古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊吉博徳」の官位について(改訂版)

2024年12月20日 | 古代史
 以前「伊吉博徳」の冠位の停滞について書きました。その記事を訂正して改めて提示します。訂正の主な点は「伊吉博徳」の政治的立場についての見解の変更です。以前は彼を旧倭国の関係者と看做していましたが、今回改めて検討した結果「難波日本国」の関係者であったが故に「天武(つまり薩夜麻王権)の元では冷遇されていたことが理由で昇進がなかったと見解を変更することとします。それは「難波日本国」(これは「唐」から見て「日本国」とされていた)と「筑紫日本国」(これが「唐」から見て「倭国」とされていたもの)という二つの「日本国」が存在していたという最近の研究成果を反映したものです。

 以前「貧窮問答歌」について考察しました。そこで「山上憶良」が「遣唐使」段階で「无位」であったのは「旧王権」に忠誠を示した結果であるとしました。その際「比較」として「伊吉博徳」について触れたわけですが、そこでも述べたように彼の「官位」の変遷については明らかな「停滞」があります。その点について述べてみます。

 「伊吉博徳」という人物が『斉明紀』に出てきます。彼は遣唐使団の一員として「六五九年」に派遣され、その時の一部始終を記録した「書」が『書紀』に引用されていることで知られています。そこに参加した時点の「官位」は不明です。(可能性としては「无位(無位)」であったかもしれません。) 
「白村江の戦い」後の「六六四年」に当時「百済」を占領していた唐軍の将である「劉仁願」の配下の人物である「郭務宋」が「表函」を提出した際の応対に「壱岐史博徳」の名前が見えています。彼はこのとき「筑紫太宰の辞」と称して「郭務悰」と対応しています。

「六六四年」「(天智三年)夏五月戊申朔甲子(一七日)、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰等を遣して、表函と献物を進る。」

さらに、この記事については『善隣国宝記』が引用する『海外国記』という書物に経緯がかなり詳しく載っています。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・『大乙中伊岐史博徳』・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 この記事を見ると、「郭務悰」については唐皇帝からの「正式」な使者ではないし、「書」も皇帝のからのものではない(「表」つまり「国書」ではない)と言うことで、受け取りと「倭国王」との面会を「拒否」しています。この時対応した人物として「伊岐史博徳」の名前が出ています。
 そしてその翌年に「劉徳高」や「郭務悰」などの唐国からの使者が「筑紫」に来た際に、彼らの帰還に併せて「守君大石等」が唐国に派遣されていますが、(六六七年になって)彼らの帰国を「劉仁願」の使者「司馬法聡」が「筑紫都督府」に送ってきた際の「返送使」として「司馬法聡」を送り返す役で「伊吉連博德」が登場したというわけです。

「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」

 この時点で「史」から「連」になっていることがわかりますが、また官位も「大乙中」から「小山下」に昇格しており、これは二十六階中十八位であり二階級特進となります。それはこの時の「唐使」との対応などに活躍したことが認められたものと思われます。
 それ以前(六五九年)に「遣唐使」として派遣されそれから八年後には「小山下」という官位に就いているわけですが、更にその後『持統紀』に「大津皇子」の謀反に連座したという記事があります。

「(六八六年)朱鳥元年九月戊戌朔丙午。天渟中原瀛眞人天皇崩。皇后臨朝稱制。
冬十月戊辰朔己巳。皇子大津謀反發覺。逮捕皇子大津。并捕爲皇子大津所■誤直廣肆八口朝臣音橿。『小山下壹伎連博徳』。與大舍人中臣朝臣臣麻呂。巨勢朝臣多益須。新羅沙門行心及帳内砺杵道作等卅餘人。
…丙申。詔曰。皇子大津謀反■誤吏民帳内不得已。今皇子大津已滅。從者當坐皇子大津者皆赦之。但砺杵道作流伊豆。又詔曰。新羅沙門行心。與皇子大津謀反。朕不忍加法。徙飛騨國伽藍。」

 これを見ると「伊吉博徳」と同一人物と思われる「壹伎連博徳」の官位が「小山下」とされ、十九年経過していても全く官位が加増されていないことに気がつきます。通常よほど不手際や失策などがない限り四年程度の期間を経ると一階程度の上昇があって然るべきですから、彼の場合は不審といえるでしょう。
 たとえば「當摩眞人國見」の場合を見てみると、「直大参」から「直大壱」まで十三年で上昇しています。

