古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「長屋親王」木簡からみえること

2018年12月23日 | 古代史

 以下は「長屋王」と「懐風藻」に関する論です。ホームページに書いたものを改めてここに提示します。

 「一九八七年」奈良平城京の近くの「長屋王」の邸宅跡と考えられる場所から大量の木簡が出土しました。注目すべきことにはそこには「長屋親王」と記載された木簡が存在していたことです。

「長屋親王宮鮑大贄十編」

 この木簡から「長屋王」が「親王」であったことがわかります。「親王」とはいわゆる「皇太子」のことであり、父親が天皇でなければこの表記は使用されることはありません。(『大宝令』の規定により「親王」は「天皇」の子供か、「天皇」の兄弟姉妹しか該当しないとされていました)
 彼は『書紀』に記されている限り、「天武」の子供である「高市皇子」の長男とされています。「高市皇子」は「即位」していないと伝えられていますから、本来は「親王」表記は該当しない人物です。
 さらに、この木簡では「大贄」と書かれていますが、「大贄」とは「天皇」またはそれに準ずる立場の人物への飲食物を指す用語です。この用語が「長屋王」に使用されていることの意味は大きいでしょう。(単に「皇孫」だからという理由では起こりえない現象です)
 これに関して「大宰府政庁正殿」の後面築地の基壇天場の下層から発見された木簡があります。
(以下全ての木簡データは「奈文研」提供の「木簡データベース」によります)

大宰府跡(政庁地区正殿後方築地東北隅)
(表)十月廿日竺志前贄駅□□留 多比二生鮑六十具/鯖四列都備五十具
(裏)須志毛(十古)割軍布(一古)
 
 ここでは「贄」という表記がありますが、通常の解釈では「大贄」や「御贄」ではなく「贄」であるという理由でこの木簡には「天皇への献上品」という意味はないとされています。その内容が「生鮑」など「生鮮海産物」と考えられるため、これは「近畿」に送られるものではなかったと推定されており、「大宰府」ないしは「駅家」で消費されたものと考えられているようです。そのような場合「贄」とあっても「天皇」へのものではないと考えるわけです。
 しかし、そのような論は上で見る「長屋親王木簡」とは齟齬しています。そこには「大贄」と間違いなく書かれています。しかし、誰もこの「大贄」が「天皇」へのものであるとは言いません。それは「長屋(親)王」へのものであるからです。
 つまり「贄」か「大贄」ないしは「御贄」かは結局「既定事実」が優先するのであり、「天皇」と彼ら「近畿天皇家一元論者」が「理解できる」相手へ持って行くときは「大贄」でも「贄」でも「天皇への献上品」なのであり、彼らが「天皇」とは思わない(思えない)場合はそこに「大贄」とあっても「天皇への献上品」ではないこととなります。これは見事な「無原則」であり、「ダブルスタンダード」です。
 そんなものは学問でも何でもないのは明らかです。そうではなく、アカデミックに言えば、「贄」「大贄」とあればそこないしは近傍には「倭国王」がいることを意味するのであり、そこがどこであっても同じことです。
 この「太宰府」出土の「木簡」の場合は、「太宰府」ないしはその近傍に「倭国王」が居たとした時、そこに「贄」という表記があるのは理解できるものであり、「大贄」とある「長屋親王木簡」では「長屋王」が至上の存在とされていることと理解すべきでしょう。

 更に、いわゆる「長屋王木簡」の中には「大命符」で始まる重要な木簡があります。そこには「天皇からの命令」を表す「大命」、「天皇の服」を表す「大御服」、天皇の食事を表す「大御物」、「皇太子」や「親王」を表す「若翁」など数々の「至上」の用語が使用されており、「長屋王」の立場について「親王」以上の地位を想定する必要があると思われるものです。
 また「長屋王」の子供達に奉仕する人たちについても「帳内」という用語が使用されていますが、これは「天皇」に直結する資人であり、天皇ではなかったとされる「長屋王」とその子供達に本来使用されるはずのないものなのです。

