしました。
 「浄金剛院」の鐘(これはその後「妙心寺」に入ったものです)が「黄鐘調」であること及びその「銘」から「筑紫」(糟屋)で作られたことが推定されていますが、さらに「天武紀」には「筑紫」から「大鐘」が献上されたという記事があります。

「(天武)十一年(六八二年)春正月乙未朔…癸未。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘。」

 「妙心寺」の鐘はその銘(戊申年)から推測して「六九八年」の製作と思われますが、これに先行して製作された鐘があったとするわけですから、この「大鐘」も同じ「木型」から鋳造されたとみるべきであり、この「大鐘」もまた「黄鐘調」の音高であったと思われる事となるでしょう。
 この「大鐘」献上の約一年前の六八〇年十一月には「薬師寺」の造営が始められたという記事があることからこの「大鐘」は「薬師寺」に入るはずのものではなかったかと推定できます。
 「薬師寺」は「皇后」が病に倒れたために回復を祈るために「勅願」により建てられたとされていますし、この当時「勅願」ともいえる「寺院」はこの「薬師寺」だけのようですから、「筑紫大宰」が献上した「大鐘」は「薬師寺」に納められるべきものであったと推量します。
 これらのことから「黄鐘調」の鐘は全て「勅願寺」(或いは「皇后」「太子」など御願による)にだけ納められたものではなかったかと思われ(「黄鐘調」の鐘が「淮南子」では「音之君」とされるなどしていますから)、実際上も「倭国」では「君」以外には使えなかったという可能性があります。それは「黄鐘調」の鐘の倭国への伝来の経緯について関係していると思われ、「六世紀の終わり」に倭国を訪れた「隋使」が下賜品として持参した物品の中に「寺院」とそれに関するものも相当量あったものとみられ、その中には「梵鐘」もあったと推定されるからです。(少なくとも「梵鐘」を鋳造する技術も含まれるものと推量します)
 この時の「隋」からの使者は「文帝」が派遣したものであると思われますが、彼は仏教を国教としていましたから、夷蛮の国が仏教に深く帰依するとか寺院を造るという場合にそれに補助しなかったとすると不自然であると思われます。つまり「倭国」においても「隋」の肝いりで寺院が建設されたとみられ、それが「元興寺」であろうというのが私見であるわけですが、その時点で「梵鐘」についても当然「隋」の技術により鋳造されたとみることができると思われ(寺院に梵鐘は不可欠ですから)、その音高が「黄鐘調」であったとするのもまた当然であると思われるわけです。
 そう考えると、この時の「倭国」において「倭国王」以外の家臣や一般人が「黄鐘調」の鐘を製造したり使用したりはできなかったという可能性が高いと推量できます。その意味でもこれら「黄鐘調」の鐘は全て「倭国王」直属の工房で作られていたものとみることができそうであり、それが「筑紫」(糟屋或いはその周辺)で作られていたということになるということからも、当時の倭国の中心が「北部九州」にあったことが推定できるわけですが、「天王寺」の「鐘」もまた「筑紫」で作られたとみられることとなり、少なくとも「天王寺」もまた「倭国王」の勅願であり、またそれが「難波」にあったというわけですから、その「難波」という地がこの時点で「倭国王」の直轄地域として存在していたことが窺えるものです。
 そして「妙心寺」の鐘が元々「壇林寺」にあり、またそれが以前「筑紫尼寺」に納められていたものを移したと推測したわけです。つまり「筑紫尼寺」も「勅願寺」であったと考えられるわけです。

 すでに「妙心寺の鐘」についての検討において「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「筑紫尼寺」の鐘を(全体を移築したという可能性もあります)移して「壇林寺」に設置したと推察したわけですが、この「筑紫尼寺」は「尼寺」という性格から考えてその創建主体は「女性」であったことが推測でき、その人物は「観世音寺」とほぼ同時期(少し遅れた時期か)に同じ地域に「筑紫尼寺」を建てたという経緯から考えても当然「天智」と深い関係がある人物であるはずです。 「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺です。

「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」(『続日本紀』巻二より)

 また大宝元年の「太政官處分」中の「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとするのが通例ですから、そこに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であった可能性が高いと推量できるでしょう。またその後「橘嘉智子」という「皇后」の座にあるものがその「鐘」を移したという経緯から考えて「筑紫尼寺」を創建した人物も「女性」として最高位にあったであろうと想定できるものであり、その場合考えられる人物としては「天智」の「皇后」であったという「倭姫」が最も有力と推量します。

 以上考えると「倭姫」は少なくとも「戊申年」時点付近では「筑紫」に所在していたこととなりそうです。というよりそれ以前から「筑紫」に所在していたと考える方が正しいと思われます。
 以前「壬申の乱」前後「倭京」に「留守司」がいることについて考察しましたが、そこで「倭京」が「倭国」の「都」であること、「倭国王」が健在であり、彼(彼女)の名により「留守司」が置かれ、その間「倭国王」が「都」を離れていることなどが、推察されることとなりました。またそこでは「倭京」と「古京」が同一とされており、遷都前の「古京」に「倭国王」が戻り、改めてそこが「倭京」となったことが推定できます。それに関連しているのが「薩夜麻」の帰国であると思われるものです。
 彼は「筑紫の君」と表現されており、明らかに九州倭国王朝の「王」であったと考えられます。彼が「唐」の後押しにより「捕囚」となっていた「半島」より帰国し再び「倭国王」つまり「倭根子」として君臨することとなったものと思われますから、「倭姫」が彼の元に赴いたのは自然なことであったとみます。
 この時点で「倭根子」の代理としてその座にあった「倭姫」から「薩夜麻」へ座の交代が行われたものと思われ、その意味でも「倭姫」は「筑紫」にそのまま所在していたと思われるわけです。
 そう考えると「筑紫尼寺」は「天智」ではなく「薩耶麻」のための寺であったと考える方が正しく、「薩夜麻」は『書紀』では「天武」と重ねられて描写されていると思われますから、「天武」が亡くなったという「六八六年」は実際には「薩耶麻」の死去した年という可能性があるでしょう。倭姫は彼の供養のために「筑紫尼寺」を建てたと考える方が正しいのではないでしょうか。なぜなら「天智」の供養のためであるなら「鐘」に記された銘が示す「戊申年」ではなく、もっと早い時期に創建されて当然と思われるからです。「観世音寺」からそれほど遅くない時期になぜ建てられなかったのか、「天智」が亡くなっておよそ三十年も経過した後になぜ建てられることとなったのか、そう考えると「天智」のためとして「寺院」を建設したとするより、十年ほど経過しているものの「薩夜麻」のためと考える方がまだしも整合的と思われます。
 
 以上の推論で「倭姫」は「筑紫」に所在していたものであり、「天智」の死後「筑紫」で「殯宮」を営んでいたものと思われ、それが至近にあったとみられる「古京」の実態が「筑紫京」であったことを強く推定させるものです。
 「壬申の乱」の実態は「筑紫君」とされる「薩夜麻」の帰国に端を発する列島代表王権を巡る騒乱であり、この結果「筑紫朝廷」が復活したものであり、『書紀』はそれを「隠蔽」する目的で「天武紀「持統紀」を構成していると考えます。
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