古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭王権と「飛鳥」

2024年08月10日 | 古代史
以前(2021年3月)投稿した論を再度提示します。現在考慮中の案件との関係でやや関係があると思われるものです。

評木簡には数種類ありますがこれは「時期の違い」と考えられます。一つは「評」から始まるもので「国」も「年次」も書かれないものです。その中でも「五十戸」表記があるものと「里」表記のものがあります。

「評」から始まるもので「五十戸」制
三方 評 耳五十戸土師安倍→? 031 荷札集成-132(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
湯 評 大井五十戸凡人部己夫 011 飛鳥藤原京1-109(荷札 飛鳥池遺跡南地区

「評」から始まるもので「里」制
三方 評 竹田部里人粟田戸世万呂塩二斗? 031 荷札集成-135(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
板野 評 津屋里猪脯 032 荷札集成-232(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区

二つ目は「国名」が「前置」されるものです。(ただし「干支」は前置されない)
これも「五十戸」が表記されるものと「里」のものとあります。

「国」が前置されるもので「五十戸」制のもの
遠水海国長田 評 五十戸匹沼五十戸野具ツ俵五斗 051 荷札集成-62(木研25-4 飛鳥京跡苑池遺構
高志国利浪 評 ツ非野五十戸造鳥 081 荷札集成-141(木研25- 飛鳥京跡苑池遺構

「国」が前置されるもので「里」制のもの
妻倭国所布 評 大野里 081 荷札集成-3(木研5-81 藤原宮跡北辺地区
海国長田 評 鴨里鴨部弟伊同佐除里土師部得末呂 081 荷札集成-63(木研5-82 藤原宮跡北辺地区
吉備中国下道 評 二万部里多比大贄 031 荷札集成-223(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
上毛野国車 評 桃井里大贄鮎 031 荷札集成-110(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
三川国波豆 評 篠嶋里大贄一斗五升 031 荷札集成-53(木研5-85 藤原宮跡北辺地区

三つめが「年次」(干支)が冒頭に書かれるものです。

「干支」が前置され「国」も書かれるもので「五十戸」制のもの
乙丑年(665)十二月三野国ム下評 大山五十戸造ム下部知ツ従人田部児安 032 荷札集成-102(飛20-29 石神遺跡
乙亥歳(675)十月立記知利布 五十戸 止下又長部加小米 081 木研27-39頁-(46)(飛1 石神遺跡(ただしこれは「国」名が書かれていない)
丁丑年(677)十二月三野国刀支 評 次米恵奈五十戸造阿利麻舂人服部枚布五斗俵 032 飛鳥藤原京1-721(荷札 飛鳥池遺跡北地区
丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利 五十戸 人物部古麻里? 031 飛鳥藤原京1-193(荷札 飛鳥池遺跡北地区
戊寅年(678)四月廿六日?富 五十戸 大 039 荷札集成-87(木研26-2 石神遺跡 (ただしこれは「国」名が書かれていない)
戊寅年(678)十二月尾張海評津嶋 五十戸 韓人部田根春舂赤米斗加支各田部金 011 荷札集成-22(木研25-4 飛鳥京跡苑池遺構(ただしこれは「国」が省略されている)
庚辰年(680)三野大野評大田 五十戸 ?部稲耳六斗(〈〉)(裏面(〈〉)削り残 033 荷札集成-92(木研27-3 石神遺跡
辛巳年(681)正月生十日柴江 五十戸 人若倭部?◇三百卅束若倭部〈〉◇ 011 木研30-198頁-(1)(伊 伊場遺跡 (ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
辛巳年(681)鰒一連物部 五十戸   032 木研30-14頁-(14)(飛2 石神遺跡(ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
辛巳年(681)鴨評加毛 五十戸 矢田部米都御調卅五斤 032 荷札集成-68(木研26-2 石神遺跡(ただしこれは「国」名が書かれていない)
丙戌年(686)月十一日大市部 五十戸 人 019 荷札集成-38(木研27-3 石神遺跡(ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
丁亥年(687)若狭小丹評木津部 五十戸 秦人小金二斗? 031 飛鳥藤原京1-18(荷札 飛鳥池遺跡南地区(ただしこれは「国」が省略されている)