(六八六年)朱鳥元年…
九月戊戌朔辛丑。親王以下逮于諸臣。悉集川原寺。爲天皇病誓願云々。
丙午。天皇病遂不差。崩于正宮。
戊申。始發哭。則起殯宮於南庭。
辛酉。殯于南庭即發哀。當是時。大津皇子謀反於皇太子。
甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次『直大參』當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。

(六九七年)十一年…
二月丁卯朔甲午。以『直廣壹』當麻眞人國見爲東宮大傅。直廣參路眞人跡見爲春宮大夫。直大肆巨勢朝臣粟持爲亮。

(六九九年)三年…
冬十月…
辛丑。遣淨廣肆衣縫王。『直大壹』當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。

 この間の位階数は四段階であり(直大参-直廣弐-直大弐-直廣壹-直大壹)それであれば十三年という年数はそれほど不審ではありません。このような官位の加増の程度と比べると「伊吉博徳」の十九年間の官位の停滞は、海外使者の送使という重要任務を果たしていることを考えると疑問が出る所です。しかも官位が上昇していないのは実際にはこの期間を超えているのです。それは「六九五年」に「遣新羅使」として派遣された際の官位に現れており、そこでは「務大貳(弐)」とされていますが、この官位も「小山下」とほぼ同じレベルのものなのです。

「(六九五年)九年…
秋七月丙午朔…
辛未。賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野。『務大貳』伊吉連博徳等物。各有差。」

 ただしこの間「大津皇子謀反」という事件に「連座」するという失態を犯していますから(「赦免」はされたものの)、そのために昇格が遅れたとも考えられる部分はありますが、その後「新羅」への使者という重責を担っていることもあり、朝廷内では「外交のベテラン」としての地位が失われたわけではないことがわかります。しかしそれでも「六六七年」から「六九五年」までの合計「二十八年間」全く官位が上昇していないこととなり、これはかなり異常な事態と言うべきではないでしょうか。しかもその後今度は「急上昇」ともでも言うべき「官位」の増加が記録されています。
 彼はこの『持統紀』の遣新羅使としての任務帰朝後「律令」の撰定という国家的任務に従事し褒賞を得ており、その段階で「從五位下」という位階であったことが知られています。

(七〇一年)大寳元年…
八月…癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。

「小山下」と「務大貳」はほぼ同レベル(七位クラス)と思われますから、「従五位下」という官位までには「十一段階」ほどの上昇が必要です。これはその期間である「六年」という年数を考えると、今度は逆に異常な出世と言うべきでしょう。
 同じ「遣新羅使」として一緒に派遣された「小野朝臣毛野」の場合、この派遣の際に「直廣肆」であったものが死去した際には「従三位」という官位に上がっています。彼の場合は「十九年」に「八段階」ほどの上昇となり、「遣新羅使」という重責を担った後に多少の位階上昇が「褒賞」として与えられたとみれば自然なものといえます。しかし「伊吉博徳」の場合はそれと比べても急激な位階の上昇といえるでしょう。このことはそれ以前の長期の「停滞」が何か重要な意味を持っていることを想起させます。

 そもそも「伊吉氏(壱伎氏)」は「天武紀」において「史」姓から「連」姓への(他の多くの氏族と共に)改姓されています。

「(六八三年)十二年…
冬十月乙卯朔己未。三宅吉士。草壁吉士。伯耆造。船史。『壹伎史。』娑羅羅馬飼造。菟野馬飼造。吉野首。紀酒人直。釆女造。阿直史。高市縣主。磯城縣主。鏡作造。并十四氏。賜姓曰連。」

 確かに「壬申の乱」記事において「壱伎史韓国」という人物が「近江朝廷」の側の武将として活躍しており、その点「連姓」を賜与された年次とは齟齬していません。しかし「博徳」の場合は「改姓」年次である「六八三年」以前の「六七六年」という時点ですでに「連」が付与されて記述されています。

