古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「潮満瓊及潮干瓊」と「如意宝珠」について

2024年02月11日 | 古代史
 この記事はかなり以前に書いたものですが、内容を若干アップデートして再度投稿します。

「潮満瓊及潮干瓊」と「如意宝珠」について

 『書紀』の「神代紀」には「山幸彦」と「海幸彦」の「弓矢」と「釣り針」の交換に関する話に引き続き「山幸彦」が「海神」の「宮」に行って歓待され、その後帰還する際に「潮の満ち干」を自在にコントロールすることが出来る「瓊」を、「海神」(の娘)からもらう場面が描かれています。(本文及び「一書の二」及び「三」)
 以下『書紀』当該部分を示します。

「…已而彦火火出見尊因娶海神女豐玉姫。仍留住海宮。已經三年。彼處雖復安樂。猶有憶郷之情。故時復太息。豐玉姫聞之謂其父曰。天孫悽然數歎。蓋懷土之憂乎。海神乃延彦火火出見尊從容語曰。天孫若欲還郷者。吾當奉送。便授所得釣鈎。因誨之曰。以此鈎與汝兄時。則陰呼此鈎曰貧鈎。然後與之。復授潮滿瓊及潮涸瓊而誨之曰。漬潮滿瓊者則潮忽滿。以此沒溺汝兄。若兄悔而祈者。還漬潮涸瓊則潮自涸。以此救之。如此逼惱。則汝兄自伏。…」

 また、「古事記」の「上巻」(神代巻)においても同様に「海神」(綿津見大神)より「釣り針」を返してもらう段で、「兄に返すとき『呪い』の言葉と所作(後ろ手に渡すなど)をするよう」教えられるとともに「鹽盈珠」と「鹽乾珠」を渡されます。
 このようにいずれの神話でも「海神」から「瓊」(珠)を受け取ることとなるわけですが、この「瓊」を「海神」が所持していた、という事や、その瓊が「潮の満ち干」を自在にコントロールすることが出来るものであったことなどが当然ながら重要です。
 『書紀』の「一書の一」及び「四」では「潮滿瓊及潮涸瓊」は出てこないかわりに「鉤」(釣り針)を兄に返すとき「呪(まじな)い」の言葉と所作(「後ろに投げ捨てる」や「後ろ手」に渡すなど)だけをするように教えることとなっています。このような「呪術的」方法はある意味「原始的」であり、「倭国古来」のものであることを推察させるものです。それに対し「潮滿瓊及潮涸瓊」について言えば「呪い」の言葉もありませんし、所作も必要ないようです。これはある意味「近代的」であり、この「神話」の由来が「新しい」と云うことが知られるものと推察されます。つまり、「一書の一」及び「四」の「潮滿瓊及潮涸瓊」がない形の方が本来型に近いのではないかと考えられ、このようなものは「古いタイプ」の説話に属すると考えられます。
 このような「古いタイプ」の説話(神話)はある意味「普遍的」であり、同じようなタイプの神話・伝承の類は主に「南太平洋」の諸国に残されているとされています。
 もちろん日本の「神話」の中には、古来より「口承」で伝えられた「昔語り」様の伝承の類なども含まれていると思われますが、一部については「後代」に「新しく」造られた、或いは新しい「知識」「情報」により「変改」されたものもあったのではないかと考えられ、そのようなものの中に「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を渡されるようなタイプの神話が有ったと推測します。
 つまり、古来より伝えられてきた「純粋」な「神話」が底流にあり、それを「アレンジ」してこの「潮滿瓊及潮涸瓊」が出てくるストーリーが「後から」造られたと考えられるものであり、このような「新しい」と考えられるストーリーに強く関係していると思われるのが「賢愚経」や「大方便仏報恩経」という仏教の経典(これらはいわゆる「律」の経典であり、「小乗仏教」の経典です)に出てくる「説話」です。
 そこには「善の兄王子と悪の弟王子」という兄弟の存在、「善の王子が衆生のために如意寶珠を取りに行く」話、「善の王子が龍宮で如意寶珠を手に入れる」等々「山幸彦神話」に類似した点が数多くあります。これらの経典はかなり早い時期に「北魏」などで漢訳されており、「南北朝期」(五-六世紀)には「中国国内」でかなり著名であったものです。
 これらの経典が倭国にも早期に伝来していたという可能性もあると思われます。それを示すのが「隋書俀国伝」の記事です。
 そこでは「倭国」の「俗」(民衆)の「風俗」を書いた部分に、「如意寶珠」信仰が「倭国内」で行なわれていたことが示されています。
「隋書俀国伝」
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。」

