もう一つの不審が「婦女子」についての「髪を結い上げる日」の指定です。『天武紀』の記事では「男女」について「髪を結い上げる日を別に指定する」としています。確かに「男子」についてはその直後に以下の記事があります。
「(天武)十一年(六八二年)六月壬戌朔丁卯(六日)条」「男夫始結髮。仍著漆紗冠。」
しかし、「婦女子」についての記事が見あたりません。これについては「岩波」の「注」でも「女子の場合は未詳」とされ、不審とされているものの、それ以上は詮索されていません。いつ結い上げることとなったのかが不明な訳ですが、「慶雲二年記事」では、逆に「男子」についての記事がなく「婦女子」しか見あたりません。しかもその記事では「日付」が指定されています。これはあたかも『天武紀』記事と直結しているかのようです。
「天武十一年記事」では「髪を結い上げる日」を「十二月卅(三十)日以前」としています。それに対し「慶雲二年」の記事で「重制」された日付は「十二月十九日」であり、これは確かに指定した期限である「十二月三十日」の至近の日付です。
「女子」の髪型の場合「男子」と違いそもそもバリエーションが多かったと見られ、それを少ないパターンに変化させるとするわけですから、反対するものや不満があったものと思われ、期限ぎりぎりまで日付が指定できなかったということが推定されます。その意味でもこのような「十二月十九日」という日付は首肯できるものであり、この日付指定に紆余曲折があったらしいことが強く推定させられます。つまり、この『天武紀』記事と『文武紀』記事の双方は「相補的」であり、あたかも元々「一連の記事」であったものを二つに分けたのではないかと疑わせるものです。
ただしそう考えた場合、なぜ「分けられたのか」、なぜ「女子」の「髪を結い上げる日」の指定した記事だけが別の年次に移動させられたのが疑問となるところです。なぜ同じ年次の記事が別々の年次に移動させられることとなったのでしょうか。
考えられる事としては、いくつかありますが、ひとつには元々の『日本紀』は「六八二年」の途中までしか記事がなかったというケースがあるでしょう。
すでに考察したように『日本書紀』が成立したのはかなり後代であり、原初的には『日本書紀』以前に『日本紀』という史書が成立していたという可能性が考えられます。それがどの年次までのものであったのかが問題であるわけですが、この『天武紀』の途中までが『日本紀』として一旦成立していたということもありうると思えるわけです。それは『文武紀』の記事中に「語在前紀」という言い方がされていることに表れています。
ここにいう「前紀」とは『日本紀』を指すものと考えるべきですから、元々の『日本紀』の範囲がこの年次の途中までであったということがうかがえるものです。さらに『日本紀』が『日本書紀』とは異なるとすれば『続日本紀』も本来のものとは異なるものが成立していた可能性があることとなり、その元々の『続日本紀』の冒頭は『天武紀』の最終年と同じであったということとなりそうであり、そこで「婦女子」の髪型に関する事が「重制」されたということが考えられるでしょう。
ところで、最初に「詔」が出されたとされているのは「天武十一年」つまり「六八二年」とされるわけですが、この年は『文武紀』の「慶雲二年」(七〇五年)と同じく「十二月」は「閏月」ではありませんし、「乙丑」という干支を持った日付も十二月に存在します。しかし「乙丑」は「十九日」ではありません。
ここでは日付は「干支」で表されているわけですが、元々の日付は「干支」とともに「数字日付」としても記録され、また記憶されていたという可能性があると思われるのです。
すでに見たように「伊吉博徳書」の記載や「文武」の即位日付の『書紀』と『続日本紀』での「干支」の違いなどから考えて、この当時「数字日付」での記録が通常であったと見られ、その意味で布告などについても「数字日付」が書かれていたと思われるものであり、そのためこの「数字日付」の記録を無視できなかったということが可能性として考えられます。