「干支」が前置され「国」も書かれるもので「里」制のもの
癸未年(683)十一月三野大野 評 阿漏里阿漏人白米五斗? 059 荷札集成-91(飛20-27 藤原宮跡大極殿院北方 (ただしこれは「国」が省略されている)
甲申年(684)三野大野 評 堤野里工人鳥六斗 032 荷札集成-95(木研26-2 石神遺跡
乙酉年(685)九月三野国不→ 評 新野見里人止支ツ俵六斗? 011 荷札集成-88(飛20-30 石神遺跡
戊子年(688)四月三野国加毛 評 度里石部加奈見六斗 011 荷札集成-103(木研25- 飛鳥京跡苑池遺構
庚寅年(690)十二月三川国鴨 評 山田里物部万呂米五斗 032 荷札集成-46(飛20-30 石神遺跡
辛卯年(691)十月尾治国知多 評 入見里神部身〓三斗 032 荷札集成-33(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区(ただしこれは「国」名が書かれていない)
甲午年(694)九月十二日知田 評 阿具比里五木部皮嶋養米六斗 031 荷札集成-32(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
丙申年(696)七月三野国山方 評 大桑里安藍一石 031 荷札集成-101(飛20-28 藤原宮跡内裏・内裏東官衙地区
丁酉年(697)月〈〉〈〉 評 野里若倭部〈〉? 031 荷札集成-120(飛20-28 藤原宮跡内裏東官衙・東方官衙北(ただしこれは「国」が省略されている)
丁酉年(697)若侠国小丹生 評 岡田里三家人三成御調塩二斗 011 荷札集成-127(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
丁酉年(697)若佐国小丹〈〉生里秦人己二斗? 011 荷札集成-117(飛20-27 藤原宮跡北面中門地区
戊戌年(698)若侠国小丹生 評 岡方里人秦人船調塩二斗? 011 藤原宮3-1165(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
戊戌年(698)三野国厚見 評 里秦人荒人五斗 032 藤原宮3-1163(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
戊戌年(698)六月波伯吉国川村 評 久豆賀里 039 藤原宮3-1174(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
己亥年(699)十月吉備中→ 評 軽部里 039 飛20-27上(荷札集成-2 藤原宮跡北面中門地区
己亥年(699)十月上?国阿波 評 松里 039 荷札集成-75(木研5-84 藤原宮跡北辺地区
己亥年(699)十二月二方 評 波多里大豆五斗中 011 藤原宮3-1173(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区 (ただしこれは「国」名が書かれていない)
庚子年(700)四月若佐国小丹生 評 木ツ里秦人申二斗? 031 荷札集成-125(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区