「・◇以大命符○/牟射/廣足∥○等○/橡煮遣??匹之中伊勢?十匹大御服煮今卅匹宮在加?十匹并?匹煮今急々進○山方王/白褥取而進出○珎努若翁御下裳代納辛櫃皆進出/出又林若翁帳内物万呂令持煮遣?二匹急進出浄味片?曽持罷∥・◇御褌代帛?易?進出又志我山寺都保菜造而遣若反者遣支鏡鈴直彼行\大御物王子御物御食土器无故此急進上/主殿司仕丁令持進上酒司充羽嶋/又□〔尺ヵ〕戸角弓田井百嶋不見∥○又太御巫召進出○附田辺史地主○/○五月十七日/家令○家扶∥」

 中でもこの中に見える「若翁」については「奈良文化財研究所」の見解では「珎努若翁は智努女王で、『万葉集』に円方女王(まどかた)(彼女も長屋王家木簡に「円方(形)若翁」としてみえる)の死を傷む歌があり(巻二〇、四四七七)、長屋王の娘か。林若翁もあるいは長屋王の子で、七四三年(天平一五)五月に従五位下に叙された林王か。 」とされています
 また「若翁」というのが「長屋王」の子供達についてのみ使用されていることにも注目です。
 以下に見る「若翁」が書かれている木簡から判断して、「馬甘」「円方」(圓方)「太」「忍海(部)」「膳」「小(治)田」「珎努」「林」「日下」の九人が「若翁」という尊号で呼称されていたことが分かります。

0000003  匹并?匹煮今急々進山方王白褥取而進出珎努/而進出珎努若翁御下裳代納辛櫃皆進出出又林 若翁/若翁 御下裳代納辛櫃皆進出出又林若翁帳内物万呂/帳内物万呂令持煮遣?二匹急進出浄味片?曽   011  平城京2-1688(城21-5  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000006  御所人給米六升馬甘 若翁 米◇御湯曳人四口米四升受小国女〈〉稲虫家   011  平城京1-229(城21-13  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000007  ◇円方 若翁 進米一升受志祁多〈〉?      019  城21-15下(123)(木研  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000008  ◇員方 若翁 進米◇十日酒人末        019  城21-16上(124)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000009  太 若翁 犬米一升受小白九月十七日◇豊国◇      011  平城京2-1843(城21-16  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000011  ◇太 若翁 米一升受秦益人◇十二月七日〈〉      011  城21-16上(127)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000012  ◇太 若翁 進米半受足◇◇十一月九日廣嶋◇      011  城21-16上(128)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000014  忍海部 若翁 米四升八月廿日麻呂       051  平城京1-251(城21-16  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000015  ◇忍海 若翁 米一升上米半升◇◇受廣万呂友瀬?十一月十     011  城21-16下(131)(木研  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000016  ◇員方王子米六升?◇薪直三升受即十二月十二日〈〉?     033  平城京2-1840(城25-10  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000020  馬甘 若翁 幸行打散米一升受◇虫九月卅日大〈〉◇     011  城27-8上(59)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000021  馬甘 若翁 進【】         081  城27-8上(60)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000022  膳 若翁 進飯五升受国末呂廿七日老◇       019  城25-31上(城23-8下(4  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000023  小治田 若翁 進米一升◇七月卅日甥万呂◇      011  平城京2-1841(城25-31  平城京左京三条二坊一・二・七・0000024  小田 若翁 進飯三升受桜井佐為万呂◇卅日〈〉〈〉?◇         011  城23-8下(47)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000025  忍海部 若翁 乳母二人女竪十米六升半受家虫十一月十一日     081  城23-8下(48)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000027  〈〉智珍努/〈〉智珍努若翁帳珍/婢占部連部我田羅衣御服事徊伍徊智智努若王 若翁/若翁/若翁 帳珍若翁右件人申仕奉人部加呰春日臣足若珍/右件人申仕奉人部加呰春日臣足若珍若〈〉田/〈〉〈〉和銅六年六月十二日和銅六年月〈〉     081  城23-16上(156)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000028  太若〈〉          081  平城京1-250  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000029  知努若〈〉御服         091  平城京1-654(城28-5中  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000030  知努 若翁            091  平城京1-653(城28-5中  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000035  太 若翁            091  平城京2-2418  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000038  員方 若翁 進米一升受美都久?◇西宮少子二口米二升〈     011  城25-10上(85)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000039  日下 若翁            081  城25-10上(87)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000041  太/太若翁進/太若翁進若翁公翁 若翁/若翁/若翁 進若翁公翁若翁/公翁若翁/ 019  城25-10上(84)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000044  形 若翁            091  城28-5中(109)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000046  員方 若翁            091  城28-5中(107)  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000047  ◇太 若翁 進◇逆         019  平城京1-249  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000048  員方 若翁 米一升半受刀自女?「翁」十一月廿九〈〉     019  平城京2-1839  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000050  太 若翁 犬一口米一升小白九月十四日甥万呂書吏?     011  平城京2-1842  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000051  員方 若翁 廿五日石角         081  平城京2-1838  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000052  ◇ 若翁 米升受人?〈〉◇        081  平城京2-1849  平城京左京三条二坊一・二・七・
0000053  形 若翁 御衣          091  城28-5中(108)  平城京左京三条二坊一・二・七・

