古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「百済を救う役」と筑紫王権(一)

2024年11月21日 | 古代史
 「唐」は「麗済同盟」に対抗するため「新羅」との間に「唐羅同盟」を結び、「百済」や「高句麗」の動きに神経をとがらせていました。そして「六五九年正月」になると新羅王「金春秋」から「麗済同盟」による攻撃を受けた連絡があり、唐は「程名振」「蘇定方」らを遣わして「高句麗」を攻撃させたものです。この時点で「倭国」が「高句麗」や「百済」と結託しているという疑いが「唐」側にあり、「倭国」からの使者が「質」にとられる事態となったものと思われるわけです。
 つまり唐は高句麗を攻める前提で百済をまず攻めたものであり、主たる目的は高句麗であったものです。このように朝鮮半島では「唐」と連係した「新羅」の勢力が非常に強くなり、「六六〇年」には「唐」「新羅」連合軍により実質的に「百済」という国は滅んでしまいます。
 「百済」の遺臣から救援要請が来たことで「於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役」が発動されることとなります。この「天豐財重日足姫天皇七年」とは「六六一年」を指すと思われますが、『書紀』で「救百濟之役」という言葉に実態が該当するのは「御船西征。始就于海路。」という部分がそうであるとみられています。(春正月記事)これ以外には派遣記事も戦闘記事も出て来ません。しかし実際にはこの時点ですでに「筑紫」からは軍が派遣されていたとみるのが相当です。それを示すのが同年の末尾記事として「是歳条」に「日本救高麗軍將等」の部分です。この記事は巧妙にこの「日本救高麗軍等」が派遣された日付を隠蔽していますが、これは「斉明」が「西征」を開始した時点と同時とみるのが相当であり、前年に出された「斉明」の開戦の「詔」とされるものも実際には「薩夜麻」が出したものとみるべきです。理由として「百済」が援軍を頼むとするとそれは「筑紫朝廷」以外に考えられず、「百済」と「倭国」の長年の関係を考えれば「百済」が「日本国」つまり「難波王権」に応援要請するとは考えられません。これは実際には「筑紫朝廷」に届いた要請であり、「筑紫朝廷」はそれに応え、軍を発動するととともに「斉明」の「難波王権」に対し支援するよう指示を出したとみるべきです。
 (以下「斉明の詔」とされるもの)

 「詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。」

 この中で「志有難奪可分命將軍百道倶前。」という記述がありますが「百道」というのは筑紫の地名であり、「干潟」となっていた場所と思われます。そこへ集合するようにという内容であり、これは「筑紫」から出された指示として了解しやすいものです。(岩波の「大系」では「多くの道から」と言うように理解しているようですが、明らかにこれは地名です)
 「近畿」から各地への集合指令とするならば、「百道」の前に「筑紫」なりの地名が前置されなければならないと思われのす。詔を出している側は「百道」が「筑紫」に存在しているのは自明なので前置していないというべきです。(同様の例として『二中歴』の「倭京」の項にある「二年難波天王寺聖徳造」に「難波」という地名が付いているのに対して「白鳳」の項にある「対馬採銀観世音寺東院造」があり、ここでは「観世音寺」に「筑紫」という地名が前置されていないというものがあり、このことから記事の視点が「筑紫」にあると推定でき、これと共通の構造といえる。)
 また「百道」への集合は「浜」への集合であり、「船舶」によることが前提の詔と理解できる。(現在でも「百道浜」と称され、「百道」は「浜」である)

(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。
八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。
九月。皇太子御長津宮。以織冠授於百濟王子豐璋。復以多臣蒋敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津。率軍五千餘衛送於本郷。於是。豐璋入國之時。福信迎來。稽首奉國朝政。皆悉委焉。
十二月。高麗言。惟十二月。於高麗國寒極泪凍。故唐軍雲車衝■。鼓鉦吼然。高麗士率膽勇雄壯。故更取唐二壘。唯有二塞。亦備夜取之計。唐兵抱膝而哭。鋭鈍力竭而不能拔。噬臍之耻非此而何。釋道顯云。言春秋之志正于高麗。而先聲百濟。々々近侵甚。苦急。故爾也。
是歳。播磨國司岸田臣麿等獻寶劔言。於狹夜郡人禾田穴内獲焉。又日本救高麗軍將等。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。

 『書紀』で言う「斉明」の「詔」はその内容から明らかなように「百済」を伐つために「新羅」を攻めるという意図であったものです。確かに(六六三年)二年記事として『書紀』には新羅の「城」を攻略したという記事が出てきます。これで見るように「斉明」の軍は新羅に攻め入ることを目的としており、また活動しているように思われます。しかし「薩夜麻」は「唐軍」捕虜となっています。このことは「唐軍」が活動していた地域に彼らはいたこととなりますが、想定されるその場所として決して新羅」でもなければ「百済」でもなかったと思われます。なぜならこの当時「唐軍」の主力はもちろん「新羅」にはおらず「百済」でも「熊津」にしかいませんでした。その時点で「唐軍」の主力は「高句麗(以下高麗という)」との国境沿いに展開していたわけであり、捕虜になる機会としては「高麗」の国境付近しかないものと思われます。
 「唐軍」はこの時先に「百済」を攻めて「高麗」への援軍を遮断する戦略をとっていたようであり、「百済」が陥落するという時点ではすでに「高麗」攻略にかかっていたものです。
 このことから考えて、「百済」が滅亡してしまった現在、日本にとって「高麗」救援が最優先なのは当然ではないでしょうか。「百済」が崩壊したということは「高麗」が孤立したことを意味しており、その状態は「唐」と「新羅」の両面からの攻撃を受けざるを得なくなることを意味しますが、これを放置すれば「高麗」の滅亡ひいては半島全体が「唐」により支配されてしまう可能性があり、それは「筑紫日本国」(倭国)にとって非常に好ましくない話であったと思われ、それを阻止すべく軍を「高麗」に派遣することとなったものと思われます。
 結局「斉明」の指揮下にある軍が「新羅」を攻めている間に「筑紫朝廷軍」が「高麗」へ支援の部隊として進行していたと考えられるのです。それを率いていたのが「薩夜麻」であったものと思われ、かれらは「平壌道」を進行してきた「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いとなり、捕虜となっていたものと推測されます。下記によれば「加巴利濱」に「泊った」ようですから百済の東側を海岸沿いに進行していたとみられ、その先で高句麗軍と合流したものと考えられるでしょう。
 「薩夜麻」は「筑紫君」であり「筑紫朝廷軍」の総帥と考えられますから、彼とその側近が捕囚となっていると思われる状況を考えると、ほぼ「高句麗」支援として派遣された部隊は全滅したものではなかったでしようか。
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