古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

軍事拠点としての「難波宮」

2021年06月27日 | 古代史
『書紀』には「百済を救う役」の際に「難波宮」で「軍器」を閲した記事があります。

(六六〇年)六年…十二月丁卯朔庚寅。天皇幸于難波宮。天皇方随福信所乞之意。思幸筑紫將遣救軍。而初幸斯備諸軍器。

 これによれば「難波宮」で「諸軍器」を「初幸」したとされています。確かに「斉明」は『書紀』による限り「難波」には行ったことがなかったようですから、「初幸」という表現も当然ですが、この時点で「筑紫」に行くのに際して「難波宮」で「諸軍器」を確認したらしいことが窺えます。つまり「難波宮」には「軍器」が揃っていたということですが、確かに『書紀』には「難波宮」の「兵庫職」についての記事があります。

(六八六年)朱鳥元年春正月壬寅朔…乙卯。酉時。難波大藏省失火。宮室悉焚。或曰。阿斗連藥家失火之。引及宮室。唯兵庫職不焚焉。

これによれば「兵庫職」は焼けなかったとされていますが、この「兵庫職」とは儀礼や実際の戦闘の際に必要な物資を保管している場所であり、そのような重要な建物であったことから「耐火建築」(漆喰などを使用した)であったのかもしれません。そして、軍事行動や儀礼の時など必要なときにそこから取り出すというわけですが、それを実行しているのが上の「六六〇年」の記事というわけです。つまりこのとき「難波宮」には「諸軍器」が揃っていたというわけであり、「難波宮」が軍事拠点としての機能があったことが窺えます。
 「難波宮」にそのような機能が必要だったのは、そこが「東方の諸国」(言い換えると「近畿王権」)に対する警戒と威圧の中心であったというのが大きな理由であったと思われ、より「近畿王権」の支配領域に接近していることがそのような緊張状態を作り出していたと言えるでしょう。(構造と設置場所の状況が「山城」的であるのも「軍事」がメインの施設であったためと思われるものです)
 逆に言うと「飛鳥宮」(「斉明」が本拠としていた宮)には「軍事力がなかった」ということが推定でき、その意味からも「飛鳥宮」は「軍事拠点」ではなかったものであり、単なる「離宮」的な場所であったとみます。
 このような軍事的理由により「斉明」は戦いの前に「軍備」を整えるために自身の拠点である「飛鳥宮」ではなく「難波宮」に赴いたと理解するべきでしょう。

 また外国使節や蝦夷に対する対応も「難波宮」で行ったらしいことが書かれています。

(六五五年)元年…
秋七月己已朔己卯。『於難波朝』饗北北越。蝦夷九十九人。東東陸奥。蝦夷九十五人。并設百濟調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人。津刈蝦夷六人冠各二階。

 ここでは「百済調使」の他「蝦夷」も「饗」していますが、メインは「百済調使」であり、至近に存在していた「難波津」に到着していたものと推量されます。(蝦夷は「陸路」「難波」に来たものと推量します)
 「難波津」はすでに見たように「筑紫」あるいは「百済」等「西方」の使者の往還に使用すべき港湾であったものであり、また彼ら用の迎賓館らしきものがあったとされています。この「難波津」が「西方」との窓口的役割があったのは、「法円坂遺跡」に見られるような「倉庫」(多分に「邸閣」的機能を持っていたと思われる)が設置されていた時代からではなかったかと思われ、それは「倭の五王」の時代の東方進出という事業の徴証と思われるわけですが、その「難波津」の至近に「宮殿」がある訳ですからこの「難波宮」はこの「難波津」と深い関係があるのは当然であり、それを考えると「難波宮」は「孝徳」の末年に「放棄された」というわけではなく、吏員により維持管理されていたと思われ、重要な拠点(それも特に「軍事」的な意味での)として機能し続けていたことが窺えます。

 中国都城の研究からの帰結して「条坊制」を持つ都城の性格として、外部勢力によって作られたものであること、またそのことから必然的に「軍事的意味」が強くなることが挙げられています。(※)
 「難波宮」はその高台状の場所に立地しているという戦略上の利点を持っていることやそこに条坊制があったこと、古代官道が接続されていたことなどを考えると中国都城の例と同様に「軍事に特化した存在」であることが推測できます。その意味ではこの場所にそれほど軍事的意味を持たせる必然性が、近畿王権にとってみると薄いと言えます。なぜならこの周辺地域とそこにある勢力は彼らにとって関係が深いものであったはずであり、そのような場所に対して「軍事力」を保持する必然性がないと思われるからです。
 このような「軍事力」を保有する(せざるを得ない)理由としてもっとも考えられるのは、周辺が「非友好的」あるいはまだ「統治下に完全には入っていない」ような勢力である場合でしょう。そのような場合「出先」周辺に対する警戒のため「関」等の軍事拠点を周辺の交通の要所に設け、警戒に当たるべきですが、その意味で以下の記事は(時期としては違和感がありますが)内容は整合するものです。

(六七九年)八年…十一月丁丑朔…是月。初置關於龍田山。大坂山。仍難波築羅城。

 ここでは周辺の山に「関」を置き、「羅城」を「難波」に築いたとされますが、「難波」に「羅城」を築くなら周辺に対する警戒は当然必要であり、「龍田山」と「大坂山」の背後(向こう側)に潜む勢力に対する警戒というものが厳然として存在していることを表しているようです。
 これも「近畿王権」の中心としての「難波宮」であったとするとこの「龍田山」「大坂山」に「関」を設ける意味が不明でしょう。このような状況は「東方」に対する警戒を表し、「難波」の周辺地域がいわば「仮想敵」状態であったことを窺わせるものですから、この「難波宮」の主がより「西方」にその中心権力を持つ王権であることを示しています。

(※)妹尾達彦「中国都城の方格状街割の沿革 都城制研究(三)」奈良女子大学二十一世紀COEプログラム報告集Vol.二十七)二〇〇九年三月
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