当初の詔でも「十二月卅日」というように「数字日付」で期限が切られていたわけですから、その後の「詔」や記録なども「数字日付」で書かれたとすると「天武十一年」はその条件に適合しないこととなります。この年の「十二月乙丑」は「十九日」ではないからです。つまり、このことはこの『天武紀』の詔も元々の年次から移動されているという可能性を示唆するものです。
このような「記事」の改定や潤色あるいは「偽入」などを行なう場合、どこに入れるかどこに移動するかというのはかなり悩ましい問題です。それは「日付」や「干支」などに矛盾を来さないようにしなければならないからであり、できればそのような事をしなくても良い日付(年月)を選ぶものと思われます。つまり「日付干支」その他を書き換える必要がない年次があればそれがベストであると思われます。その場合は「潤色」などの「テクニック」を弄する必要がありません。そのことから考えて、ここ(慶雲二年)に書かれた「日付干支等」はオリジナルの日付干支と同じであったという可能性が考えられます。
つまり本来の日付も「十二月乙丑」であって(しかも閏月ではなく)、「十九日」であったという可能性が浮かびます。
ところで、この「慶雲二年」という段階で『続日本紀』に使用されていた「暦」は「儀鳳暦」でした。しかし、七世紀代には「儀鳳暦」が使用されていたという形跡はありません。別途述べますが、この当時(七世紀半ば)以降は「戊寅暦」が使用されていたと考えられます。この暦によって「十二月乙丑」が「十九日」になる年次を検索してみると、「六四八年」が該当します。(というより、このような条件を満たす年次は実は「七世紀」にはこの「六四八年」の「一年」しかないのです)
この年は「十二月」には閏月がなく、また確かに「十二月乙丑」は「十九日」となります。さらにこの「詔」が出されたとされる「六八二年」の「夏四月癸亥朔乙酉」についていうと、この年が「六四八年」のことであったとすると、四月には「乙酉」という日付は存在しません。しかし、「五月」であれば「乙酉」という日付は存在しそれは「五日」です。つまり「五月五日」の「薬狩り」の日付となるのです。この日には「菖蒲」を「縵」にするという事が決められていたらしいことが「元正」の詔から窺えます。
「(天平)十九年(七四七年)五月丙子朔庚辰条」「天皇御南苑觀騎射走馬。是曰。太上天皇詔曰。昔者五月之節常用菖蒲爲縵。比來已停此事。從今而後。非菖蒲縵者勿入宮中。」
この「元正女帝」(既に「聖武天皇」に禅譲しているため「太上帝」と称される)の「詔」では、「昔」は五月の節(五月五日)には必ず「菖蒲」を「鬘」にしていたものである。それは既に行なわれなくなっているが、今後はそれを復活させ、「菖蒲」を鬘にしなければ宮中に入ってはいけない、とする強い「指示」を出しています。
この「詔」を出した「五月丙子朔庚辰」という日が「五月五日」です。この「五月五日」は「薬狩」の日であり、「鬘」にするという「菖蒲」も薬草とされていたものです。
「元正」によれば、以前はこれを「薬狩」の際には「鬘」としていたというわけですが、『推古紀』の「薬狩」の記事によれば、参加者は皆「冠」を頭にかぶり、それと同色の衣服を身につけ、頭頂には「華飾り」を着けるとされています。但しこれは男性であり、女性はどうであったか不明ですが、当然彼女らも(男性と同様)「華飾り」を頭に着けていたことでしょう。この「華飾り」が「菖蒲」の「花」であったという可能性があるのではないでしょうか。
このことと「髪」を「結い上げる」と言う「詔」とは関連があるものと思われます。それは同じ文脈で「乗馬」に関する作法に言及していることからも窺えます。「薬狩り」では「鹿狩り」をしたらしいことが推定されていますから、「馬」が使用されたであろうと考えられます。その際の乗馬作法についてもこの時点で男女の別をなくすという改定が行なわれたものと見られるわけであり、そう考えると「五月五日」に出された「詔」であるとするのは不自然ではないと考えられます。
既にこの時代高貴な部類の人達は男女とも髪を結い上げていたものであり、それは「冠」をかぶる都合からのことと考えられますが、これを「一般人」にも適用しようとしたのではないでしょうか。つまり「菖蒲」を「縵」にする前提として「髪を結い上げる」という必要性が生じたものと見られるのです。その「詔」が出された「五日」を後代に「乙酉」という日付干支として変換して記録したため、今度はそれを生かすために前月の四月に記事を移動したものと思われるものです。