 そこには「如意寶珠」があるとされており、またその「前段」では「阿蘇山」について語られています。これらは相互に関連した事物であると考えられ、「如意寶珠」に対する信仰と「阿蘇山」及びそれに対する「畏敬」というものが「関連」した事象として語られていると考えられますが、「阿蘇山」はもちろん「九州」(肥後)に存在するものですから、「如意寶珠」に対する信仰も「肥後」中心のものと推量できます。
 また、「如意寶珠」は「宇佐八幡宮」に伝わる「八幡宇佐宮御託宣集」の中にも出てきます。

「八幡宇佐宮御託宣集」
「彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意寶珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」

 これによれば「如意寶珠」は「宇佐」にあったものとされています。
 さらに、『香椎宮縁起』から引用した文章が、『八幡宇佐宮御託宣集』にありますが、それによれば「善紀元年壬寅年」に「大唐」から「八幡大菩薩〔大帯姫也〕」が日本に「還り給いて」、「筑前國香椎に住み居り給う。」とあります。また別の文書『八幡宇佐宮繋三』によれば「文武天皇元年壬辰(ママ)大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ」とあり、「大菩薩」が「如意宝珠」を求めている事が記されています。
 これは「如意宝珠」が原初的な形で一旦倭国内に入り、「如意寶珠」信仰が始まって後、かなり時間が経過してから、「法華経」の伝来に伴い再度「脚光」を浴びるような事態が起こったことを示すのではないかと考えられるものです。このように「九州島」の中では「如意寶珠信仰」が「倭国」の「俗」として広がっていたと考えられます。
 では、その「如意寶珠」に関わる「伝承」は何時の時点で「俗」にもたらされたものなのでしょう。
 この「如意寶珠」伝承の「原型」は、インド起源の「ナーガ」神の持つ「珠」に由来するものとされています。この「ナーガ」神というものは本来は「蛇神」であったものですが、「龍王」と「漢訳」されたために中国(特に北方系部族)において、古来からの想像上の動物である「龍」と同一視されることとなり、「仏」を守護する「天龍八部衆」(「八大龍王」)という形で仏教に取り込まれたと考えられています。つまり「龍王」が登場する「説話」の多くは「北魏」など「北朝」に由来するものと考えられ、「如意寶珠」についても「北朝」からの伝来を想定しなければならないものと考えられます。
 「隋書俀国伝」では当時倭国の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」とされていますから、まだ倭国古来の「神道」形式の信仰が国内では主要なものであったものであり、これと「如意寶珠」についての信仰が「習合」しているものと推察されます。
 そして、ここでいう「巫覡」が「宇佐」の神官である、という可能性もあるでしょう。それであれば、(「宇佐」にあったという)「如意寶珠」を「俗」として「一般民衆」が信仰しているとする「隋書俀国伝」の伝える事と「合致」することになります。
 この「「隋書俀国伝」に書かれた「如意寶珠」に対する信仰は、「開皇年中」に派遣された「遣隋使」の「発言中」のものと推察され、これは「六世紀末」時点における「倭国」の「俗」における「信仰」の状況を示すものです。そして、それとほぼ同時(五九二年か)に「厳島神社」などにおいて「宗像三女神」などをモチーフとして「大菩薩」の「垂迹」が説かれており、これらと同種の現象として「祷祭」の「仏教化」というものも進行していたものと推察されるものです。
 そこ(阿蘇山)で行われている「祷祭」が「山」の人々の信仰に関わるものであることは明白と考えられますが、一方「如意寶珠」は上で見たように「海」に縁が深いものであり、「海」の人々の信仰と深い関係があったものと思慮されます。
 この事は「山」の人々に受け入れられる前に、海の人々(海人族)にまず受け入れられ、その後「山」の人々が受け入れていった過程を表わすものと考えられます。この「如意寶珠」受容のプロセスは「神話」の「海幸彦」「山幸彦」の説話を彷彿とさせるものです。つまり、「山幸彦」(彦火火出見尊)が「兄」である「海幸彦」と「持ち場」を入れ替え、海に行きそこで「海神」より「干満の珠」を受け取り、それを操って「山」にいる「海幸彦」を支配下に置く、というストーリーが表す「実態」が「隋書俀国伝」に示されていると考えられ、この事は「神話」の祖型というものが「隋書倭国伝」付近で形成されたことを示唆するものであると考えられます。
 「倭国」への「法華経」の伝来は『扶桑略記』に引用されている「日吉山薬恒法師法華験記」によると以下の通りとなっています。

「藥恒法花驗記云。敏達天皇六年丁酉。百濟國獻二經論二百餘卷一。此論中。法華同來。」

 つまり、「敏達天皇六年(五七七年)に「百済」から「経論二百巻」が招来されたがその中に「法華経」の経典があった、という事のようです。
 また「二中歴」の年代歴の「端政」の項には以下のようにあります。

「端政五己酉」(自唐法華経始渡)

