古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「那須直韋提の碑文」について(四)

2017年09月10日 | 古代史
 この「永昌」改元はその前年の「六八八年四月」に「唐」の「洛水」から「聖母臨人 永昌帝業」と書かれた「図」が出たことを記念したものです。(ただし、これは言ってみれば「武則天」の「詐欺」のようなものでしたが)
 そして、この「改元」に先だって「六八八年五月」に「内外」に「祝賀の儀」への参加の「招集」が「詔」として発せられたようです。

「五月戊辰 詔當親拜洛,受寶圖有事南郊告謝昊天。禮畢御明堂朝羣臣。命諸州都督刺史及宗室外戚 以拜洛前十日集神都。」(『資治通鑑』による。)

 同様のことが『旧唐書』にも書かれています。

「其年五月下制 欲親拜洛受寶圖。先有事於南郊告謝昊天上帝。令諸州都督刺史并諸親 並以拜洛前十日集神都。…」

 これによれば「拜洛」の「十日前」には「神都(洛陽)」に集合しなければならないとされています。これは結局同年十二月(二十五日)のことであったものであり、これに合わせ「都督刺史及宗室外戚」が「洛水」に集められ、「武則天」が「圖」を「拝」するのに「内外百官」が陪従したとされています。

「十二月己酉(二十五日) 太后拜洛受圖 皇帝皇太子皆從 内外文武百官蠻夷各依方敍立 珍禽奇獸雜寶列於壇前 文物鹵簿之盛 唐興以來未之有也。」(『資治通鑑』による。)

『旧唐書』にもほぼ同様の記事があります。
「至其年十二月,則天親拜洛受圖 為壇於洛水之北中橋之左。皇太子皆從 内外文武百僚蠻夷酋長各依方位而立。珍禽奇獸並列於壇前。文物鹵簿自有唐已來未有如此之盛者也。」

 ここでは「内外文武百官蠻夷」や「内外文武百僚蠻夷酋長」という表現があり、結局「唐」国内だけではなく、周辺諸国にも「招集」がかかり、かなりの数の「祝賀使」が集められた様子が窺えます。この頃の「唐」の「勢威」はかなり強く、また「武則天」の性格から考えてもこのような祝賀のセレモニーが「大々的」に行われたであろう事は想像できるものであり、「唐興以來未之有也。」つまり、唐が興って以来今まで見たことがないぐらいだ、というわけですから、想像を絶するものであったと思われます。
 このセレモニーの「蠻夷酋長」に「海外諸国」が入っていないと考える理由は見あたらず、前年の五月に「招集使」が内外に派遣された際、「倭国」にも「使者」が来たのではないかと考えられます。そして「倭国」でもそれに対応するため急ぎ使者を派遣したのではないでしょうか。
 この時の使者が派遣されたとすると、これは単なる「祝賀使」であり、「献上物」の持参と儀式への参列のみ行ったものと考えられます。このため、唐側資料にも倭国側資料にも記載されていないのでしょう。(これは他の夷蛮諸国も同様ですが)
 そしてそれから数日後の「六八九年」の「正月」に「永昌」と改元されるわけです。

「永昌元年正月乙卯(朔日),享于萬象神宮,大赦,改元,賜酺七日。」(『新唐書/本紀 第四/則天順聖武皇后 武曌/永昌元年』より)

 「祝賀使」はこの「改元」を見届けたものと思料され、帰国したこの「祝賀使」からは「朝廷」に対して詳細な報告があったものと思われます。その報告の中には「武則天」に招集され「洛水」に集まった各国からの献上物の量とその内容、さらに直後に完成した「明堂」の規模と絢爛豪華さ。(高さは90m程度と推定されています)それらが報告されたものと推察されますが、さらに、「武則天」からは「封国」でない諸外国に対しても、「永昌」という年号を使用せよ、という言葉があったのではないかと推察されます。
 むろん「封国」ならばそうすべきですが、「柵封」されていたわけではない国々に対しても同様の「強い要請」が「武則天」からあったのではないかと思われ、「倭国朝廷」はこの「武則天」の「勢威」に押され、あるいは「怯え」、「永昌年号」を「正式文書」に使用することとしたのではないでしょうか。

 このように「祝賀使」の報告を受け、朝廷内部の公的文書に「唐」の年号を使用することとなり、「評督」任命の公文書に「永昌元年」という年号が書かれることとなったとすると(「碑文」に書かれた「永昌元年四月」はここまで「朝庭」からの文書にあったとみるべきです)、それが記載された文書が彼の元に届いたのは「六八九年四月」以降のこととなるでしょう。いずれにしても「唐」から帰国してすぐに公文書が書かれたこととなり、かなり「慌ただしい」事とは推察されますが、決して不可能ではないと思われます。(倭国内に頒布された暦に「永昌」という年号が記載されていたかは不明ですが、その可能性は否定できないと考えています。)
 そしてこの時「武則天」が「周」の古制に復帰するとして「周正」つまり「十一月」を最首とするという改定をするわけですが、その情報もこの「改元」の時点ですでに関係者には伝えられていたのではないかと考えられ、それも倭国に情報として伝えられたということが想定できます。(続く)
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