「(天武)十一年(六八二年)六月壬戌朔丁卯(六日)条」「男夫始結髮。仍著漆紗冠。」
しかし、「婦女子」についての記事が見あたりません。これについては「岩波」の「注」でも「女子の場合は未詳」とされ、不審とされているものの、それ以上は詮索されていません。いつ結い上げることとなったのかが不明な訳ですが、「慶雲二年記事」では、逆に「男子」についての記事がなく「婦女子」しか見あたりません。しかもその記事では「日付」が指定されています。これはあたかも『天武紀』記事と直結しているかのようです。
「天武十一年記事」では「髪を結い上げる日」を「十二月卅(三十)日以前」としています。それに対し「慶雲二年」の記事で「重制」された日付は「十二月十九日」であり、これは確かに指定した期限である「十二月三十日」の至近の日付です。
「女子」の髪型の場合「男子」と違いそもそもバリエーションが多かったと見られ、それを少ないパターンに変化させるとするわけですから、反対するものや不満があったものと思われ、期限ぎりぎりまで日付が指定できなかったということが推定されます。その意味でもこのような「十二月十九日」という日付は首肯できるものであり、この日付指定に紆余曲折があったらしいことが強く推定させられます。つまり、この『天武紀』記事と『文武紀』記事の双方は「相補的」であり、あたかも元々「一連の記事」であったものを二つに分けたのではないかと疑わせるものです。
ただしそう考えた場合、なぜ「分けられたのか」、なぜ「女子」の「髪を結い上げる日」の指定した記事だけが別の年次に移動させられたのが疑問となるところです。なぜ同じ年次の記事が別々の年次に移動させられることとなったのでしょうか。
考えられる事としては、いくつかありますが、ひとつには元々の『日本紀』は「六八二年」の途中までしか記事がなかったというケースがあるでしょう。
すでに考察したように『日本書紀』が成立したのはかなり後代であり、原初的には『日本書紀』以前に『日本紀』という史書が成立していたという可能性が考えられます。それがどの年次までのものであったのかが問題であるわけですが、この『天武紀』の途中までが『日本紀』として一旦成立していたということもありうると思えるわけです。それは『文武紀』の記事中に「語在前紀」という言い方がされていることに表れています。
ここにいう「前紀」とは『日本紀』を指すものと考えるべきですから、元々の『日本紀』の範囲がこの年次の途中までであったということがうかがえるものです。さらに『日本紀』が『日本書紀』とは異なるとすれば『続日本紀』も本来のものとは異なるものが成立していた可能性があることとなり、その元々の『続日本紀』の冒頭は『天武紀』の最終年と同じであったということとなりそうであり、そこで「婦女子」の髪型に関する事が「重制」されたということが考えられるでしょう。
ところで、最初に「詔」が出されたとされているのは「天武十一年」つまり「六八二年」とされるわけですが、この年は『文武紀』の「慶雲二年」(七〇五年)と同じく「十二月」は「閏月」ではありませんし、「乙丑」という干支を持った日付も十二月に存在します。しかし「乙丑」は「十九日」ではありません。
ここでは日付は「干支」で表されているわけですが、元々の日付は「干支」とともに「数字日付」としても記録され、また記憶されていたという可能性があると思われるのです。
すでに見たように「伊吉博徳書」の記載や「文武」の即位日付の『書紀』と『続日本紀』での「干支」の違いなどから考えて、この当時「数字日付」での記録が通常であったと見られ、その意味で布告などについても「数字日付」が書かれていたと思われるものであり、そのためこの「数字日付」の記録を無視できなかったということが可能性として考えられます。
当初の詔でも「十二月卅日」というように「数字日付」で期限が切られていたわけですから、その後の「詔」や記録なども「数字日付」で書かれたとすると「天武十一年」はその条件に適合しないこととなります。この年の「十二月乙丑」は「十九日」ではないからです。つまり、このことはこの『天武紀』の詔も元々の年次から移動されているという可能性を示唆するものです。
