既にみたように「皇太神宮儀式帳」によれば「評」の設置と「屯倉」の設置は同時であり、「評督」が「屯倉」を管理している形になっています。ところで、「改新の詔」では「屯倉」を止めるとされていますが、「儀式帳」ではそれが「設置」されたこととなっています。この事から「儀式帳」時点と「改新の詔」時点とは時代の「位相」が異なると考えられるわけですが、その場合、どちらがどうなのかと言うこととなると「既成概念」に捕らわれて「儀式帳」を「七世紀半ば」に置き、「改新の詔」をもっと後代とすると言うのが一般的でした。(当方もそのように考えていた時期がありました)
しかし、すでに述べたように「評制」の施行がもっと早かったと考えると即座にこの「儀式帳」も同様に早かったこととなり、既成の考えに大きく修正を迫ることとなります。それは「伊勢神宮」の成立の時期と、「屯倉」の成立の時期の推定に関わります。
「儀式帳」の記事は「度会宮」の成立と「屯倉」の設置の時期として大きく異ならないことを示していますから、「評制」が施行が早くなると「度会の宮」つまり「伊勢神宮」の成立も当然早まることとなると思われます。それは「遺跡」から「出土」した「剣」の「鍔」の時代推定と見事に合致することとなるものです。
「熊本県菊池市」にある「木柑子フタツカサン古墳」出土の「銀象嵌『鍔』」と「三重県伊勢市」の「南山古墳」から出土した「銀象嵌『鍔』」は、「酷似」という言葉がふさわしいほど良く似ていることが確認されています。その形状、象嵌技法と技術などは「同一工房」によるものという可能性が強く示唆されています。
また、共に「六世紀後半」という時代推定がされていることなどから、この二つの古墳の主には「深い関係」があると考えられるわけですが、それが「伊勢」という地名で連結されているように見えることも重要でしょう。
なぜなら、元々「伊勢」は「肥後」に存在した地名であると考えられ、それがその後「伊勢神宮」の「移転」(「遷宮」と言うべきでしょうか)に伴い、現「伊勢」の地に移動したものと推察されるからです。(これは水野氏の議論をなぞる形になりますが)
また、「伊勢神宮」に強く関連しているとされる「倭姫」という人物は、「垂仁紀」では皇后である「日葉酢媛命」から生まれた第四子とされています。
この「日葉酢媛命」は、その死に際して「夫」である「垂仁天皇」が「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、「殉葬」をやめて「埴輪」に変えさせたというエピソードがある人物であり、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる「書紀」不信論の代表とされています
「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」「皇后日葉酢媛命一云。日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。」
しかし、既に指摘されているように「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」中頃付近で既にかなりの数が現れますが、これは上のエピソードに言うような「出雲」など「島根県」の遺跡の状況とは整合しませんから、説話として不審であるとされるわけですが、他方「九州」は「埴輪」そのものの発生が遅く、また「人形埴輪」については「五世紀後半」に九州地域にも一部に見られるようになりますが、それも「六世紀半ば」になると「埴輪」自体が姿を消します。(ご存じのように「九州」は「石人・石馬」文化でありまた「装飾文化」の集中地点でもあります。)
これらのことは「筑紫」の「古墳」とそれに付随する「埴輪」という観点で考えると、上のエピソードもその「時期」が「整合」していると考えられています。つまり「垂仁天皇」という人物の統治領域の中心は「近畿」ではなく「筑紫」であったという推測が可能となるわけですが、それは「日葉酢媛命」の「皇女」である「倭姫」も「筑紫」あるいはその至近の場所に所在していたという可能性が高くなることを示すものと思料します。(以上は古田氏も言及されていることです)そしてそれは「伊勢」という地名及び「伊勢神宮」という存在そのものがオリジナルが九州にあったという推測を可能とするものであると思われます。
この「九州」の「伊勢」が現在の「伊勢」に移されたということが考えられ、それが現「伊勢神宮」の成立時点と考えると、古墳の示す年代である「六世紀末」という時点がその成立年代として考えられることとなるわけですが、それは「屯倉」「評制」というキーとなる事象とセットとなっているものであり、いずれも「六世紀末」にこの「列島」に出現したものと推定できるでしょう。
(続く)