 以上「分類」しましたが、この中で実態として「年次」と「国名」を伴う「里」制は「三野」を別とすれば「六九〇年代」以前が確認できないことから、「持統」即位付近つまり「庚寅年」の時点で全国的な変更があったものと推定します。ただし「国」が前置されない中で「里」表記のものがありますが、上に見るように「年次」付きの木簡では「里」が「五十戸」に後出するのは明らかですから、この「国」名なしの場合も同様であり、「年次」表記が何らかの理由で省略されたかあるいは「削られた」「折られた」等の理由によると思われます。
「庚寅年」の時点付近より後の時代のものは「藤原宮」周辺からの出土に限られているようですから、「庚寅年」に何らかの「改革」が行われたと考えられますが(そのような徴証は『風土記』他各資料にみられます)、それが「持統」の即位と関係しているとみられるとともにその即位が「藤原宮」においてのものであったということを示すものです。(ただし「掘立柱形式」の仮の大極殿であったと思われますが)
 「三野」は「五十戸制」から「里制」への移行が他国に比べ十年近く先行しているように見えます。それについては別途検討することとして、「里制」が「三野」を先蹤として始められたものであり、それを「庚寅年」に全国展開したというように考えられるものです。そして「庚寅年」以前の「評木簡」の多くが「飛鳥京」周辺から出土していることを捉え、多くの論者が「近畿王権」の下に木簡が集められていたと理解しているようですが、私見とは異なります。
 私見では「飛鳥京」の地域は「倭王権」の直轄領域であり、「近畿王権」の誰もが立ち入ることができない「不可侵」の領域であったと考えています。
 各種資料を見ると「飛鳥(明日香)」を冠して宮殿名が呼称されているのは「舒明」「皇極」「天武」に限られており、他に確認できません。たとえば「欽明」の宮については「磯城郡磯城嶋。仍號爲磯城嶋金刺宮」という記事があり、また「敏達」については「宮于百濟大井」とする記事があります。その後「遂營宮於譯語田。是謂幸玉宮」と遷ったようですがこれも「飛鳥」ではありません。その後の「用明」は「宮於磐余。名曰池邊雙槻宮」と書かれていますし、「崇峻」は「宮於倉梯」と書かれています。さらに「推古」は「皇后即天皇位於『豐浦宮』」とあり、その後「遷于小墾田宮。」とされているなどこれらはいずれも「飛鳥(明日香)」を冠して呼ばれてはいません。これはそれ以前の「王宮」についても同様であり、「飛鳥」を冠して呼称された、あるいは「飛鳥」という地域に宮殿を建てた「天皇」はいないというわけです。つまりこれらの「宮」がある地域は「飛鳥」ではないというわけであり、本来の「飛鳥」はかなり「狭い」地域を指す名称ではなかったかと考えられます。現代では拡大して解釈する論者もおられるようですが、実態としてかなり限定的に使用されていたと思われるものです。
 「飛鳥」を冠する「宮名」は「舒明」の「天皇遷於『飛鳥岡傍。是謂岡本宮』」に始まりその後「火災」?があり「田中宮」を仮宮として過ごした後「百済川」の側に「百済(大)宮」を作ったとされますが、この「百済川」についても「飛鳥」の地を流れる川であり「百済宮」も当然「飛鳥百済宮」と呼称されるべき存在であったと思われます。
 「皇極」の場合は「天皇遷移於小墾田宮。或本云。遷於東宮南庭之權宮。」とあり一見「推古」の「小墾田宮」に遷ったと思われますが、その後の記事で「自權宮移幸飛鳥板盖新宮。」とあることから考えると「或本云。遷於東宮南庭之權宮」という方が正確なようであり、この「東宮」は「舒明」の皇太子(中大兄皇子)の宮を指すと思われ、「百済宮」に付随していたと考えるべきでしょうから、そこに「皇極」のための「宮」を増設したとみるべきであり、これまた「飛鳥」の地にあったと考えるべきでしょう。(ただし「孝徳」の死に際して「冬十月癸卯朔。皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。赴難波宮。壬子。天皇崩于正寢。仍起殯於南庭。以小山上百舌鳥土師連土徳主殯宮之事。」という記事から見て「南庭」には「殯宮」を営んだということもあり得ます。)そしてそこから正式な「宮」として「飛鳥板盖新宮」を新設したとするのです。
 「孝徳」は「改新の詔」は「飛鳥板盖新宮」で行ったとみられますが、すぐに「難波」にその本拠を移動させます。『書紀』によれば「是月。天皇御子代離宮。遣使者。詔郡國修營兵庫 蝦夷親附。或本云。壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。」とありますし、その後「壞小郡而營宮」とありますがこの「小郡」は「難波の小郡」を指し、これ以降も「天皇幸于難波碕宮」「車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦」「天皇從於大郡遷居新宮。號曰難波長柄豐碕宮」とするなど終始「難波」に拠点があったものであり、「飛鳥」とは縁が遠い「天皇」でした。ところが「孝徳」の末年には皇太子以下が「往居于倭飛鳥河邊行宮」という事案が発生し、「孝徳」は一人「難波」で死去します。その後の「斉明」はそのまま「飛鳥」に宮殿を構え、皇極時代と同じ「飛鳥板盖宮」に戻ります。その後「災」といいますから「落雷」による火災でしょうか「飛鳥川原宮」へ遷りますが、「於飛鳥岡本更定宮地」ということとなり、「號曰後飛鳥岡本宮」ということとなります。
 その後発生した「百済を救う役」の際「天智」は「筑紫」の「長津宮」で後方支援の指揮をとっていましたが、その後「近江」へ遷都しました。その後を襲った「天武」は「飛鳥浄御原宮」に居を構えます。
 これらの推移を見てわかるように「舒明」「皇極」「斉明」「天武」以外に「飛鳥」に「宮」を構築した天皇はいないのです。
 また、ここに挙げた「舒明」「皇極」(「斉明」も)は「物部」「大伴」という「王権」に非常に近いところにいる豪族の系譜に「仕えた」という記録がないことがすでに明らかとなっています。たとえば、有力豪族である「大伴」「物部」の記録によると「推古」に仕えていた人物の息子の代には「孝徳」に仕えていたこととなっており、この事から彼らが仕えていた「天皇」の記録という「近畿王権」系の資料としては、『推古紀』と『孝徳紀』が元々連続していたことを示すものであって、さらにそこから直接『天武紀』へとつながるものではなかったかということとなるでしょう。
 このことについてはたとえば『伊豫三島縁起』をみても明らかです。それを見ると冒頭に各代の「異族来襲」を撃退した話やそれに関連する事績などが書かれていますが、「舒明」「皇極」のところだけ記事がありません。つまり「舒明」「皇極」の前後を見ると以下のように記事が並びます。

