『書紀』には「伊勢王」という人物が出てきます。彼についてはその出自が明らかではなく、さらに『書紀』の記述に明白な矛盾があるのが判ります。
以下「伊勢王」に関する記事を『書紀』の出現順に並べてみます。
「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」
「(斉明)七年(六六一年)…六月。『伊勢王』薨。」
「(天智)七年(六六八年)…六月。『伊勢王』與其弟王接日而薨。未詳官位。」
「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅条」「遣諸王五位『伊勢王』。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」
「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔辛巳条」「遣『伊勢王』等定諸國堺。…。」
「(天武)十四年(六八五年)冬十月癸酉朔己丑条」『伊勢王』等亦向于東國。因以賜衣袴。…」
「(六八六年)朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯。御大極殿而賜宴於諸王卿。是日。詔曰。朕問王卿以無端事。仍對言得實必有賜。於是。高市皇子被問以實對。賜蓁指御衣三具。錦袴二具。并■廿疋。絲五十斤。緜■百斤。布一百端。『伊勢王』亦得實。即賜皀御衣三具。紫袴二具。絁七疋。絲廿斤。緜册斤。布四十端。…」
「(六八六年)朱鳥元年…六月己巳朔…甲申。遣『伊勢王』。及官人等於飛鳥寺。勅衆僧曰。近者朕身不和。願頼三寶之咸。以以身體欲得安和。是以僧正。僧都。及衆僧應誓願。則奉珍寶於三寶。…」
「九月戊戌朔…甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆『伊勢王』誄諸王事。…」
「(六八八年)二年…八月丁亥朔…。
丁酉。命『淨大肆』伊勢王奉宣葬儀。」
以上の出現例を見て判るように『孝徳紀』で「白雉」が入っている「輿」を担ぐなどの後、死亡記事があり、更にその後『天武紀』に入ると再度登場するという不思議があります。『書紀』の中においてこのような例は皆無であり、これは『天武紀』記事と死去記事との間の排列に齟齬があることを示すものです。当然『天武紀』の記事が「死去記事」以前に遡上すべきであると考えられるわけです。
ただし、この両方の「伊勢王」を別人と見る立場もあるようですが、それは不審です。確かに『書紀』『続日本紀』には同一の名を持つ「王」が散見されますが、伊勢王の場合『孝徳紀』では「白雉」の御輿を担ぐという(それも「殿」つまり「大極殿」の前まで運ばれた「御輿」を「天皇の至近」まで運ぶ)という大役を担っており(但しこれは潤色とは思われるものの)、さらに『天武紀』『持統紀』では「天武の死去」の際の葬儀などで強力なリーダーシップシップをとっているなどこちらも重要な役所を演じています。もしこれを別人とするならその権威が共通している理由を説明する必要があるでしょう。(「同姓同名」つまり「子供」に代を譲り同じ「王名」を名乗ったと言う事も可能性としては考えられるものの、『書紀』『続日本紀』内にそのような例が見あたらず、通常親子であっても「王名」は異なるものであり、そのことから考えても『書紀』に出てくる「伊勢王」は全て同一人物であると考えるべきでしょう。)
ただし、時代が異なった場合同名の王は『書紀』『続日本紀』には(「伊勢王」を別とすると)重複して出現する例が散見されます。
たとえば「石川王」「竹田王」「春日王」「難波王」は『書紀』及び『続日本紀』の双方に(時代を超えて)現れます。
①「石川王」の場合
「(六七九年)八年…三月辛巳朔…己丑。吉備大宰「石川王」病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」
「(神龜)三年(七二六年)春正月
庚子。天皇臨軒。授從四位下鈴鹿王從四位上。无位『石川王』從四位下。…」
②「竹田王」「難波王」の場合
「(五七五年)四年春正月丙辰朔甲子。立息長眞手王女廣姫爲皇后。是生一男。二女。其一曰押坂彦人大兄皇子。更名麻呂古皇子。其二曰逆登皇女。其三曰菟道磯津貝皇女。
是月。立一夫人。春日臣仲君女曰老女子夫人。更名藥君娘也。生三男。一女。其一曰『難波皇子。』其二曰春日皇子。其三曰桑田皇女。其四曰大派皇子。…」
「(五七六年)五年春三月己卯朔戊子。有司請立皇后。詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后。是生二男。五女。其一曰菟道貝鮹皇女。更名菟道磯津貝皇女也。是嫁於東宮聖徳。其二曰『竹田皇子。』…」
「(崇峻)二年(五八七年)…秋七月。蘇我馬子宿禰大臣勸諸皇子與群臣。謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子。『竹田皇子。』廐戸皇子。『難波皇子。』春日皇子。蘇我馬子宿禰大臣。紀男麻呂宿禰。巨勢臣比良夫。膳臣賀施夫。葛城臣烏那羅。倶率軍旅進討大連。」
「(六八一年)十年…三月庚午朔…丙戌。天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。『竹田王。』桑田王。三野王。大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事。大嶋。子首親執筆以録焉。」
「(六八五年)十四年…九月甲辰朔…甲寅)遣宮處王。廣瀬王。難波王。『竹田王。』彌努王於京及畿内。各令校人夫之兵。」
「(同月)辛酉。天皇御大安殿喚王卿等於殿前。以令博戯。是日。宮處王。難波王。『竹田王。』三國眞人友足。縣犬養宿禰大侶。大伴宿禰御行。境部宿禰石積。多朝臣品治。釆女朝臣竹羅。藤原朝臣大嶋。凡十人賜御衣袴。」
