古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「律令」と「呉音」

2014年11月04日 | 古代史
 「浄御原天皇」という呼称が「七世紀半ば」の「倭国王」について使用されていると見られることを述べたわけですが、そのことと関係があるのは「律令制」と「呉音」の関係です。
 つまり「大宝律令」の中に「呉音」が存在していると思われるわけです。この「大宝律令」は「七〇一年」に出されたとされますが、少なくとも、「律令」が「施行」される前に「公布」されなければならず、「公布」されるためには律令の「研究」がされなければなりません。そうするとかなりの準備期間が想定されますが、研究が始められたときから「公布」に至る期間、使用されていた漢字の発音(「音」)は「呉音」であったと思われます。
 従来の常識で言うと「漢音」の導入は「八世紀」に入ってから派遣された「遣唐使」が持ち帰った知識や資料によるとされていますから、時間的推移から考えても「大宝律令」は「呉音」で書かれていたと考えざるを得ない事となります。(例えば、「宮内省」を「くないしょう」と呼び「きゅうだいせい」とは呼ばないなど、「大宝令」により制定された「各省」の名前なども「呉音」で発音されていたものです。)
 ところが、他方それと矛盾すると思われるのが「音博士」として王権内に存在していたと考えられる例の二人の「唐国人」である「続守言」と「薩弘烙」です。
 彼等は「書紀」では「白村江の戦い」で捕虜になったとされています。それ以降「唐文化」の担い手として王権内に存在していたと想定されていますが、彼等がいたにも関わらず「呉音」しか知らなかったなどと言うことは考えられないことです。
 「書紀」が「漢音」つまり「中国」の「北方音」で書かれているのは「森博達氏」の研究により明らかになっており、そうならば「大宝令」も必ず「漢音」で書かれたはずでしょう。なぜなら「書紀」の基本部分は(これは「α群」と呼称される)は「持統紀」にすでに書かれていたものと推定されており、そうであるなら「大宝令」に先行することとなるからです。少なくともこれらは同時期に書かれていて不思議はないこととなりますが、にも関わらず「大宝令」は「呉音」で書かれ、また「南朝系条句」をその中に含んでいたとされます。これは「矛盾」であるといえるでしょう。
 既に述べたように「書紀」及び「続日本紀」の中には「唐」の二代皇帝「太宗」の諱に使用されていた「世」と「民」が「諱字」として全く避けられていないことが明らかとなっており、また「百済」をめぐる戦いの後倭国にやってきた「郭務宋」や「劉徳」の帰国に「続守言」「薩弘烙」の両人は同行しなかったと見られます。このことから彼らは「捕虜」として「倭国」に来たものではなくまたその時期も「太宗」の存命中のことではなかったかと推定しました。それを補強するものがこの「呉音」と「南朝系条句」の存在です。
 彼等「続守言」達は「音博士」という職掌でしたから、間違いなく「呉音」を撤廃し「漢音」を導入するのに主たる役割を負っていたものとおもわれますが、彼等が存在していたにも関わらず「大宝令」とそれを元に作られた「王権」が「呉音」で埋め尽くされていたこととなってしまうのです。しかも「続日本紀」には「撰定律令」を担当した人物として当の本人である「薩弘恪」の名が挙げられているのです。

「(七〇〇年)四年六月甲午条」「勅淨大參刑部親王。直廣壹藤原朝臣不比等。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參下毛野朝臣古麻呂。直廣肆伊岐連博得。直廣肆伊余部連馬養。勤大壹『薩弘恪』。…撰定律令。賜祿各有差。」

 このことは「矛盾」の最たるものであり、「薩弘恪」が本当に「律令撰定」に関与したなら、「漢音」で「律令」が書かれたはずであり、そうでないことがこの記事の信憑性に疑いがもたらすものです。
 事実としては「大宝令」には「漢音」が使用されず、また「武徳律令」を「範」としているとみられることから、彼等が「音博士」という役職に就く以前に「大宝令」はすでに作られていたという考えに傾かざるを得ないものです。つまり先の想定に拠れば「大宝令」とそれに先行する「浄御原朝廷制」なるものは「白村江の戦い」の以前に制定されたこととなりますから、その意味では「続守言」「薩弘恪」の両者の来倭時期とも整合するといえるでしょう。
 またそのことは「天智紀」に「御史大夫」という職掌について「今の大納言か」という注が書き込まれており、また直後から文中に「御史大夫」ではなく「大納言」が使用されていることからも推定できます。
 「御史大夫」は「始皇帝」の作った制度ですが、「後漢」の「光武帝」により廃止されたものです。この「御史大夫」を官職名として採用しているという「天智」の自己意識がどこにあるかもまた興味あるところですが、ここで「大納言」という官職名が出てくることにも注目です。この「大納言」の原型である「納言」は「隋」の「高祖」が「隋」建国後「官職名」として採用したものですが、その後「唐」の「高祖」により「武徳三年」に「侍中」に改められました。その後「武則天」の時代にまた復活したものです。
 この経緯を考えると、「天武」「持統」治世期間には「遣唐使」が(正式には)送られていないことを考えると、彼らが「武則天」の政策に精通していたとも考えられず、「納言」については「唐」の制度を真似たものではなく、それ以前の「隋」の制度を真似たものという可能性が高いでしょう。そうであればその主役となったものは「遣隋使」であると考えざるを得ず、彼らからの情報が生きた制度として活用されたとすると、せいぜい「七世紀前半」程度までしか下ることができないことは間違いありません。
 「書紀」で「大」「中」「少」という前置語なしで単独で「納言」として出てくるのは「天武紀」であり(以下の記事)、それは「浄御原律令」というものに「隋制」が大きな影響を及ぼしていることの証左と思われますが、他方それは「天武紀」の本来の年次が「七世紀前半」へと遡上する可能性を含んでいることを示すものです。

「(天武)九年(六八〇年)秋七月甲戌朔。…戊戌。納言兼宮内卿五位舎人王病之臨死。則遣高市皇子而訊之。明日卒。天皇大驚。乃遣高市皇子。川嶋皇子。因以臨殯哭之。百寮者從而發哀。」

「(持統)元年(六八七年)春正月丙寅朔。皇太子率公卿百寮人等適殯宮。而慟哭焉。納言布勢朝臣御主人誄之。禮也。誄畢。衆庶發哀。次梵衆發哀。於是奉膳紀朝臣眞人等奉奠。々畢膳部。釆女等發哀。樂官奏樂。」

 「大宝令」は「続日本紀」において「大略以淨御原朝庭爲准正」という表現がされており、その「淨御原朝庭(律令)」が「開皇律令」を「範」としているらしいことと、既に述べた「浄御原朝庭」あるいは「浄御原天皇」というものが、(少なくとも)「七世紀半ば」の時代あるいはそれ以前の時代や倭国王を指すということを考え合わせると、「大宝令」とその前代の律令である「浄御原律令」の制定は「七世紀前半」が想定されるものであり、そうであれば「唐人」の指導等がなかったこととなりますから、多くの「呉音」が含まれることも当然といえることとなるでしょう。
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