 とあり、「端正」年間(推定五八九年~五九三年)に「法華経」が伝来したことを記しているようです。
 この二つの例はその伝来元が「中国」(隋)と「百済」というように異なり(「二中歴」には「唐」とありますが、「二中歴」では「中国」は全て「唐」と表記されており、この場合は「隋」のことを指すと考えられます)、別の話と考えられますが、いずれにしろ、「六世紀」の終わり頃に「法華経」がこの国に伝来したのは事実と推量されます。
 ところで、「法華経」は「鳩摩羅什」により「四〇六年」に「漢訳」されており、それは「妙法蓮華経」というものでした。そして、その時点では「提婆達多品」及び「普門品偈頌」は脱落していたと考えられます。そしてそれがそのまま「倭国」に伝来したものと見られ、それを示すように「聖徳太子」の撰と通常言われている「法華義疏」には「提婆達多品」は存在していないようです。
 その後「七世紀初め」の「隋」「唐」時代に「提婆達多品」等が加えられ、「八巻二十八品」となったとされています。(「天台大師)「智顗」が五八七年、金陵(南京)光宅寺で講義したものが『妙法蓮華経文句』(法華文句)であり、その中に「提婆達多品」について言及した部分があるようであり、彼の時代に付加されたのではないかとされているようです)
 「阿毎多利思北孤」を感動させることとなった「法華経」は、上で見たようにその「伝来」の時期から考えて、「提婆達多品」等は含んでいなかったものとみられますが、この「提婆達多品」の中に「如意寶珠」に関わることが書かれているのです。
 つまり、「隋書俀国伝」で「俗」のものとして書かれた「如意寶珠信仰」は「法華経」とは直接関連しないものであり、この時点では受容された「法華経」は「如意寶珠」とは関係ないものとして「王権」により受容されたものと見られることとなります。つまり、「俗」は「小乗仏教」としての「如意寶珠」信仰を、「王」は「大乗」としての「法華経」(阿弥陀信仰)というようにこの時点では「別種」の仏教がそれぞれの階層により受容されていたと考えられるものです。
 「小乗」と「大乗」の違いは端的に言えば「自力」なのか「他力」なのかであり、「大乗」経典に言う「救われるには『他力』が必要」であって、「自分が誰かの『他力』になる」ことによって「広く衆生を救う」という「大乗」の考えは「一般人」よりも「国王」など「統治」の座にある人間にこそ受容される余地があったものと考えられます。このため「阿毎多利思北孤」は「大乗の経典である「法華経」は受け入れたものの、「俗」の多くが信仰していた「如意寶珠信仰」は受け入れていなかったものと見られます。しかし、その後この二つの信仰が「合体」するときが来ます。それは「遣隋使」が「提婆達多品」が補綴された新しい「法華経」をもたらした時点であったものです。
 ここで新たにもたらされた「法華経」の教典中には「提婆達多品」があり、その中には「八歳の龍女の成仏説話」というものがあります。
 この中では「文殊師利菩薩」が「娑竭羅龍王」の宮に行き、そこで「法華経」を説いたところ、「龍王」の「八歳の娘」(竜女)が悟りを開いた、という場面で「宝珠」が出てきます。そこでは「竜女」から「釈迦」に「宝珠」が贈呈されており、この「宝珠」は「価直は三千大千世界なり」とされています。

