古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「檀林皇后」と「妙心寺」

2015年09月12日 | 古代史
 『とはずがたり』の中で「浄金剛院」にあったとされたこの鐘は、それ以前「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「檀林寺」という禅院が創建された際に(どこからか不明ではあるものの)持ち込まれたものでありその後その「檀林寺」が「廃寺」となって以降その跡地に建てられた「浄金剛院」に設置されることとなったという経緯が知られています。
 『大日本地名辞書』には「妙心寺」の項に「…庫門の西に古鐘あり、世に黄渉調と号す、寺説に嵯峨の檀林寺浄金剛院伝来の物とぞ、…」とあり、さらに「檀林寺址」の項には「…一條帝の比に及び已に廃し、其鐘地に委す今妙心寺の古鐘或は之を傳ふる者歟、…」とされています。また「浄金剛院」は「檀林寺」の跡地に建てられたとする記事が多く確認できること(『増鏡』など)、さらに「廃寺」となった「檀林寺」で「鐘」が「御堂」(本堂か)の隅に残っていたという趣旨の記事が「赤染衛門」の著作(『赤染衛門集』)に書かれているなどのことから『浄金剛院』の鐘は以前『檀林寺』の鐘であったと推量され、それが『妙心寺』に伝来していると理解できます。
 そもそも「橘皇后」が鐘をどこからか持ち込んだ理由というのもその音高が「黄鐘」という古律にかなった音高を発するものであって、「無常」を表すものであったからではないかと考えられます。
 彼女はその「無常」を体現するために死後埋葬されることを望まず、飢えた鳥獣に身を与えるという「風葬」あるいは「鳥葬」とでも言うべき扱いを遺詔したとされます。(実際に行われたようです。)そのような彼女であれば鐘の音(音高)にも「無常」が表現されるべきであったと考えても不思議はありません。それは「仏教寺院」における「梵鐘」の存在意義ともつながるものであり、仏教的には「無常」を表す音高を発することで「衆生」を済度するという目的があったものとみられます。そのため本来はそのような意図に適う鐘を新たに鋳造するはずであったものが、希望した音高が得られず、やむを得ず「どこか」から「黄鐘調」の音高を発する鐘を探し出してきたものと推測されるわけです。
 『徒然草』の記述でも「西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。」とあり、ここには「西園寺」(これは「西園寺公経」が「北山殿」に造った寺院を指す)の鐘を鋳造しようとしたものの「都」には「黄鐘調」で鋳造する技術がなくなっていたこと、それを「遠国」に求めたことが記されています。同様の事情がすでに「檀林寺」創建の際にも起きていたという可能性が考えられます
 一般に「梵鐘」は重量も大きくなり、運搬の難を考えるとその寺院の「近隣」で鋳造するのが通常であったものであるのに対して、「西園寺」の場合のように狙い通りの音高が鋳造できないからといって「遠国」までそれを求めるというのは、「黄鐘調」の音高を発する「梵鐘」がいかに都の近隣にはなかったかと言うことを示すものです。またこの「遠国」というのが「律令制」に言う「遠国」と一致するとはもちろん限りませんが(この「兼好法師」の時代には「律令制」はとうの昔に崩壊していたわけですから)、使用法としてはおよそ変らないものと思われ、明らかに「西海道」はその中に含まれています。仮にそれが同義ではなかったとしても「都」を遠く離れた場所を指すことは間違いなく、「寺院」が多く存在していた過去があり、また「古音律」に則った鐘が使用されていたという条件を満たす地域を探すと「西海道」つまり「筑紫」が該当する可能性が最も高いと思料します。(『徒然草』の中では例えば「東国」に関する記事では「東国」と明確に書かれており、「西園寺」に関する「遠国」という表記は「東国」とは異なることが推察されます。)
 このようなことから「檀林寺」創建においても「遠国」つまり「筑紫」から鐘を調達したものではないかと考えられますが、それはその鐘、つまり「妙心寺鐘」の「銘文」(以下のもの)からこれが「糟屋評」という「筑紫」の中心とも言うべき場所で鋳造されたものと推定されていることからも言えることです。

「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連広国鋳鐘」

 この銘によれば「戊戌年」つまり「六九八年」という年次に「糟屋評」の「評造」である「舂米(つきしね)連広国」が「鐘」を鋳造したとされています。ただしこの「舂米連広国」については「発願者」であり、「鋳造者」ではないという意見もあるようですが、「筑紫」には「弥生」以来「銅製品」を鋳造していた遺跡が豊富であり、この七世紀代においても銅鏡などの他、寺院で使用する銅製品などを製造する工房があったものと見られ、この「梵鐘」のような「銅製品」についてもそこで作製されたものと見ることは不自然ではありません。
 「筑紫」周辺の「旧倭国王権」時代の寺院は八世紀に入って「廃寺」とさせられたものが多かったとみられますから、元々この鐘が納められていた寺院にしても同様の運命となっていた可能性があり、そのような寺院から移されたものと見ることができるかもしれません。その寺院については、「檀林寺」が皇后の御願によって建てられたという事情から考えて、当然「梵鐘」についても「由緒正しい」ものでなければならなかったはずであり、「大宰府」近辺の「旧倭国王権」に近かった寺院が措定されるべきでしょう。

 ところでこの「檀林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように「尼寺」であったと思われます。

「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五条」「…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」(『文徳実録』より)

 ここでは「檀林寺」を創建した際に「比丘尼」を「持律者」として遣わし、また住まわせたとされていますから、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(これに関しては「唐」から「義空」という僧を招請し「壇林寺」に住まわせたとする記録もありますが、『元享釈書』などでは当初「義空」の来日時点では「橘皇后」がこの「檀林寺」に住していたように書かれており、創建時は確かに「尼寺」であったとみられます。後にそこへ「義空」が常住することとなったという経緯が考えられます。)
 この「檀林寺」が「尼寺」であるならば「鐘」がもたらされることとなった(筑紫の)元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性を考えるべきと思われます。その意味では『続日本紀』に「筑紫尼寺」という寺院の存在が明記されていることが注目されます。
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