「三十三代崇峻天王位。此代従百済國仏舎利渡。此代端正元暦。配厳島奉崇。面足尊依有契約。同奉崇彼島。毘沙門天王顕彼嶋秘書也。三十四代推古天王位同二暦《庚戌》。三島迫戸浦雨降。此〔石+切〕〔号+虎〕横殿。于今社壇在之。〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。…」

 ここでは「辛丑」とされる「〔車+専〕願元年」記事が「推古」の条に書かれています。この「辛丑年」は「舒明」の末年であり、また「皇極」の初年でもあるはずです。しかしあたかも彼らはいなかったかの如く「推古」の代の記事として書かれているように見えるわけであり、「推古」からいきなり「孝徳」へとつながっています。つまり「舒明」「皇極」「斉明」は「近畿王権」から見ると「いなかった」ものであり、「没交渉」であったことが窺えます。
 ところが『万葉集』になると状況は変わります。「舒明」「皇極」「斉明」という三天皇の事跡、歌が複数掲載されているのに対して「孝徳」の歌は全くみられません。また『万葉集』中の地名が出てくる歌のうち大多数は「飛鳥」の地のものです。これらの状況は他の資料とちょうど逆になっているようです。
 『万葉集』はそもそも「倭国王朝」の勅撰集が元となっていると考えられますから、そこに「舒明」などの歌があるということから考えて、この「飛鳥」の地については、ある特別な意味を持った場所であることが推定されます。
 彼らは上に見たように「近畿王権」に深い関係があると考えられる「大伴」「物部」などと縁が遠く、宮殿のあった場所である「飛鳥(明日香)」という土地は「近畿王権」の誰も「王宮」を建てていないこととなり、しかも遺跡からはその「王宮」が「正方位」つまり正確に「南北」を向いた建物だけで構成されていたことも明らかとなっています。当時「正方位」をとる建物やそのような技術力を持ちまた行使できる権力者がどこにでもいたとは思えず、ここが「倭国王権」の直轄領域であったことが強く示唆されますが、それは「富本銭」の鋳造所が「飛鳥」の領域内にあったことからも言えると思われ、「貨幣」の鋳造が「王権」の特権的事項であることを考えると、この「飛鳥」が「倭王権」の直轄領域であることを強く示唆するものといえるでしょう。そしてその「富本銭」が「近畿王権」の鋳造でないことは『書紀』『続日本紀』にその姿が一切現れないことでも判明します。
 これらのことと「木簡」が多数集まっていたこととは当然深く関係しているものであり、多くは「荷札木簡」であり「王権」に直送される性質の物資が「飛鳥」の地から検出されるということは、この地域に「倭王権」が存在していたことを示すものです。
 「近畿王権」はこの土地には「オフリミット」であり、関与することが出来なかったと考えられるわけです。(次代の「藤原京」もこの土地の至近に造られるわけですが、その領域の一端は「飛鳥」の地にいわば「食い込んでいる」のが確認でき、「藤原宮」が「飛鳥」の地の「延長」として考えられていたことを推定させます。このことから「持統王権」は「倭王権」の分流の一つであることを示唆させるものです。
 結局「飛鳥宮」は「倭王権」の直轄地であり、そこに「倭国王」がいたことを推定させるものであって、決して「近畿王権」の都であったとは想定できないのです。
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通説の在位期間と年干支について (山田春廣)
2021-05-25 15:01:25
James Mac さま
いつもご教示いただきありがとうございます。
ブログ「古田史学とMe」には閲覧する度に触発されております。
 記事「飛鳥の地の性格について」ですが、次の事実にはとても驚いております。富本銭などの論点もからんで、従来の認識を覆す可能性をもっているのではないでしょうか。