「提婆達多品第十二」(「法華経」坂本幸雄・岩本裕訳注 岩波文庫より)
「…文殊師利の言わく、有り。娑竭羅龍王の女は年始めて八歳なり。智慧は利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の説きし所の甚深の秘蔵を悉く能く受持し、深く禅定に入りて、諸法を了達し、刹那の頃(あいだ)に、菩提心を発して、不退転を得たり。辯才は無碍にして、衆生を慈念すること猶赤子(しゃくし)の如し。功徳を具足して、心に念じ口に演ぶることは微妙・広大にして慈悲・仁譲あり。志意(こころね)は和雅にして、能く菩提に至れりと。智積菩薩の言わく、我、釈迦如来を見たてまつれば、無量劫に於て難行し苦行し、功を積み徳を累ねて、菩薩の道を求むること、未だ曾て止息したまわず。三千大千世界を観るに、乃至、芥子の如き許りも、是れ菩薩の身命を捨てし処に非ることあることなし。衆生の為の故なり。然して後、乃ち菩提の道を成ずることを得たまえり。此の女の、須臾の頃に於て、便ち正覚を成ずることを信じぜざるなりと。言論未だ訖らざる時、龍王の女、忽ちに前に現れて、頭面に礼敬したてまつり、却(しりぞ)いて一面に住し、偈を以て讃めて曰く 深く罪福の相を達して あまねく十方を照したもう 微妙の浄き法身は 相を具せること三十二 八十種好を以て 用いて法身を荘厳せり 天・人の戴仰(あがめあおぐ)所にして 龍神も咸く恭敬し 一切衆生の類にして 宗奉(たっと)ばざるものなし 又聞きて菩提を成ずること 唯仏のみ当に證知したもうべし。 我は大乗の教を闡(ひら)きて 苦の衆生を度脱(すく)わん 爾の時、舎利弗は、龍女に語りて言わく、汝久しからずして無上道を得たりと謂(おも)えるも、是の事信じ難し。所以はいかん、女身は垢穢(くえ)にして是れ法器に非ず。云何んぞ能く、無上菩提を得ん。仏道は懸曠(はるか)にして、無量劫を経て、勤苦して行を積み、具さに諸度を修して、然して後、乃ち成ずるなり。又、女人の身には猶五つの障(さわり)あり。一には梵天王と作ることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ女身、速かに成仏することを得んと。爾の時、龍女に一つの寶珠あり、価直は三千大千世界なり。持って以て仏に上(たてまつ)る。仏は即ち之を受けたもう。龍女は、智積菩薩と尊者舎利弗に謂いて言わく、我寶珠を献るに、世尊は納受したもう。是の事疾(すみやか)なるや不やと。答えて言わく、甚だ疾なり。女の言わく、汝が神力を以て我が成仏を観よ。復此れよりも速かならんと。当時の衆会は、皆龍女の忽然の間に変じて男子となり、菩薩の行を具して、即ち南方の無垢世界に往き、宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相・八十種好ありて、普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説するを見たり。爾の時、娑婆世界の菩薩と声聞と天・龍の八部と人と非人とは、皆遥かに彼の龍女の成仏して、普く時の会の人・天の為に法を説くを見、心大いに歓喜して悉く遥かに敬礼せり。…」

 この「寶珠」説話を含む「提婆達多品」が添付された「法華経」は「阿毎多利思北孤」の「太子」であった「利歌彌多仏利」により「受容」されたものと思われますが、この「説話」が「如意寶珠」信仰の中心であった「九州島」の人々、特に「海人族」にとって受け入れやすいものであったことは明らかです。彼らにしてみれば「自分たち」の「信仰」を「我が君」が受け入れてくださったと考えても不思議ではありません。そして、それは「利歌彌多仏利」にとって「統治行為」を拡大するのに、非常に有用な「ツール」としても利用可能であったこともまた事実でしょう。少なくとも、この時点以降「如意寶珠」に関わる「小乗的伝承」も「俗」から取り込まれ、それは「海神」から「潮滿瓊及潮涸瓊」を貰う話となって、「神話」として形成・成立していく道筋が整った事を示すと考えられます。
 ところで、上で見たように「神話」の中には仏教の影響が確認されますが、その様なものが『書紀』の「神話」に取り込まれた時点については「諸説」があるようです。一般的には『書紀』や「古事記」編纂の際にはその時点における「最新」の史料が使用されたと考えられ、「同時代性」のあるものも存在していたと考えられますが、この「海幸彦山幸彦神話」に見られるような「如意寶珠」伝承は、それが「神話」に取り込まれるに当たっては、「提婆達多品」が添付された「法華経」の伝来との関連を考慮すべきものと考えられ、この「神話」成立を「後代の潤色」と考えるよりは、その「法華経伝来」時点におけるものと考えるのが自然であり、また可能性が強いものと思料されるものです。
 「王権の「神話」に「法華経」経典が反映していると言うことは、(少なくとも)その「神話」形成の時点というものが「法華経(提婆達多品が添付された妙法蓮華経)」の渡来以降であることを示すものですが、そう考えると従来の説の多くは「神話」そのものが「八世紀」に入ってから『書紀』編纂時点で「取り込まれた」ものとする立場であるようですから、「法華経」受容時点からずいぶん長い年月が経過していることとなってしまいます。(一〇〇年以上)
 それは明らかに不自然であり、そう考えるよりは、「提婆達多品が添付された妙法蓮華経」を「王権」が受容した段階で、これらの「神話」あるいはその素地となるものが形成され、その際に「現実」(「俗」との関係など)を反映したものが取り入れられたという考え方の方が有力ではないかと考えます。つまり、「山幸彦」が「潮滿瓊及潮涸瓊」を授けられるという「神話」の内容は、「倭国王権」による「俗」がその中心であった「如意寶珠」に対する信仰の「受容」という「現実」とそのまま重なっていると想定されるものです。
 この時期は「利歌彌多仏利」による「六十六国分国」という作業が行なわれた時期でもあると推察され、これが「法華経」の経典に基づく「三十三」という数字にその根拠を持つ作業であったことも指摘されており、それらの作業との時期的な整合性も高いものと思料します。
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