古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

婦女子の髪型についての「詔」(1)

2015年09月05日 | 古代史
 『天武紀』に男女の「服装」や「髪型」などについての規制の「詔」が出されています。

「(天武)十一年(六八二年)夏四月癸亥朔乙酉(二十二日)条」「詔曰。自今以後。男女悉結髮。十二月卅日以前結訖之。唯結髮之日。亦待勅旨。」

 ここでは「男女共に髪を結い上げるように」という「詔」が出されています。
その後今度は「女三十歳以上」については「任意」とするという「詔」が出されました。

「(天武)十三年(六八四年)閏四月壬午朔条」「…又詔曰。男女並衣服者。有襴無襴。及結紐。長紐。任意服之。其會集之日。著襴衣而著長紐。唯男子者有圭冠。冠而著括緒褌。女年卅以上。髮之結不結。及乘馬縱横。並任意也。別巫祝之類不在結髮之例。」

 さらに「六八六年」になると婦女については、以前出した髪型への規制が撤廃されたように見えます。

「朱鳥元年(六八六年)秋七月己亥朔庚子条」「勅。更男夫著脛裳。婦女垂髮于背猶如故。」

 ところが「七〇五年」になると再度「髪」を結い上げるように指示が出されています。

「(慶雲)二年(七〇五年)十二月乙丑(十九日)条」「令天下婦女。自非神部齋宮宮人及老嫗。皆髻髪。語在前紀。至是重制也。」
 
 ここでいう「髻」(もとどり)とは「髪」を頭上に束ねることをいい、それ以前に出されている「垂髮于背」という背中に垂らす髪型とは明らかに異なります。これを踏まえると、上の流れには二つの点で「疑問」が感じられることとなります。ひとつは最後の「慶雲二年」の記事であり、ここに「重制」とあり「前紀にある」とされていることです。つまり、この年次の「令」は新しく決めたことではなく、「前紀」にあることを「重ねて」決めたことであるという訳です。この「前紀にある」というのは上に見る「天武十一年」の詔を指すと見られますが、注目すべきはここで「重制」とされていることです。
 「隋」の「高祖」の功績の点でもふれたように「重興」という用語は「一度廃れたものを再度興すこと」でした。それに従えば「重制」とは一度改廃された「法」などを再度制定することと受け取ることができそうですが(「岩波」の『大系』の「補注」でも同様の趣旨の説明がされています)ただし、この「重制」という用語は中国の各史書にも例が見られますが、「重ねて出す」という意と「重罰」を課する意味と二つあるようです。

「七舞」(白居易)(「新樂府」より)
「武中,天子始作《秦王破陣樂》以歌太宗之功業。貞觀初,太宗『重制』《破陣樂舞圖》,詔魏征、虞世南等為之歌詞,因名《七舞》。自龍朔已后,詔郊廟享宴,皆先奏之。」

 ここでは「天子」つまり「唐」の高祖(李淵)が「秦王破陣樂」つまり後の「太宗」である「李世民」を賞する楽を造ったが、当の本人の「李世民」が皇帝に即位すると「重制」し、その「楽」に「舞」を付加したという趣旨のようです。この場合は「一度廃された」というわけではありません。
 
(以下「宋書」の例)
「宋書/列傳 卷七十五 列傳第三十五/顏竣」
「先是元嘉中,鑄四銖錢,輪郭形制,與五銖同,用費損,無利,故百姓不盜鑄。及世祖即位,又鑄孝建四銖。三年,尚書右丞徐爰議曰:「貴貨利民,載自五政,開鑄流圜,法成九府,民富國實,教立化光。及時移俗易,則通變適用,是以周、漢俶遷,隨世輕重。降及後代,財豐用足,因循前貫,無復改創。年?既遠,喪亂?經,堙焚剪毀,日月銷減,貨薄民貧,公私?困,不有革造,將至大乏。謂應式遵古典,收銅繕鑄,納贖刊刑,著在往策,今宜以銅贖刑,隨罰為品。」詔可。所鑄錢形式薄小,輪郭不成就。於是民間盜鑄者雲起,雜以鉛錫,並不牢固。又剪鑿古錢,以取其銅,錢轉薄小,稍違官式。雖『重制』嚴刑,民吏官長坐死免者相係,而盜鑄彌甚,百物踊貴,民人患苦之。乃立品格,薄小無輪郭者,悉加禁斷。

 上の例では「既に厳刑」(重い刑)が定められているのに加えさらにもっと『重い刑』を課することとしたけれども…という文意となります。これも前例同様に一旦刑が赦された後に再度刑が下されたというわけではありません。

 また「日本側」の記録にも「重制」が現れています。
(以下「日本三代實録卷第七」からの例)
「(貞観)五年…三月癸亥朔…十五日丁丑。…是日。禁諸國牧宰私養鷹鷂。先是。貞觀元年八月。頒下詔命。不貢御鷹。亦制國司養鷹逐鳥。或聞。多養鷹鷂。尚好殺生。故以獵徒縱横部内。故重制焉。」

 ここでは明確に「貞観元年八月」に出した「禁諸國牧宰私養鷹鷂」という「詔」と同内容のものを「貞観五年」に重ねて出しています。それはその後出された「詔」が徹底されていない状況があったため、改めて同じ内容の詔を出したと言うことのようです。

 これらの例から考えると、「重制」とは、「一度出した詔や令」などと同内容のものやそれに上乗せするような内容のものをで改めて出すという意義が確認できるでしょう。その点で「重興」とは意義が異なるといえるわけですが、そう考えると、『天武紀』の記事と『文武紀』の記事とは互いに「矛盾」している事となることとなります。この考えに従えば、「重制」とは最初の「詔」が出されてそれが変更される以前に出されなければならないこととなります。しかし実際には上に見るように『天武紀』に出されたこの「詔」はその後緩和された後に撤廃されるという経過をたどっています。その経過から見ると「重制」という用語が適切であるかは疑わしいといえますし、もしそうでなくてもこれを「慶雲二年」に至って再度制定する意図が不明といえるでしょう。(続く)
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