・「舒明」「皇極」「斉明」「天武」以外に「飛鳥」に「宮」を構築した天皇はいない
・「舒明」「皇極」(「斉明」も)は「物部」「大伴」という「王権」に非常に近いところにいる豪族の系譜に「仕えた」という記録がない
 とくに、「物部」「大伴」が「仕えた」記録がないという点に関しては、「大和朝廷は神武以来、物部(出雲王朝由来)と深い因縁がある」と考えている私には「そうだったか」と膝を強く打つ思いがしました。
 さて、今回コメントを投稿させていただいたのは、『伊豫三島縁起』に関して、次の点をJames Mac さんはどのように解釈されているのかをお聞きしたかったからです。

質問
「三十四代推古天王位同二暦《庚戌》」とある「庚戌年」は、西暦の6世紀・7世紀では、530年・590年・650年が該当します。
また「〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。」とある「辛丑年」は西暦の6世紀・7世紀では、521年・581年・641年が該当します。
 一方、Wikipediaに載っている通説では、推古天皇の在位期間は、西暦593年1月15日~同628年4月15日とあり、また、孝徳天皇の在位期間は、同645年7月12日~同654年11月24日とあります。
 「庚戌年」を530年や590年とすると、推古天皇の即位前になり、650年としますと推古天皇の退位後になり、これも適合しません。
 また、「辛丑年」は、お説の「舒明」(西暦629年2月2日~同641年11月17日)の末年であり、また「皇極」(同642年2月19日~同645年7月12日)の初年であるなら、641年に当たることになりますが、先の「庚戌年」は641年より以前の出来事なので590年に該当することになり、通説の推古天皇の即位以前となってしまいます。
 もし、『伊豫三島縁起』の記述が事実に基づいている(年干支も含めて正しい)とするなら、これらの通説に従えば矛盾と見える事柄を、どのように解釈すれば整合的になるのでしょうか。うまく説明できるアイデアをお持ちでしたらご教示下さるようお願いいたします。
返信する
『伊豫三島縁起』について (james mac)
2021-06-17 23:39:46
山田様
コメントありがとうございます。

ご質問についてですが、さほどのアイデアはありません。推古の即位とされる「庚戌」の前年の「己酉」は「五八九年」と推定しますから、これは「阿毎多利思北孤」の即位時点と考えており、「端正元年」の意と見ており、「推古」という名称をいわば「借りている」と考えているぐらいです。(縁起中にも「端正元暦」と書かれていますね)
物部・大伴の記録は「推古」などの「天皇名」が書かれた記録とリンクしているためここに現れたものとみています。
ただし「〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。」という文章は「三十七代」の前で「切れている」と思いますが。
「孝徳天王位」からその後の「番匠初」につながるものであり、それ以前とはつながっていないように思われ、その意味で「辛丑」年との関連は薄いと思います。
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