 これらの木簡の中でも「御所」「行幸」「御衣」という至上用語が使用されています。
 また「長屋王家木簡」からは「勅旨」と書いた木簡も発見されており、その文章から「長屋王」の言葉を「勅旨」としているように見えますから、はっきりと「長屋王」が「最高位」(天皇位)にいたことを示しています。

「・勅旨○石川夫人○糯○阿礼○粟○阿礼・一々物今二斗進○内東人」

 その後「長屋王の変」により、「長屋王」と共に自害させられた子供達を見ると以下のように「膳夫王。无位桑田王。葛木王。鉤取王」という名前が出てきますが、「若翁」木簡と重なっているのは「善夫王」だけのように見えます。

「天平元年(七二九年)二月…癸酉。令王自盡。其室二品吉備内親王。男從四位下膳夫王。无位桑田王。葛木王。鉤取王等。同亦自經。乃悉捉家内人等。禁着於左右衛士兵衛等府。…」

 ところで、『続日本紀』によると「天平九年」、疫病の流行により藤原四兄弟をはじめ多数の議政官・官人が亡くなる「事件」がありましたが、その直後「十月二十日」に叙位が行われています。

「天平九年(七三七年)十月庚申。天皇御南苑。授從五位下安宿王從四位下。无位黄文王(從五位下)。從五位下圓方女王。紀女王。忍海部女王並從四位下。」

 この「叙位」記事に出てくる「安宿王」「黄文王」の二名は「長屋王」の子であることが判明していますが、「圓方女王。紀女王。忍海部女王」の三名については出自が不明であったものですが、「若翁木簡」から「長屋王」の「子供」であることが判明し、結果としてこの叙位の対象者は全て「長屋王」の子であることが明確になりました。
 この「叙位」は「疫病」の流行に関連するものと考えられており、時の王権はこれを「長屋王」の「祟り」と判断したものと推量されます。
 また、彼等は「父親と兄たち」が自害させられた時点でも生き残っていたものであり、それは「幼少」の故であったと思われ、「若翁」というのが「幼少」という意味を多分に含むものであったことが推測されるものです。

 ところで、『隋書たい国伝』によると「阿毎多利思北孤」の「太子」は「利歌彌多仏利」であるとされています。この「利歌彌多仏利」という「名称」について「太子」の名前ではなく、「太子」のことを「倭語」で言ったものとする見方があります。更に「利」という「ラ行」で始まる名前が「倭語」に存在しなかったと見られることから、これは「利」ではなく「和」の「書き間違い」とする考え方もあり、「本来」は「和歌彌多仏利」であったとされ、これは「若翁」のことであるという研究も出ています。これらが正しいかすぐに結論は出ませんが、もしそうなら「若翁」とは「太子」、つまり「天皇」の後継ぎを示すものであると考えられることとなり、それはすなわち「長屋王」の子供達が「若翁」と呼ばれていた理由とも「重なる」事となります。つまり「彼等は」「天皇」の後継ぎであることとなり、「長屋王」が「天皇」であるという結論に直結することとなります。
 また、ここに書かれた「翁」という語の意義については「公」あるいは「王」を意味しているともされると同時に、「太乙」つまり「北極星」を表すという説もあります。
 「北極星」は「道教」では「天皇大帝」と称され、宇宙の中心とされますが、この「天皇大帝」が「天皇」という用語の語源であることは周知のこととなっており、そう考えると「若翁」とは「天皇の子供」を意味する言葉であるというのはさらに確かなものとなるでしょう。つまり、「長屋王」の子供達(彼の子供達だけが)が「若翁」とされているということは、「長屋王」の立場を鮮明に表しているといえるものです。
 
