古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「天智」と「受命改制」

2024年08月12日 | 古代史
 中国では「天子が『天命』により交替した場合は国家の制度も変わる」という考え方があり、これを「受命改制」と言いました。
 ですから、単なる親と子の間の継承ではない場合など、通常の形態ではない王朝交替があったときは「受命」があった(天命を受けた)と解釈することになります。一種の言い訳として使用されているわけですが、この際「前王朝」の各種制度は基本的に改変されます。
 「受命」があった場合「改制」されるものとしては以下のものがあります。
 ①「国号変更」
 まず第一に「国号」(王朝名)が変更されます。「国号」はその天子の理想を反映したものであるべきであり、天命により天子が替わったのですから、国号も変更されて当然です。「王朝」交替で国号が変更されなかったことはありません。
 ②「改暦」
 続いて「改暦」が行われます。天体の運行は「天帝」の命令そのものであり、その異常、つまり天体の運行を正確に予報できないことは即座に自分自身の「天命」が尽きることを意味します。「暦」は地球の自転、公転、月の公転など天体の運行を正確に把握しなければ作成できないものなのですから、正しい「暦」を造ることがまず「天子」の重要な仕事となります。
 ③「前史」作成
 さらに「前史」、つまり「前王朝」の(までの)史書を著します。これは、正常ではない王朝交替であることを「粉塗」するため、あるいは大義名分を「誇示」、「保持」するために「前王朝」の治績などについての史書をつくるわけです。たとえば、「隋書」は「初唐」に書かれ、「旧唐書」は「北宋」の時代に書かれています。三国志は「魏」の正当であることを記述していますが、書かれたのは次の「西晋」の時代です。「漢書」は「前漢」についての史書ですが、「後漢」の時代に書かれたものです。
 しかし、全ての場合「前王朝」を「批判」する、というわけではありません。
 通常でない王朝交替には「禅譲」「奪取」「打倒」などがあり、たとえば「魏」から「晋(西晋)」などは「一応」「禅譲」ですが内実は「奪取」に近いものがあります。また「隋」から「唐」は「奪取」ないし「打倒」でしょう。隋皇帝「煬帝」はクーデターにより「殺された」のです。殺した将軍が「李淵」であり彼が「唐の高祖」となったのです。その「唐」から「宋(北宋)」へというのは「奪取」であると思われます。
 このように王朝交替の内実は様々であり、「禅譲」であった場合は「前王朝」への強い批判は避けられます。というよりむしろ「賞賛」されることもあります。『三国志』などがそうでしょう。「魏」は正当な王朝であることを示すために書かれた『三国志』では「魏」は賞賛され、「呉」や「蜀」はけなされています。それに対し、「隋」を打倒して造られた「唐」により書かれた『隋書』では、特に皇帝「煬帝」は嫌われています。「徳」のない、好戦的で横柄な「暴君」として書かれています。このようにパターンはいくつかありますが、前史を著すことが自王朝(新王朝)の大義名分に繋がる、という点では一致しています。

 ④「制度」改変
 さらに、「前王朝」の政治に「非」がある場合は、「制度」にも問題がある場合も多く、それらを継続する事は避けられるのが通常です。たとえば、「律令」の改変、官僚の制度や行政制度の変更などが行われる場合が多く見受けられます。たとえば「隋」は南朝「陳」を滅ぼして、統一国家を作りましたが、それまでの「州-郡-県」制度を改め、「県」を「州」の直轄とすることとし、「州-県」制に変更しました。

 これらの事がほぼ同時に行われているようであれば、「受命」があり、それに伴う「改制」が行われたと判断される訳です。その意味で「天智」の場合が注目されます。
 ①「受命」の有無
 『書紀』には「天智天皇」が「天命」を受けたと思われる記述があります。「天命将に及ぶか」という言葉が彼の近江への遷都の後に使用されています。

「六六八年」(天智七年)「秋七月。高麗從越之路遣使進調。風浪高故不得歸。以栗前王拜筑紫率。于時近江國講武。又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至。又饗夷。又命舍人等爲宴於所々。時人曰。天皇天命將及乎。」

 「大系」の読み下しではこれを「みいのちまさにおわりなむとす」と読んでいますが、この読みは無理でしょう。そうは決して読めるものではありません。これは明らかに「天智」に「天命」が「及んだ」と言うこと以外を意味しないものと思われます。
 『隋書』の「隋」の「文帝」についての記事に同様に「天命將及乎」が使用されており、その後「隋」が建国されていますから、この用語が使用される状況も共通していたと見るべきでしょう。
 漢詩集『懐風藻』の「序」にも「及至淡海先帝受命也 恢開帝業云々」という文章があり、「天智天皇」が「受命」した、と書かれています。
 また、『書紀』の天王の治世を示す用語としては「御宇」「治天下」「御寓」など各種の用法が確認されますが、「天智」以降は「御宇」で統一されています。それ以前は「治天下」が使用されており(ただし「孝徳」の詔の中にだけ「御寓」が現れます。これについては別に述べます)、『書紀』の編者は「天智以前」と「以後」を明確に区別して書いていることになるでしょう。
 このことは彼の諱「天命開別」というのにも現れています。「天命」により「別国」を「開いた」という名称になっているのです。これらのことから「天智天皇」が「日本国」王朝の初代王であり、「倭国王朝」を見限って近江に建国した人物、ということができるでしょう。(続く)
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