(再掲)
「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」

 しかし、ここで「伊吉博徳」と一緒に派遣されている「笠臣諸石」についてはその後行われた「八色の姓」制度により「臣」から「朝臣」へと改姓されていますが、この「六六七年」という時点での「姓」としては齟齬がありません。

「(六八四年)十三年…
十一月戊申朔。大三輪君。大春日臣。阿倍臣。巨勢臣。膳臣。紀臣。波多臣。物部連。平群臣。雀部臣。中臣連。大宅臣。栗田臣。石川臣。櫻井臣。采女臣。田中臣。小墾田臣。穗積臣。山背臣。鴨君。小野臣。川邊臣。櫟井臣。柿本臣。輕部臣。若櫻部臣。岸田臣。高向臣。完人臣。來目臣。犬上君。上毛野君。角臣。星川臣。多臣。胸方君。車持君。綾君。下道臣。伊賀臣。阿閇臣。林臣。波彌臣。下毛野君。佐味君。道守臣。大野君。坂本臣。池田君。玉手臣。『笠臣』。凡五十二氏賜姓曰朝臣。」

 なぜ「博徳」の場合「改姓」に先立つ時点ですでに「連」姓となっているのでしょうか。なぜ位階の上昇が不自然なのでしょうか。
 これについては「山上憶良」の位階上昇と比較するとわかりやすいかもしれません。彼も「遣唐使」として派遣された段階で「無位」であったものが「従五位下」まで位階が上昇し「東宮侍従」等要職を歴任した後「筑前国守」として赴任している実態があります。

「大寶元年(七〇一年)春正月乙亥朔丁酉条」「以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。爲遣唐執節使。左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲大使。右兵衛率直廣肆坂合部宿祢大分爲副使。參河守務大肆許勢朝臣祖父爲大位。刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲中位。山代國相樂郡令追廣肆掃守宿祢阿賀流爲小位。進大參錦部連道麻呂爲大録。進大肆白猪史阿麻留。无位山於億良爲少録。」

「(和銅七年)(七一四年)春正月壬戌。二品長親王。舍人親王。新田部親王。三品志貴親王益封各二百戸。從三位長屋王一百戸。封租全給。其食封田租全給封主。自此始矣。
甲子。授正四位下多治比眞人池守從三位。无位河内王從四位下。无位櫻井王。大伴王。佐爲王並從五位下。從四位下大神朝臣安麻呂從四位上。正五位上石川朝臣石足。石川朝臣難波麻呂。忌部宿祢子首。正五位下阿倍朝臣首名。從五位上阿倍朝臣爾閇並從四位下。從五位上船連甚勝正五位下。正六位上春日椋首老。正六位下引田朝臣眞人。小治田朝臣豊足。『山上臣憶良。』荊義善。吉宜。息長眞人臣足。高向朝臣大足。從六位上大伴宿祢山守。菅生朝臣國益。太宅朝臣大國。從六位下粟田朝臣人上。津嶋朝臣眞鎌。波多眞人餘射。正七位上津守連道並從五位下。」

「(靈龜)二年(七一六年)…
夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。『從五位下山上臣憶良爲伯耆守。』正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。」

「(養老)五年(七二一年)春正月戊申朔…
庚午。詔從五位上佐爲王。從五位下伊部王。正五位上紀朝臣男人。日下部宿祢老。從五位上山田史三方。從五位下山上臣憶良。朝來直賀須夜。紀朝臣清人。正六位上越智直廣江。船連大魚。山口忌寸田主。正六位下樂浪河内。從六位下大宅朝臣兼麻呂。正七位上土師宿祢百村。從七位下塩家連吉麻呂。刀利宣令等。退朝之後。令侍東宮焉。」