「(六八九年)三年…二月甲申朔…己酉。以『淨廣肆竹田王。』直廣肆土師宿禰根麿。大宅朝臣麿。藤原朝臣史。務大肆當麻眞人櫻井。穂積朝臣山守。中臣朝臣臣麿。巨勢朝臣多益須大三輪朝臣安麿。爲判事。」
(七〇八年)和銅元年…三月…丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。『從四位上竹田王爲刑部卿。』…」
「靈龜元年(七一五年)…三月…丙申。散位『從四位上竹田王』卒。」
『推古紀』に出てくる「竹田皇子」は「推古」が亡くなった際に「竹田皇子」の墓に葬って欲しいと遺言していますから、彼女の死去以前にすでに死去していたこととなります。それに対し「天武紀」に出てくる「竹田王」は「三野王」とほぼ同年齢と思われ『書紀』には書かれていませんが、天武の皇子を除けば「難波王」の次に出てくる人物であり、その順位から考えて「壬申の乱」の時に大海人側に加勢して戦ったのではないでしょうか。ところでそこに出てくる「難波王」ですが、これも『推古紀』に出てくる人物であり、「竹田皇子」とほぼ同年齢の人物です。
これらの例からもある程度時代が離れると(50-100年程度)同名の人物の存在もありうるようですが、「伊勢王」の場合その死去記事と「天武紀」の葬儀の記事とは「二十数年程度」しか離れておらず、葬儀全般を仕切っているその記事内容から考えてもかなりの年齢であることを考えると、この両者が別人で、なおかつ同一の時代に生きていたとすると全くの矛盾と思われます。
これらの事からこの双方の『紀』に出現する「伊勢王」は同一人物と見るべきであり、そうであるなら『斉明紀』『天智紀』に死亡記事があることを軽視すべきではないでしょう。
「死去」の記事、つまり「何歳なのか」あるいはそもそも「存命かどうか」というような情報は国家にとって見れば非常に重要度の高いものであり、それが「王」という高位の人物であればなお「行政」や「軍事」などについても深く関係してくる情報でもありますから、それが「数年」の誤差をはるかに超えるなどということは、はなはだ考えにくいものです。
そのように記事が重複している場合「原則」は「最初」の記事が「真実」のものであり、「後」の記事は何らかの誤解ないしは混乱によるものと思われます。つまり彼の死去記事としては『斉明紀』付近で正しいものと思われるわけですから、実働時期としては『孝徳紀』つまり「難波副都」時代としてみるのは当然のことです。
また彼とその弟王についてはその死去したという記事に(『天智紀』『斉明紀』の双方で)「薨」という語が使用されており、これは『書紀』『続日本紀』では「三位以上」の高位者のみに使用されるものですから、(唯一の例外は「四位栗隈王」ですが、彼についても「四位」という位階には疑問があるのは既に述べたとおりです。『続日本紀』には「贈従二位という表記がありますが、いつ加増されたかが記録にないことは不審です)「伊勢王」については他の記事において「諸王五位」あるいは「淨大肆」という「五位」程度の位階しかなかったように書かれている事には疑いが生ずることとなります。さらに「弟王」についてはその名前も全く明らかではないにもかかわらず「三位以上」という高位にあったこととなり、その様な事もまた不審といえるでしょう。しかもそれにも関わらず「未詳官位」という記載がされているのも更に不審を増加させるものです。これは明らかに「隠蔽」する意図があったものと見られます。
また「天武」の葬儀で「勅」を「奉宣」するなど重要な位置にいたにも関わらず「死去」記事がありません。さらに『公卿補任』などを見ても彼のについて全く記述がありません。「天武紀」の「伊勢王」が「孝徳紀」の「伊勢王」の(襲名した)子供ならば『続日本紀』や『公卿補任』に何も書かれていないことは大きな不審といえるでしょう。
彼についての「死亡時期」が上に見たように「斉明」の時代で正しいとすると、活躍時期は少なくともそこから二十年程度遡上するとした場合「六五〇年」付近(あるいはそれ以前)が推定されることとなりますが、それは『孝徳紀』に彼の名が出てくることと整合するものです。
以上から「伊勢王」の活動時期としては「六五〇年付近」つまり「孝徳朝」が正しいと考えられる訳ですが、その場合『天武紀』の「伊勢王記事」は揃って「三十年以上」遡上しなければならないこととなります。その場合正木氏の云うように「三十四年遡上」なのかどうかがここでは問題となるわけですが、それが正しいかどうかは「白雉献上」の儀式に「輿」を担いでいるのが真実かどうかと云うこととなります。なぜなら「三十四年遡上」とした場合、その「白雉献上」の前年の暮れに「東国」に派遣されているからであり、この「儀式」に参加可能であったか考える必要があります。
「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅条」「遣諸王五位『伊勢王』。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」
この派遣日付は元々の日付干支が保存されていたものと仮定すると、白雉改元儀式直前の「十二月十三日」となります。それに対し「白雉」献上の儀式の日付は明けた翌年の「三月記事」となり(二月」記事の「白雉」が捕獲されたという記事の後単に「甲寅」という日付が書かれており、これは「二月」ではなく翌「三月」の「十五日」となります)、東国への派遣から約三ヶ月後のこととなりますが、この場合日程的に参加可能かは微妙ではあるものの、「六八五年」の時には「東国」に行くのに際して「袴」が支給されていますからこの時も同様に「袴」が支給されたとするとこれは「馬」に乗るという前提のものであったと思われますので、移動には馬が使用されたとみられるわけであり、その場合往還にはそれほど時間がかからなかったという可能性もあります。そう考えれば「白雉」の儀式に参加できたともいえるでしょう。
(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/10/14)旧ホームページ記事の転載