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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大伴部博麻」の「三十年」の拘束の理由(三)

2013年12月23日 | 古代史

 この「大伴部博麻」達は既に考察したように、「百済」の国内のどこかに「収容」されていたものと推察されます。
 このように「百済」からの帰国と仮定すると、その道のりは「魏志倭人伝」に書かれた「魏使」の行程と余り違わないかもしれません。そうであればその行程としては「陸行一月」程度以内及び「水行」は実質的には「数日」でしょう。「魏使」の場合は「帯方郡」からですから、水行期間が長かったと考えられますが、「百済」からだとするとほとんど「陸行」と考えられます。
 時も場所も違いますが、「古代ローマ」での「奴隷」の売買の相場は「年収」程度の金額が相場であったようです。
 仮に「大伴部博麻」が(彼は「奴隷」つまり「」となったわけではないと思われますが)体を売って得た金額が「百済」での「年収」分と考えると、その金額は上に述べた帰国行程から見て「二人分」の「帰国費用」としては多すぎるぐらいではないでしょうか。
 このことは実際にはもっと少ない金額で帰国できた可能性を考えさせ、そうであればその返済期間に自分自身の帰国費用の工面に要する期間を加えたとしても、「三十年」は余りに長いと考えられるものです。
 もし仮に「百済」の平均年収程度を借り入れたと想定しても、「十年程度」で返済可能ではないかと思料します。本来労働で得られるはずの収入の20パーセント程度を返済に充てることは可能と思われるものの、実際の労働対価がもっと低い可能性があるためせいぜい10%程度を返済に充てるとすると返済終了まで10年掛かる計算となります。(当然「逃亡」されては困る訳ですから、自由は拘束されているという仮定です、つまり家賃、食費はそこから天引きされると見る訳です)
 そして「自分自身」の帰国費用の捻出に更に「五年」程度かかると想定した場合は「十五年」、これをいくらか「辛く」考えても「二十年」ぐらいの期間があれば帰国可能となると思われ、「三十年」という長期の滞在期間には「不審」が感じられるものです。
 また、天武紀には「遣新羅使」が数多く送られており、これを利用することはそんなに難しくなかったものと思われ、それにも関わらず帰ってこれなかったということには何らかの「理由」があったと考えられます。
 つまり、三十年も滞在が長期化した理由は「別」にあるのではないかと推察され、考えられるのは「政治的」なものではなかったでしょうか。つまり、彼は「薩耶麻」の生存中は、その帰還が「許されなかった」のではないかと思えるのです。

 「大伴部博麻」は「六九〇年」になって「新羅」の船で帰国していますが、これは「薩耶麻」の死去の話を聞いて帰国したのではないかとは考えられないでしょうか。
 彼の存命中に「大伴部博麻」が帰国すれば、「部下を売って帰国した」と「薩耶麻」にとっては印象の悪い話を流布される可能性があり(事実であったかはともかくとして)、それははなはだ「不名誉」な事であり、民意が離れていく事を懸念したのではないかと思われます。
 そうでなければ、「薩耶麻」達(土師連富杼等)は自らが帰国した後、「大伴部博麻」の救済措置を講じなかったはずはないと思われます。彼の献身に酬いるためにも彼を捜し出し、借金を返済し帰国させることはいくらでも可能であったはずです。現実はそれが行なわれなかったことを示している訳ですから、彼の帰国には別の意味の重大な支障があったことを示します。

 そもそも「郭務宗」と同行している、という事は「郭務宗」はこの「薩耶麻」という人物について「熟知」していたと考えられるものであり、「薩耶麻」が「筑紫君」であること、「書紀」には記載がないものの、推測によれば「倭国王」であり、少なくとも「百済遠征軍」の将軍の一人であったことなどです。
 このような「高官」であるからこそ、「郭務宗」が「来倭」する際に「薩耶麻」を利用したわけです。
 彼の発言や行動あるいは指示が「倭国」では有効であることを承知していたからこそ、同行させたと考えられ、逆に言えば「薩耶麻」の存在が「倭国内」で重要であることが推察されるものです。

 また「彼は」「筑紫の君」という立場でしたが、「大伴部博麻」は「筑後の軍丁」ですから、「薩耶麻」の部下であったわけであり、(だからこそ主君のために体を売ろうとしたと考えられますが)彼「大伴部博麻」に「薩耶麻」の立場を悪くするような「証言」ができるわけもないわけで、彼(薩耶麻)がその後も生きていたであろう事は間違いないことと考えられことから、彼のために「体を売った」とされる「大伴部博麻」が帰国できる条件が整わなかったものと考えられます。
 逆に言うと「博麻」の帰国が叶ったと云うことは、この時点付近で「薩夜麻」が死去したという可能性を考えさせるものであり、帰国年次の「六九〇年」という年次にかなり接近した年まで生存していたことが推定されるものです。そして、「やっと」帰って来ることができた「大伴部博麻」は「捕囚時」のことを話したのでしょう。やっと真実を話す事ができるようになったという訳です。

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