 更に木簡の分析から、彼に対する「特別待遇」が明確になっています。たとえば「邸宅」の「北門」が平城京二条大路に面しています。「大路」に向かって「門」を作ることができるのは「官」関係の建物だけであったはずであり、「個人」の邸宅が「門」を作ることは禁止となっていたものです。にもかかわらず彼にはその制限が適用されていなかったこととなります。
 またその邸宅は広さが約30,000m2にわたり、その構造は「南半分」が「長屋王」とその家族の住居及び儀式用に使用されそこには中央に「正殿」と「脇殿」、その西側に「西宮」(「吉備内親王」とその家族及び使用人の住居)、「東側」には「儀式」に使用したと考えられる施設があったものです。また、「北半分」には「使用人」の居室や倉庫、工房、厩などがあった模様です。しかもその使用人は「朝廷」から派遣されていたもので、数多くの「官司」が居住しその数は数百人に上ったと考えられています。
 さらに、発見された木簡の年次から考えて、この時点ではまだ「大納言」にさえなっていなかった時期と考えられ、その権威が異常に高いのは明らかですが、これは彼の「父親」に由来すると一般には考えられています。
 彼の父である「高市皇子」の「封戸」の数は当時としては「桁違い」であり、最後には「五千戸」に加増されています。これらの「封戸」については「子息」である「長屋王」に引き継がれたと考えられ、大規模な宮殿とも言える私宅はその「封戸」によるものであったと考えられているわけです。しかしそれだけでしょうか。

 「長屋王」と「吉備内親王」の子供達が「二世王」の待遇を受けていることも注目されます。これも「天武天皇」から数えると「三世王」のはずであり(長屋王は天武の孫ですから)、定説的には「何らかの特別待遇」と解釈されていますが、「高市皇子」の即位、という状況を想定すると、確かに「二世王」となり、別に不審ではなくなります。
 
 以上のように「木簡」という「第一次資料」により「長屋王」が「皇太子」あるいは「天皇」であったらしいことが読み取れることと思われますが、そうなってきた場合、「父」である「高市皇子」についての『書紀』の記述も同様に、全く信用できないこととなります。『書紀』と「木簡」のどちらが優先されるべき情報か、というのはもちろん「第一次資料」である「木簡」の方だからです。つまり、彼が「親王」と表記される、ということは父親である「高市」は『書紀』の記載と違って、実際には「天皇」であった、ということに他なりません。

 「長屋王」は『書紀』編纂終了とされる「七二〇年」時点では生存していたはずであり、『続日本紀』に拠れば「権勢絶大」の頃でした。彼の父がもしも「倭国王」であったなら、それとは違う記述をしている『書紀』の編纂など不可能であったでしょう。このことは「当初」の『日本紀』では「高市皇子」は「倭国王」として正確に書かれていたのではないか、と言う推測が可能であると共に、彼に関する記述が「変改」されたのは少なくとも「長屋王」死去後であり、また彼の子供である「鈴鹿王」などが存命中のことではなかったであろう事が推測されます。結局、その後の「嵯峨天皇」の時代の『書紀』再編纂事業に関連したものと考えなければならないということとなると思われるものです。
 「桓武天皇」と「嵯峨天皇」はいわゆる「天智系」であり、「天武系」(というより「薩夜麻系」)であった「長屋王」とその父である「高市皇子」について、彼らの所業を「薩夜麻」の存在もろとも、抹消したのでしょう。

 「高市皇子」は「壬申の乱」で「反近江朝廷軍」を率いて戦い、勝利したことでもわかるように「軍事面」で信望があったようです。つまり、彼と対する際には、軍事的圧力を常に意識する必要があり、そのことを「天皇」としての統治行為に大いに発揮したと考えられ、ここで「全国直接統治」を行う際の「軍事的担保」として保持していたものと考えられます。
 このような「力」を背景にした統治行為の一環として「東国国司の詔」やそれに基づく「賞罰の詔」、「品部」などの「接収」の「詔」などかなり「強引」な手法があったものと考えられます。
 このことが「畿外」諸国の強い反発を受けたものと見られ、それが結局「政権転覆」の「動機」となったのではないかと推察されるものです。


(この項の作成日 2011/01/03、最終更新 2017/02/05)(旧ホームページ記事を転載)


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