古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『隋書』に見える倭国の諸風俗について

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』では『魏志倭人伝』と同様「氣候温暖、草木冬青」とあり、また「人庶多跣足」とありますから、冬でも滅多に雪が降らず、「裸足」でも歩けるような温暖な気候であるように書かれています。これも「近畿」というより「九州」の中部以南の方が明らかに似つかわしいと思われます。
 しかも「筑紫」つまり現在の福岡県付近は冬季かなり降雪が見られ、「草木冬青」というにはやや抵抗がありますから、これは「熊本」「宮崎」という九州島でも南半部を想定した方が合致していると思われます。
 
 また婚姻に関する風俗で「嫁に入るときはまず『火』を跨ぐ」という風習が書かれていますが、婚姻儀礼には、しばしば祓(はら)い清めの意義をもった呪術的儀礼が伴っていた事を物語るものです。
 現代は同じような風習はさすがに残っていませんが、古代でこの「嫁入りの時に火をまたぐ」という習俗が集中的に分布していた「関東地方」と「長野県」では、それに加えて左右に掲げられた松明の間を花嫁にくぐらせる形式の儀礼も行われていました。
 これは「文化のドーナッツ現象」とでも言うべきものであると思われ、「地方」である「関東」や「信州」地方に遺存している文化は本来「筑紫」の文化であったと思われ、それは「諏訪」と「宗像」の関係を考えると分かることでもあります。

 また、「筑紫」など同様「君」姓である「上毛野氏」の存在があります。彼等は後の「百済」への軍派遣の際にも関東から唯一の勢力として「将軍」として派遣されるなど、「王権」との距離がよほど近かったと思われ、「風俗・習慣」などにおいても共通のものがあったと考えられます。
 またこの風習は中国東北地区の満州族の間にもつい最近まで行われていたという研究もあり、「北方系」の習俗のようでもあります。このようなものは「新羅」を通じて伝わったものではないかと考えられ、「筑紫」を含め、これらの地域と「新羅」の関係を考えさせるものです。

 また「毎至正月一日、必射戲飲酒」とあり、「大射礼」が行われていたようです。これは一種の矢当てコンテストであり、後の「筑紫」宮殿以降の宮廷でも熱心に行われ、かなり賑やかな催しであったようです。
 これが行なわれた日付は「一日」とされていますが、後の宮廷行事としての「射礼」はおよそ「十七日」前後の日付が選ばれていたようであり「八世紀」以降は正式に「十七日」となったとされます。
 ちなみに『書紀』で「射礼」記事が出てくるのは「大化二年」記事が最初であり、以降「不連続」に現れます。この『隋書俀国伝』記事によればもっと早期から行なわれていたようにも見られ、「七世紀前半」の「空白」が理解しにくいところです。これについても『書紀』の記事には「移動」が考えられるものであり、本来の年次はもっと早かったのではないかと考えられます。
 この「射礼」は当初は「ゲーム」的感覚であったようですが、後には「軍事的緊張」が高まると、実戦的なものとなったと見られ「命中率」に応じて褒賞が出るなど、競争的雰囲気の中で行なわれるようになった模様です。

 また「節」の行事は「中国と同様」であるとされています。

「…其餘節略與華同。」

 つまり「三月三日」などの節句についても「隋」との交流以前から倭国には浸透していたものと思われ、倭国としてはごく普通の年中行事であったものと思われますが、上の「毎至正月一日、必射戲飲酒」という記事と合わせて、この時点で「倭国」では「俗」つまり「大衆」においても「暦」が使用されていたことが明確となります。暦がなければ「正歳四節」を知ることはできません。『倭人伝』ではその「正歳四節」がわからなかったとするわけですが、さすがに「六世紀」も後半には日常の行事として「節句」が浸透していたものであり、そのことは「倭の五王」の時代に「元嘉暦」が伝わり、倭国で使用されていたとする考察とも矛盾しないものです。ただしこの時の暦がどのようなものであったかは不明ですが、「倭の五王」以来の「元嘉暦」であったと考えるのが最も自然といえるでしょう。

 また「食事」の際の方法として「藉以柏葉、食用手餔之。」と書かれており、「柏」の葉っぱで食事をしていたことが書かれています。
 後に「有馬皇子の乱」事件の際に、捕らえられた有馬皇子が刑場に連行される途中詠んだという「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」という「辞世」の歌がありますが、この時代になると「笥」という食器に盛っていたようです。これは「遣隋使」などが持ち帰った知識を導入したものと思われます。しかし、宮廷で「食事」を担当する人の職掌を「膳部」と書いて「かしわで」と読むなど、名称としてはその後も遺存したことがわかります。
 
 また、「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」と書かれており、活発な半島との接触が書かれているようです。ただしこれは「倭国」からの使者の話の中に出てくるものと思われますから、全て事実と考えるのは早計であり、ある程度身びいきがあったと考える必要があるでしょう。
 また、ここには「高句麗」との関係が書かれておらず、関係が疎遠であった可能性を示唆しますが、それは「元興寺」の丈六仏を造る際に「高麗」から「黄金三百二十両」を調達したという『書紀』の記事と明らかに反するものです。これはその「大興王」が本当に「高麗王」なのかという点で疑問が惹起されることはすでに述べました。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/07/08)(ホームページ記載記事に加筆)


コメント    この記事についてブログを書く
« 「入れ墨」について | トップ | 『隋書』に出てくる「倭語」... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古代史」カテゴリの最新記事