このような「記事」の改定や潤色あるいは「偽入」などを行なう場合、どこに入れるかどこに移動するかというのはかなり悩ましい問題です。それは「日付」や「干支」などに矛盾を来さないようにしなければならないからであり、できればそのような事をしなくても良い日付(年月)を選ぶものと思われます。つまり「日付干支」その他を書き換える必要がない年次があればそれがベストであると思われます。その場合は「潤色」などの「テクニック」を弄する必要がありません。そのことから考えて、ここ(慶雲二年)に書かれた「日付干支等」はオリジナルの日付干支と同じであったという可能性が考えられます。
つまり本来の日付も「十二月乙丑」であって(しかも閏月ではなく)、「十九日」であったという可能性が浮かびます。
ところで、この「慶雲二年」という段階で『続日本紀』に使用されていた「暦」は「儀鳳暦」でした。しかし、七世紀代には「儀鳳暦」が使用されていたという形跡はありません。別途述べますが、この当時(七世紀半ば)以降は「戊寅暦」が使用されていたと考えられます。この暦によって「十二月乙丑」が「十九日」になる年次を検索してみると、「六四八年」が該当します。(というより、このような条件を満たす年次は実は「七世紀」にはこの「六四八年」の「一年」しかないのです)
この年は「十二月」には閏月がなく、また確かに「十二月乙丑」は「十九日」となります。さらにこの「詔」が出されたとされる「六八二年」の「夏四月癸亥朔乙酉」についていうと、この年が「六四八年」のことであったとすると、四月には「乙酉」という日付は存在しません。しかし、「五月」であれば「乙酉」という日付は存在しそれは「五日」です。つまり「五月五日」の「薬狩り」の日付となるのです。この日には「菖蒲」を「縵」にするという事が決められていたらしいことが「元正」の詔から窺えます。
「(天平)十九年(七四七年)五月丙子朔庚辰条」「天皇御南苑觀騎射走馬。是曰。太上天皇詔曰。昔者五月之節常用菖蒲爲縵。比來已停此事。從今而後。非菖蒲縵者勿入宮中。」
この「元正女帝」(既に「聖武天皇」に禅譲しているため「太上帝」と称される)の「詔」では、「昔」は五月の節(五月五日)には必ず「菖蒲」を「鬘」にしていたものである。それは既に行なわれなくなっているが、今後はそれを復活させ、「菖蒲」を鬘にしなければ宮中に入ってはいけない、とする強い「指示」を出しています。
この「詔」を出した「五月丙子朔庚辰」という日が「五月五日」です。この「五月五日」は「薬狩」の日であり、「鬘」にするという「菖蒲」も薬草とされていたものです。
「元正」によれば、以前はこれを「薬狩」の際には「鬘」としていたというわけですが、『推古紀』の「薬狩」の記事によれば、参加者は皆「冠」を頭にかぶり、それと同色の衣服を身につけ、頭頂には「華飾り」を着けるとされています。但しこれは男性であり、女性はどうであったか不明ですが、当然彼女らも(男性と同様)「華飾り」を頭に着けていたことでしょう。この「華飾り」が「菖蒲」の「花」であったという可能性があるのではないでしょうか。
このことと「髪」を「結い上げる」と言う「詔」とは関連があるものと思われます。それは同じ文脈で「乗馬」に関する作法に言及していることからも窺えます。「薬狩り」では「鹿狩り」をしたらしいことが推定されていますから、「馬」が使用されたであろうと考えられます。その際の乗馬作法についてもこの時点で男女の別をなくすという改定が行なわれたものと見られるわけであり、そう考えると「五月五日」に出された「詔」であるとするのは不自然ではないと考えられます。
既にこの時代高貴な部類の人達は男女とも髪を結い上げていたものであり、それは「冠」をかぶる都合からのことと考えられますが、これを「一般人」にも適用しようとしたのではないでしょうか。つまり「菖蒲」を「縵」にする前提として「髪を結い上げる」という必要性が生じたものと見られるのです。その「詔」が出された「五日」を後代に「乙酉」という日付干支として変換して記録したため、今度はそれを生かすために前月の四月に記事を移動したものと思われるものです。