古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「日本国」の成立(1)

2016年11月01日 | 古代史

 以上『懐風藻』の詩群(特に「元日応詔」や「春日応詔」という詩群)は、「六四〇年」の冬至の日に「伊勢神宮」の遷宮を行うと同時に、遣唐使を出し「唐」における「朔旦冬至」を祝する祝賀使を派遣したものと推察され、その際に「蝦夷」の方を同行したものと見られることとなりました。そして、翌「六四一年」の初春に「蝦夷」をその版図に治めたことを記念して「改元」し「国号変更」を行ったと見たわけですが、この時当然「政治権力」の主体も代わったと見られ、「新倭国王」が「禅譲」により成立したと見られるわけです。

 また『新唐書』『旧唐書』に書かれた内容によると、「日本国」からの「遣唐使」達は各自がそれぞれ「日の出るところに近いので」、「倭国自ら名称変更した」、「其の名が雅でないので」、「日本は旧小国であるが、倭国を併合した」などと答えたとされます。
 重要な点は、この証言が外国史書に書かれたものであることです。「粉飾」などの心配のない情報であり、信頼性は高いと考えられます。また、聞かれて「虚偽」を答えなければならない必然性もないと考えられ、これらの証言には高い確度で「真実」が含まれているものと考えられるものです。また各々答えのニュアンスが異なっているのが注目されます。
 この「遣唐使」が述べた「変更理由」を考察すると、「『倭国』が自ら変更した」という証言からは、「名称変更」した「倭国」は「自分たち(「遣唐使」たち)の王朝」ではない、というニュアンスを感じます。つまり自分たちとは違う「倭国」というものがあって、それが「名称変更」したものを「私たち」が継承したというニュアンスでを感じます。
 また、「『日本国』は、名称変更した『倭国』を『併合』した」と言っていることなるわけですが、このことは自分達「日本国」の王朝が「すでに名称変更して『日本国』となっていた」「倭国」を併合した、という意味合いと理解され、さらに(ここが重要なところなのですが)「『日本』は旧小国」という表現は、現在の「日本国」の中枢をになう勢力が「元々支配していた地域」というものは、現在の「日本国」の中心地域(「畿内」)ではあるが、それは本来は「倭国」の内包する「諸国」のひとつであったものであり、「大義名分」のある国ではなかった、と言う事を意味すると思われるのです。つまり「現在の」「畿内」は「倭国」が「倭国」として存在していた時代には「旧小国」でしかなかった地域である、と言っていると考えられるわけです。(続く)

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