 この「憶良」の位階上昇とよく似ている気がするのです。
 「山上憶良」の場合には元「倭国」つまり「筑紫日本国」の官僚であったものが(地震の影響の評価をするための使者として諸国に派遣されたもののひとりであったと推定しています)、一旦新日本王権への態度などから「冷遇」されていたと考えたわけですが、「伊吉博徳」の場合には少々異なる事情があったとみられます。例えば「連」姓を以前から名乗っているわけですがこれは「難波日本国」からの下賜であったと見るべきものです。
 「伊吉博徳」は「日本国」からの「遣唐使」として帰国後「朝倉朝廷」から「寵命」を受けられなかったと『書紀』に書かれていますが、これは「朝倉朝廷」というものが「百済を救う役」終了後の「筑紫日本国」の代行としての朝廷であった可能性があり、「薩夜麻」捕囚後の「筑紫日本国」の「留守居役」としてのものであった可能性があります、とすれば彼らに「褒賞」としての「官位」の増加などが与えられることはなかったと思われ、その後の昇進にブレーキがかかるひとつの理由であった可能性があります。
 「伊吉博徳」達の遣唐使団は「倭国」つまり「筑紫日本国」と一緒に(あるいは合同として)行動しており、イニシアチブは「筑紫日本国」側にあったとみられ、彼らが選んだルートで唐へ向かったとみられます。「筑紫日本国」は「新羅」との関係が悪化しており、「新羅」を経由するルート(「北路」と称する)ではなく「東シナ海」を横断するルートを選んでいます。そして「洛陽」において「唐」官憲の尋問を受けた中で「倭種韓智興の供人西漢大麻呂」から「讒言」されたことから彼ら「両日本国」の使者は各々「洛陽」と「長安」に別々に幽閉され、その間に「百済」滅亡という事態が発生したわけです。帰国後の「朝倉朝廷」はいわば「臨時」の朝廷であり、緊急事態に対応するために急遽仕立てられたものと思われます。彼らは「薩夜麻」率いる「筑紫朝廷」と基本的に同じ立場であり、「博徳」達とは異なる立場であったものであり、「難波日本国」としての彼等に対して厳しい態度であったのも当然と思われるわけです。
 「博徳」の昇進が停滞している時期はちょうど「薩夜麻」帰国以降に当たっており、「薩夜麻」帰国時点ではすでに「難波日本国」が列島全体に対して統治行為を行っていたと思われ、その出先としての「筑紫」に置かれた「都督府」高官として彼は存在していたと見られる訳ですから、その彼に対してその後の「薩夜麻王権」から冷遇措置があったとして不思議ではありません。(ちなみに彼と一緒に遣唐使として派遣された「津守連吉祥」も「都督府」高官として存在しています)
 彼は「壬申の乱」では記事中に戦いに参加してるようには書かれていませんが、彼の同族と思える「壹伎史韓國」は「近江方」として参加ししているようで、大坂に陣があったように書かれています。
 少なくとも彼も「難波日本国」としての「遣唐使」であったとみられますから、本来「近江方」であるはずですが、理由は不明ですが戦いには参加していないように見えます。推定される理由として彼はこの戦いが発生する時点でまだ「筑紫」にいたため戦いに参加できなかったという可能性があり、当時筑紫大宰として存在していたという「栗隈王」が彼の行動を制限していたということも考えられます。
 「唐」においても「都督府」には最終的には「現地」の有力者を「都督」とするという原則があったようですから、一時的に「難波日本国」の高官としての「蘇我赤兄」が「筑紫大宰」であったようですが、それも在地有力者としての「栗隈王」に変わっていたものと思われます。その時点でいわば「目付役」として「博徳」が「筑紫」にそのまま残っていたという可能性があると思われます。
 「博徳」は「唐」が「薩夜麻」を再度列島全体の統治者としようとしていたことは承知しており、それが「唐」の意志である以上反対することはしなかったとも考えられ、「唐」の意志が実行されるよう「薩夜麻」をサポートしていたものではなかったでしょうか。ただし軍事行動には、それが戦乱となると双方に傷が残ることから反対していたと思われ、それを双方が振り切ってた戦いに発展したことを憂いていたものであり、どちらかの立場に立つことをしなかったものと思われます。
 「栗隈王」は「大海人」つまり「薩夜麻」と懇意であったという趣旨の記事が『書紀』にありますから、「乱」発生時点での立場は「薩夜麻」寄であったものであり、その意味でも「博徳」は「筑紫」から動くことができなかったと考えます。
 いずれにせよ、彼は「難波日本国」の人間であり、このような理由から「薩夜麻」が再度最高権力者となった時点以降疎まれていたという可能性があります。「大伴部博麻」がなかなか帰国できなかったのと同様に彼もなかなか昇進できなかったということではなかったでしょうか。
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