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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

遣隋使と遣唐使(1)

2014年04月01日 | 古代史

「推古紀」に書かれた「隋」の「煬帝」からの国書というものについて、「古田武彦氏」は「唐」の高祖からのものが年次移動されて書かれているとされました。そのことについて考察します。

  「書紀」(「推古紀」)には倭国が「遣隋使」を送り、その返答使節として送られてきた「隋使」が「皇帝」からの「国書」を持参した、と書かれています。そして、その「隋皇帝」である「煬帝」の国書として「書紀」に全文が掲載されています。

「(推古)十六年(六〇八年)…秋八月…壬子条」「召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣物部依網連抱二人爲客之導者也。於是大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。其書曰『皇帝問倭皇。使人大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命 臨仰區宇。思弘徳化 覃被含靈。愛育之情 無隔遐迩。知皇介居表 撫寧民庶。境内安樂 風俗融和。深氣至誠 達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。…』」

 これによれば「隋皇帝」(ここでは「唐帝」とある)からの国書の中で「寶命」という用語が使用されているようです。この用語は「古田氏」により「天命」と同じ意味であり、それをより「強調した」形のものとされましました。(※)
 この「寶命」が「天命」と同じとすれば、この用語は「革命」思想につながっているものであり、「天子」(皇帝)が天の意志を十分に臣下(人民)に伝えられず、その任に堪えないようなときは「革命」により、別の人間が「天子」(皇帝)として差し向けられる、という事を指す用語です。
 このような革命思想に基づく「天命」という用語を最初に使用したのは「周」の「武王」であり、彼は「殷」の「紂王」を打倒して「周王朝」を開いたわけですが、元々「武王」はあくまでも「殷王朝」に対して臣下の礼をとっていたわけですから、当時の大義名分から言うと彼が「天子」の地位に就くことは「あってはならないこと」だったのです。だからこそ、その自分が天子の座に就いたことを正当化する必要があったのであり、そのために考えられたのが「革命」という思想なのです。
 
 このことから「古田氏」はこの用語が書かれた国書が「隋」の「二代皇帝」である「煬帝」のからのものであるはずがないと、論証しました。なぜなら彼にはそのようないわば「言い訳」とも言える用語を使用する動機がないというのです。そして、この「寶命」という用語を使用する動機を持っているのは「唐」の高祖であるとされ、この国書記事は十年以上過去に移動させられているという論となったものです。

 ところでこれらは「天命」という用語と「寶命」という用語が同義であるという前提でした。確かに辞書にはそのように出ていますが、実際の使用例をみてみると「寶命」には別の意義もあると思われるのです。
 そもそも「寶輿」(神仏・天子などの乗物)、「寶業」「寶暦」(天子の年齢ともいう)「寶座」「寶祚」(天子・皇帝の位)等々「寶」のつく字は「最高」という意味があり、それが仏教に関する事であれば「仏陀」に関する事として「寶」字が使用されているのが確認できますし、政治的な部分では「皇帝」に関わるものとして各史書等に現れます。
 例えば「梁」の「武帝」についての記述に「寶命」が現れますが、彼は「雍州刺史」であった時、当時の皇帝である「蕭宝巻」打倒の兵を挙げて彼を殺害し、「明帝」の子供であった「蕭宝融」を皇帝に仕立て、また「明帝」の皇太子の妃であった「宣徳皇太后」から禅譲を受けるという形で「五〇二年」に帝位に即き、「梁」を興したものです。
 この場合重要なことは「宣徳皇太后」から「命令」(「宣徳皇后令」と称する)が出され、それに従う形で即位したとされていることです。つまり彼が即位するのに「寶命」が使用されているとすると彼の「傀儡」ではあったとは思われるものの「皇太后」からの「命」を受けるという形であることが注意されます。つまり「寶命」とはこの「宣徳皇太后」からの「命令」を意味するものとも考えられるわけです。
 さらにこのことから「天命」ではなく「寶命」が使用されている場合、そこには「前皇帝」ないし「皇太后」からの「禅譲」(授禅)という形式を前提としているという可能性があると思われることとなります。(続く)

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