古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『二中歴』の「六十年遡上」について

2017年07月11日 | 古代史
 以前「倭国」への仏教の伝来と関連して『二中歴』や『書紀』の記事に「60年」(干支一巡)の遡上を考えるべきという記事を書きましたが、(以下の記事等)http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/3b3186a5a40cb4fd3b2c30ea7323e7ac
その時は気が付きませんでしたが、古田武彦氏が2006年段階で「磐井の乱はなかった」という新説を出した際に、彼の当初の論で重要視されていた『継体紀』における「日本天皇及太子皇子俱崩薨」という記事について古田氏は講演の際の「質疑応答」の中で「干支一巡」の移動で考察するべきことを示唆されていました

 「質問三 磐井の乱ですが、今まで継体の反乱と理解していました。それで質問なのですが継体が死んだ年と朝鮮の記録との時期のずれ、そのあたりはどのように理解したらよいのでしょうか。
 回答
 これも大事な質問です。
 継体紀の最後に、「日本の天皇及び皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は二十五年に當る。後に勘校へむ者、知らむ」という百済本紀の記事があります。
 今考えてみますと、『失われた九州王朝』『古代は輝いていた 三』などを書いた人間として、間違いというか論理の飛躍があったと、今は考えています。結局百済側が伝える事件があったことは間違いがない。あそこに干支も書いてある。それも間違いがないと思う。ですがそれが磐井であるという証拠はない。磐井以外のケースで、そういう問題が起きえたケースがあったか。たとえば倭の五王。上表文のところで、悲痛なことを言っています。父が亡くなった。兄が亡くなった。自分が頑張らねば、そのように言っています。そのような背景に、この事件があっても不思議ではない。そういう目で、もう一度再検討したらよい。磐井にこだわらず、いったんこの事件を保留して、もう少し時間帯を自由に動かしてみたらどうか。六十年単位に動かしてみたらどうか。動かせば、何か引っかかるかところが見つかるかも知れません。大事な保留問題と考えています。」(古田武彦講演記録 二〇〇四年一月十七日「「磐井の乱」はなかった 
ロシア調査旅行報告と共に」『古代に真実を求めて第八集』より(明石書店二〇〇六年)

 これをみると「磐井の乱」についての検討の中でこの一斉死亡記事を「磐井」と結びつけることを放棄したものであり、そのことからこの一斉死亡記事に相当する記事を別に『書紀』等に探す必要が出てきたことから、『宋書倭国伝』記事と結びつけて考える必要があるとみたもののようです。

 先行する研究(というより示唆ですが)があったことに全く気付いていませんでした。今ここに記し、あらためて『二中歴』と「百済関係資料」について「干支一巡」の遡上を主張したいと思います。(ただし私見では「磐井の乱はあった」とみていますが)
 ただし、その「遡上」がどの時期までなのか、どの段階までなのかについては若干不明確な点はあります。一応可能性があるのは「七世紀末」付近までではなかったかとみており、それは「物部」に「筑紫」を占有されていた「六十年間」のことではなかったかと考えています。そのあたりもすでに触れていますので、それらもご覧いただければと思います。

 
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